トップページ三国志総合事典(正史)人物事典-呉

ソンケン ブンダイ
孫堅 文台
  
~独自の軍閥を築いた勇将~

 南方の実力者。黄巾や反乱者を破り、地方官としても善政。やがて袁術の傘下に入り、董卓を討伐し、活躍を重ねる。後に劉表を攻めたが、追撃中に討死する。



初期
・揚州の呉郡出身。役人の家に生まれる。祖先は、兵法家の孫武(孫子)と言われる。(真偽は定かではない。)成長後、県の役人となる。
・闊達な性格で、大胆な行動を好む。17歳の頃父と共に船出し、海賊の一団と遭遇。孫堅は単身飛び出すと、四方に指示を出す振りをし、官兵が多数いると思わせる。敵が逃走を始めると、その中の一人を討ち取る。
・この事件で有名になり、仮の県尉に任じられる。(尉は治安担当。)


・会稽郡(揚州)で、許昌という人物が反乱。(反乱の原因は、恐らく政治腐敗。)数万人を従え、陽明皇帝を名乗る。孫堅は司馬(軍のまとめ役)に任じられ、討伐して平定する。
・この功により、徐州の県で丞(次官)となる。その後、二度転任。合計3つの県で丞を務める。(いずれも徐州。)それぞれの任地で、官民の人望を得たという。




対黄巾・対韓遂
・荊州の南陽郡で、黄巾の一団が蜂起する。朝廷は朱儁(しゅしゅん)を遣わし、討伐させる。朱儁は孫堅を配下に欲しいと思い、朝廷に上表する。(なお、孫堅は当時、下邳(かひ)県の丞。)

朱儁の元に参じ、その配下に入る。孫堅の同郷者の一部は、孫堅の赴任先に常に同行していたが、彼等も共に行くことを願う。(孫堅は、武侠集団のリーダーでもあった。)
・朱儁の元で連勝を重ねる。敵は宛(えん)城に籠城し、官軍は攻勢をかける。孫堅は真っ先に城壁を越え、士卒達がその後に続き、黄巾軍に大勝する。


・涼州で辺章、韓遂が反乱。董卓、張温が討伐に向かう。張温は朝廷に上表し、孫堅を配下に加える。
・董卓は協議の場で、傲慢な態度を取り続ける。(辺境出身の豪傑で、独自の権勢を持つ。漢王朝を軽視。)孫堅は張温に対し、董卓処刑を進言する。しかし、張温はためらう。
・孫堅は上官(周鎮)に対し、「大軍で敵城を威圧して欲しい」と頼み、「その間に自分が敵の糧道を断つ」と述べる。(武勇に加え、兵法にも長けていた。)しかし、周鎮はこの進言を却下し、討伐軍は敗退する。
・董卓は後に、孫堅の献策を知り、その武略に感嘆する。




長沙時代
・長沙郡(荊州)で、区星(おうせい)が反乱する。孫堅は、長沙太守に任じられ、反乱鎮圧に当たる。長沙に着任すると、布告を出して言う。「民を慰撫せよ、法を重視せよ、捕らえた賊は勝手に処罰しないように。」(孫堅は、小豪族からの叩き上げ。官軍に属しつつ、民心は常に重んじる。)
・その後、討伐を開始する。自ら部隊を率い、計略も用いて区星を破る。
・続いて、零陵郡、桂陽郡(いずれも荊州)で反乱が起こり、各地の役所を荒らす。孫堅はこれも討伐し、鎮圧する。

・豫章郡(揚州)で反乱が起こると、孫堅は討伐に赴く。部下が越境を問題にし、これに反対したが、孫堅は言う。「我は武が本分だ。管轄外だろうが、その地を救援し、平定するのみだ。」反乱軍は、孫堅が来ると退散。




北上
・袁紹、袁術、曹操らが董卓討伐の軍を起こす。孫堅もこれと同期し、洛陽を目指して北上する。

・その途中、荊州刺史の王叡の拠点を通る。(武陵郡漢寿県。)孫堅と王叡は、旧知の間柄。しかし、王叡は孫堅を一介の武官と見て、常々軽視。(王叡は、高級官僚タイプ。)王叡はまた、武陵太守の曹寅(そういん)とも仲が悪く、「近い内に始末する」と公言する。(なお、武陵郡の首都は、臨沅(りんげん)県。)

