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リクソン ハクゲン
陸遜 伯言
  
~仁と武を備えた名臣~

 呉の参謀、政治家、軍人。孫権に仕えてのち、呂蒙に協力し、関羽攻略に従事する。劉備が荊州に到来すると、迎撃の司令官となり、夷陵で勝利する。その後荊州を任され、やがて丞相となったが、孫権を諫めて疎まれる。



初期
・揚州の呉郡出身。名門の家柄。
・幼少の頃に父が死に、父の従兄弟・陸康を頼る。陸康が廬江太守となると、陸遜はそれに随行する。
・あるとき、孫策が袁術の指令を受け、廬江に進軍する。陸康は、陸績(陸康の子)、陸遜らを故郷(呉郡)に避難させる。(その後陸康は敗れ、流浪中に病死する。)

・しばらくのち、孫策は暗殺され、弟の孫権が跡を継ぐ。陸遜は、孫権に仕官し、書記官となる。(これをもって、孫家との因縁を解消。但し、なかなか重用されず。)
地方の県に赴任し、屯田校尉を務める。日照りが起こると、まず、領民に穀物を施す。続いて、農耕を大々的に行わせ、桑も育てさせる。結果、民は乗り切れたという。(陸遜は、儒家の家系の出。救民の志は強い。)




対山越
・当時、会稽郡、鄱陽(はよう)郡では、山越(山地の異民族の総称)が幅を利かせる。あるとき、陸遜は私兵を率い、山越の討伐に向かう。険しい山地を進み、敵を次々撃破し、これを併呑する。

・丹陽郡の不服従民を討伐する。(彼等の多くは山越。)山や谷を秘かに進み、あちこちに旗を立て、太鼓、角笛を鳴り響かせる。敵方は大軍が来たと思い動揺。陸遜はこれを撃破する。(この頃から、戦術の才を発揮。)
・その後、東方に行軍し、不服従民を次々併呑。戸籍を整備し、部隊の再編も行う。(江東は未開地が多く、豪族が開拓や発展を主導し、時に強引な征服を伴った。陸遜もまた、そのような豪族に類する。)




対関羽
・孫権が呂蒙を起用し、荊州の関羽に対抗させる。呂蒙は関羽の警戒を解くため、病と公表して任を離れる。代わりに、若手の陸遜を推薦。陸遜は偏将軍(将軍に次ぐ指揮官)に任じられ、荊州に赴任する。
・関羽に書簡を送り、あえて下手に出て油断させる。(策略家気質。)

宜都郡を占拠し、太守を代行する。(荊州西部。)将軍位も与えられる。その後、周辺の異民族を手なずける。
・李異と謝旌を率い、蜀の軍営を攻め落とす。続いて、房陵郡・南郷郡(いずれも荊州北部)を討伐し、制圧する。また、反乱した豪族と異民族を破り、彼等を帰順させる。(以上のように、荊州平定に大きく貢献。しかし、「三国志演義」では省かれている。)


・関羽敗北後、孫権から茂才に推挙される。(茂才とは、官僚の候補枠。)
・孫権は、荊州人を新たに支配下に置く。陸遜は、「彼等に活躍の場を与えるべき」と説き、孫権はそれに従う。




夷陵戦
・劉備が荊州に進軍する。陸遜は孫権に抜擢され、防衛に当たる。夷陵県(荊州宜都郡)に駐屯し、劉備と対峙する。
・劉備が部将の呉班に命じ、平地に陣営を築かせる。陸遜の側では、諸将が攻撃を主張。陸遜は、「敵には計略があるに違いない」と述べ、放置を決める。やがて、敵の伏兵が姿を現し、陣に帰っていく。


・対峙が数か月続く。劉備は、軍を各地に展開させる。呉の諸将は不平を言う。「敵が来た直後に攻撃すべきだった。今や敵は要害を占めており、攻めるのは難しい。」
・これに対し、陸遜は言う。「劉備は百戦錬磨である。計略を十分練ってから攻め入った筈。来た直後の蜀軍は、準備が万端であり、私はこれと交戦するのを避けたのだ。今は敵の意気は衰えており、我が軍にとって好機である。」(陸遜にとって、劉備は基本的に手ごわい敵だった。隙が生じるのをじっと待っていた。)
・火攻めを用い、敵の陣営を次々陥落させ、劉備は潰走する。




重鎮として
・孫権により、荊州牧に任じられる。州都は西陵県(元夷陵県)。

・劉禅の時代、呉と蜀は関係修復にかかる。陸遜は孫権の命令を受け、諸葛亮と書簡のやり取りをする。(両者、知力は同等。性格的にも、ウマが合ったと思われる。)また、孫権が外交文書を作る際、常に添削(てんさく)に当たる。
・各地で穀物が不足すると、陸遜は「諸将に開墾させるべき」と提案。孫権はこれに従う。

・呉臣周魴(鄱陽(はよう)太守)が、魏将曹休と接触。帰順すると偽り、曹休の軍を呉領に誘い込む。陸遜は朱桓、全琮を両翼とし、曹休を敗走させる。




武昌赴任
・孫権が武昌県にあって、呉王朝を開く。年内に建業県に遷都。(武昌は荊州江夏郡、建業は揚州丹陽郡。)陸遜は孫権に代わり、武昌に駐在する。太子の孫登を後見。また、(官位は荊州牧だが、)荊州以外に揚州三郡(豫章、鄱陽、廬陵)も任される。

