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ヨウコ シュクシ
羊祜 叔子
  
~手腕、人徳を兼備した名臣~

 魏晋の政治家、軍人。司馬炎即位後、荊州に赴任し、一帯で大きな治績を上げる。また、呉征伐の準備を進めつつ、平時は陸抗(国境先の呉将)と良好な関係を保つ。杜預を後継者に指名。



初期
・兗州(えんしゅう)の泰山郡出身。代々名族。夏侯氏の遠縁でもある。また、羊祜の姉は司馬師に嫁ぐ。(つまり、羊祜は、司馬師の義理の甥に当たる。)
・夏侯威に見込まれ、夏侯覇(夏侯威の兄)の娘を娶る。後に夏侯覇は蜀に亡命し、親族の多くは、絶縁の態度を取る。しかし、羊祜はひたすら夏侯覇の身を案じる。

司馬昭から招聘される。中書侍郎(秘書官の一つ)、給事中(宮中での給仕役)、黄門郎(側仕え)を務める。
・当時、皇族の曹髦(そうぼう)が文芸を好み、羊祜はよく詩を献じる。(曹髦は後の帝。)また、文人達には派閥があったが、羊祜はあくまで中立を貫く。




晋王朝成立
・元帝(曹奐)が即位すると、羊祜は秘書監となる。やがて、鍾会(魏の重鎮)に疎んじられ、免官となる。(鍾会は権謀家。いかにも相容れない。)
・鍾会の死後、朝廷に復帰し、従事中郎に任じられる。(従事中郎は、府に置かれる参謀役。羊祜は、恐らく司馬昭の府(相国府)に配属。)


・賈充らと協力し、晋王朝設立、司馬炎即位を推進。(当時、魏王朝の命運は尽きていた。)やがて、司馬炎は曹奐から帝位を譲り受け、晋王朝を開く。
・中軍将軍、散騎常侍(側仕え)に任じられる。やがて、尚書右僕射(公文書担当)、衛将軍となる。常に控えめな態度を取り、賈充ら同僚と権を争わず。




荊州に赴任
都督荊州諸軍事に任んじられ、襄陽郡に駐在。民をよく慰撫し、降伏者に寛大な態度を取り、大いに人心を集める。
・石城県(呉領)の守将が、しばしば国境を侵す。羊祜は策を用い、これを罷免に追い込む。(石城県は、揚州の丹陽郡所属。策の詳細は不明。)その後、軍備を減らし、代わりに大規模に開墾を実行。大量の備蓄を得たという。(ずば抜けた行政能力。)
・車騎将軍に任じられる。


・呉将歩闡(ほせん)が西陵県(元夷陵県)に駐屯。やがて、晋への帰順を決め、陸抗(呉の将)がこれを討伐する。羊祜は、歩闡を救援するため、西陵に進軍する。しかし、陸抗は事前に、対晋の要塞を構築。攻防が続いたが、晋軍は勝てず、歩闡は敗死する。




陸抗との交流
・新しく五つの城を築き、石城県以西を取り込む。

・法を重んじつつ、徳治に努める。呉から、多くの人々が流れてくる。また、呉将の投降を受け入れる態勢を、あらかじめ整えておく。一方、戦争で死亡した呉将の遺体は、常に呉に送り返す。呉の間でも「羊公」と呼ばれ、敬愛される。

・陸抗とは任地が隣接。陸抗は羊祜に倣い、徳に努める。結果、平時は決して争いは起こらず。例えば一方の領地で、食糧が農地に放置されていても、他方の国は略奪しない。また、逃げた家畜が相手国に入ったとき、そのことを相手国に告げると、必ず返してくる。(古代中国は、西欧に比べ、精神主義の文化が根付いている。また、現実問題として、双方地盤固めの時期で、争いは避けたかったのだと思われる。)
・あるとき、陸抗は羊祜に酒を送り、後には、羊祜が良薬を送る。両者共、疑わずに飲む。
・以上は後世、「羊陸之交」という故事となる。




軍備に尽力
征南大将軍に任じられ、儀同三司も加官。(儀同三司は、「儀礼の上で三司(三公)と同じ」という意。)

・対呉の軍備を、着々と整える。また、王濬(おうしゅん)を益州諸軍事に推薦し、軍船を建造させる。(なお、天下(中華)に二国が並立することは、当時の主要宗教(儒教)の世界観では許されない。呉を制するまでは、動乱の時代は終わらず、羊祜には恐らく使命感があった。)

・呉で名臣陸抗が死去する。その二年後、羊祜は武帝(司馬炎)に上奏し、呉征伐を提言する。(既に軍備、戦略共に万全だったのだろう。)しかし、朝臣たちが反対し、当面実行されず。




人徳
・好んで峴山(けんざん)に登る。酒を飲みつつ景色を眺め、しばしば時が流れるのを忘れる。あるとき、側の者に言う。「この山は古来、多くの賢人、才士を迎え入れてきた。また、それよりも多く、私のような普通の人々も登ってきた。彼等の名は全て、歴史の中に埋もれてしまった。悲しく寂しいことだ。私は死して、人々に忘れられた後も、まだこの山へ登りたい。」(羊祜は優れた領主として、既に大きな評価を得ながら、あくまで謙虚に徹していた。)
・それに対し、側の者は言う。「貴方様の徳は、皆が知っています。その素晴らしさは、この山と共に伝えられ、消えることはないでしょう。」
・常々、清廉さを旨とする。余分な財産は必ず、周りに分け与えたという。


・病身になると、後任に杜預を推挙する。
・羊祜の死後、領民も、呉の人々も悲嘆する。
・襄陽の人々は、峴山(けんざん)に「羊公碑」を建立する。誰もがそれを見て泣き、杜預は「堕涙碑」と名付ける。ずっとのちの時代、李白もこの碑石を見て詩を詠む。

・陳寿と同時代の人物であるため、伝記は陳寿「三国志」にはない。「晋書」に立伝されている。




司馬炎 賈充 杜預 陸抗


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