・曹寅は文書を偽造し、孫堅に王叡討伐を命じる。孫堅は兵を率い、漢寿の城邑に入る。王叡は城の楼に逃げ、「何の咎か」と叫ぶ。孫堅は言う。「坐しているだけのお前には、事態が理解できまい。」王叡は追い詰められ、毒を飲んで自殺する。


・続いて、南陽郡を通りかかる。太守の張咨(ちょうし)に対し、兵糧の供給を頼もうとする。しかし、張咨は会おうともしない。そこで、孫堅は病になったと偽り、張咨を油断させる。「軍兵を預ける」と言って呼び寄せ、床から飛び起きて殺害する。(もし放置すれば、いつ敵になるか分からない。)その結果、南陽の領民は、孫堅を恨んだという。(領民とは、豪族集団を指すと思われる。恐らく、張咨(潁川出身の名士)と協力態勢を築き、郡県をまとめていた。)


・魯陽県(南陽郡)に行き、袁術(名門貴族)の傘下に入る。袁術の上表により、豫(よ)州刺史に任じられる。陽城県に拠点を置き、周辺で兵を集め、魯陽に戻って練兵する。




対董卓
・部下を拠点(陽城県)に派遣し、兵糧の督促に行かせる。送別の宴の際、董卓の先遣隊数十騎が来る。孫堅は動じず、敵は引き返す。

魯陽城を出て北上する。初戦は、梁県(河南尹)で徐栄(董卓の将)に敗れ、数十騎と共に囲みを破る。(梁県は、司隷河南尹に所属。)
・陽人城(梁県にある城塞)に入る。やがて、董卓配下の胡軫(こしん)と呂布が来攻する。しかし、両将は折り合いが悪い。孫堅はそれに乗じて破り、敵将華雄を討ち取る。


・袁術は、孫堅の勢力拡大を恐れ、兵糧を差し止める。(何者かが讒言(ざんげん)したという。)孫堅は魯陽城に急行し、兵糧手配を取り付ける。
・董卓が配下の李傕を使者とし、孫堅を懐柔しようとする。孫堅はそれを一蹴する。(孫堅は義を行動原理とし、支持を得ている。董卓に付けば、それを失う。)

・洛陽に進軍する。陵墓(皇族の墓)の間で董卓を破り、続いて関で呂布を破る。董卓達はそのまま長安に去る。(「後漢書」)




襄陽攻撃
・洛陽は既に廃墟。孫堅はそれを見て涙を流し、陵墓を修復する。この頃、井戸から「伝国の玉璽」を得たとされる(信憑性は不明)。
・当時、袁術は従兄の袁紹と対立。袁紹は配下の周昂を遣わし、陽城県(孫堅の本拠地)を奪う。孫堅は、洛陽から引き返し、本拠地奪回に向かう。敵軍を度々破り、撤退させる。


・袁術の指令を受け、襄陽城の劉表を討伐する。(孫堅は、まだ半独立勢力。)黄祖(劉表の将)が城外に駐屯し、進路を遮る。孫堅はこれを撃破し、襄陽城に退ける。その後、城を包囲。
・黄祖が城外に脱出し、兵を集めてくる。孫堅はこれを迎撃し、敗走させる。そのまま追撃したが、伏兵の石や矢を浴び、討死する。


・孫賁(孫堅の甥)が残った軍を連れ、袁術の元に身を寄せる。
陳寿は孫堅を評して言う。「勇猛にして剛毅。後ろ盾も持たず、自力で躍進した。張温に董卓誅殺を進言し、後には陵墓を修復した。忠烈の士である。」また、こう記す。「孫堅、孫策は共に軽佻(軽はずみ)な所があった。」




孫策 孫権 袁術 董卓 劉表


トップページ三国志総合事典(正史)人物事典-呉