・公子の一人が闘鶏に凝り出し、そのための設備を整える。陸遜はこれを強く諌める。「士たる者は経書を読み、徳を磨くことに努めるべきです。何のために、このようなものを作られるのですか。」(陸遜は、正統派の儒家。やや融通が利かない性格。)公子はこれを聞き、直ちに取り壊す。
・ある者が、「礼より刑を重視すべき」と主張する。陸遜はこれに強く反対し、「仁、義に基づいた徳が大事」と述べる。(儒家として、確固とした信念。)

・孫権に書簡を送り、指針を説く。「刑罰を重くし過ぎると、かえって治安が乱れます。天下が定まっていない今、まず寛容さをもって、人々を慰撫するのがよいでしょう。また、過去に過ちのある者でも、必要なら起用すべきです。」

・孫権が、夷州(東の海の島々)で人狩りさせることを考える。陸遜は、書簡を送って諌める。「彼方の地の民を手に入れても、役には立ちません。江東だけで十分です。国力を高めることが大事なのです。農事を重視し、課税と賦役を軽減し、民と兵をしっかり養うのがよいでしょう。」しかし、孫権は断行し、多くの損害を出す。




対魏・内患
・孫権が合肥に進軍する(守将満寵)。陸遜は諸葛瑾共々、孫権と同期し、襄陽に進軍する。やがて、機密が漏れ、撤退することとなる。陸遜は敵城を牽制し、機を見て部隊を船に乗らせ、全軍が無事に撤退。
・帰還途中、江夏の三県(石陽など)を急襲し、戦果を挙げる。(史家の裴松之は、無用な戦禍と批判。)

・魏の江夏太守の逯式(ろくしき)が、度々呉領に侵犯する。陸遜は、逯式宛てに意味ありげな手紙を書き、国境地帯に落としておく。これにより、内通の疑いを生じさせ、罷免に追い込む。(陸遜は、詐術にも長けていた。戦わずして勝利。)


・ある者が、鄱陽(はよう)郡で兵を徴用しようとする。陸遜は、「鄱陽は民情が不安定だから、住民蜂起が起こる」と述べる。しかし聞き入れられず、住民たちは反乱。(恐らく山越中心。)陸遜は、自ら彼等の討伐に赴く。敵軍を次々撃破し、これを併呑する。

・孫権が呂壱(りょいつ)を重用する。呂壱は思いのまま法を濫用し、多くの忠臣が害される。陸遜は、潘濬(はんしゅん)と語り合い、慨嘆して涙を流す。潘濬が朝廷に参内し、呂壱の非道を孫権に直訴。やがて、孫権は呂壱を誅殺する。




発言諸々
・呉王朝が成立してのち、一部の群臣がこう主張。「国の経済活動を活発にし、制度も改革すべきです。」(重商政策により、進歩的な国を作ることを考えた。)陸遜はこの意見に反対し、農事重視と救民を説く。

・まず、国政の在り方を述べる。「国は民をもって成り立ち、国の強大さは民力に由来し、財も民によって生み出されます。そもそも、民が豊かで国が弱いという例、民が窮して国は強いという例は、古来ございません。故に、民心を得れば国は治まり、民心を失えば国は乱れます。民に利を分け与えずして、民を使いこなすことはできません。」(これらは、いかにも儒家らしい発言。)
・そして、こう述べる。「しばらくは、恩を施すことを重んじ、百姓の救済を計るべきです。数年後、国が豊かになったとき、改めて計画を考えるのがよいでしょう。」孫権はこれに従う。


・大臣の張温は、常々官界の浄化を考える。曁艶(きえん)という者が、張温に同感しており、あるときこう述べる。「品行に欠ける高官は、全員、兵舎の役人に左遷すべき。」陸遜はこれに反対し、「そのようなことをすれば、(むやみに恨みを買い、)必ず禍いを招くことになる」と述べる。(陸遜も品行を重んじるタイプだが、現実主義者。偏った理想は排する。)陸遜の予測通り、曁艶は後に弾劾を受け、自殺に追い込まれる。


・諸葛恪(若手の気鋭)が、日々権勢を振るう。陸遜は、諸葛恪を諭して言う。「私はいつも、先輩を尊重するようにし、私が昇進する際には、一緒に昇進できるよう取り計らう。また、下の者に対しては、いつも手を差し伸べてやっている。貴公は向こう気のままに行動し、上の者をないがしろにし、下の者を無視しているようだが。そのようなやり方は、『徳を保ち身を守る』という基本に反する。」(以上、陸遜の人格性・処世法がよく分かる発言。)諸葛恪は、後に王朝の実権を握るが、結局失敗する。




丞相就任
・顧雍の後釜として、丞相に任じられる。その後も、荊州に留まり、引き続き州牧の任に当たる。

・孫権が跡目問題で迷い、宮廷は大いに荒れる。陸遜は、孫権に書簡を送り、嫡子と庶子(側室の子)のけじめを述べる。孫権は、これを聞き入れず、逆に陸遜を詰問する。(跡目問題には、しばしば複雑な感情が絡む。正論で割り切れるとは限らない。)
・冷遇されてのち、憤死する。家に余分な財産は一切なし。孫権は後に、子の陸抗に謝罪する。


陳寿は陸遜を評して言う。「当時、劉備は英傑として恐れられていた。一方、陸遜はまだ壮年に達したばかりで、あまり威名はなかった。しかし、鉾先を挫(くじ)いて勝利し、全てが計略通りであった。私は陸遜を称賛するだけでなく、孫権が陸遜の才をよく見抜き、抜擢したことにも驚嘆する。(陸遜は)加えて忠義、憂国の心を持ち、そのために命を縮めた。国家の立派な臣であった。」




周瑜 魯粛 呂蒙 諸葛恪 陸抗 


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