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リュウビ ゲントク
劉備 玄徳
  
~野心、人徳を兼備した英傑~

 蜀の初代皇帝。北方の州に生まれ、黄巾討伐で活躍し、地方官となる。以後中小勢力を率い、各地を転々とする。諸葛亮を得てのち、益州(南西の広大な州)を制圧し、曹操に対抗する。漢王朝の滅亡後、その後継と称し、蜀王朝を開く。



育ち
・幽州の涿(たく)郡出身。祖父は県令(県の長官)。父は早世し、劉備は母と共に筵(むしろ)を編んで生活する。
・中山国の靖王(前漢の皇族)の子孫とされる。(前漢の皇族の子孫は、全国に結構いたらしい。)

・一族の者の出資により、廬植(ろしょく)の元で学問を学ぶ。(劉備は一応豪族。)しかし、読書をあまり好まず、日々遊蕩に耽る。
・喜怒はあまり表に出さず、あえて謙虚に人と接する。その一方で、顔役達と積極的に交わる。劉備の周りには、自然と人が集まる。




地方官歴任
・黄巾の乱(農民反乱)が起こる。劉備は官軍に加わる。(豪傑の関羽、張飛が護衛官。)戦功を立て、安熹(あんき)県の尉に任じられる。(安熹県は、冀州中山国に所属。尉は治安を司る官。)中国の県は町・村くらいの規模。

・旧知の督郵が県に来る。(督郵は郡の官職で、諸県を監察。)劉備は面会を拒否され、宿舎に乗り込み、杖で何度も打ち据える。(「三国志演義」では、張飛の仕業にされている。現在は正史の普及により、劉備の行為であることは知られている。)その後、官を棄て、県を退去する。


・徐州において、下邳(かひ)国の賊を討伐する。戦功を立て、下密県の丞となる。(下密県は、青州北海国に所属。丞は次官。)しかし、今度も、自ら官を棄てる。
・張純(元中山太守)が反乱する。劉備は武勇の評判があり、討伐軍に加えられる。ここでも、戦功を立てる。
高唐県の尉となり、後に令(長官)に昇進する。(高唐県は、青州平原国に所属。令は長官。)




公孫瓚に助力
・都で曹操と出会う。共に沛国(徐州)に行き、兵を集める。(詳細不明。)
・董卓が朝廷を制圧。劉備は董卓討伐に加わる。(詳細不明。)

・賊に敗れ、旧友の公孫瓚の元に行く。(賊の詳細は不明。)袁紹の軍と対戦し、戦功を立て、平原国の相(しょう)となる。(国相は、郡太守と同等。)首都は平原県。
・着任後、治安を取り締まり、同時に福祉を十分行う。また、身分にこだわらず、人士たちと接する。大いに人望を得たという。
・この頃、刺客が劉備を狙い、客人を装って近付く。しかし、劉備が終始謙虚に接したため、自ら正体を話して去る。


・公孫瓚の指令により、高唐県に駐屯する。
・少しのち、また指令を受け、田楷(青州刺史)の元に行く。(州都は、斉国の臨淄(りんし)県。)




小群雄として
・陶謙(徐州牧)が曹操の攻撃を受ける。劉備は、陶謙の救援に赴く。やがて敵は去る。
・陶謙の推薦により、豫(よ)州刺史となる。駐在地は、沛国の小沛県。(元の治所は、譙国譙県。)
・曹操が再び、徐州を攻撃する。しかし、地元で反乱が起き、撤退する。その後、陶謙は死去。劉備は後継者となり、徐州牧に就任する。(以後、群雄の一人。)治所を下邳(かひ)国の下邳県に移転。(元の治所は、東海郡郯(たん)県。)
・呂布(流浪の勇将)が劉備を頼り、傘下に入る。


・袁術(揚州の大軍閥)が徐州に侵攻。広陵県などを経由し、進軍を続ける。劉備は淮陰(わいいん)に駐屯し、しばらくの間防ぐ。(恐らく、地形を巧みに利用した。)
・呂布が裏切り、下邳県を襲う。劉備は止むなく転進し、広陵城を奪還する。その後、袁術を迎撃したが、敗れて退却。兵糧も尽きる。
・広陵城を放棄し、下邳にいる呂布を頼る。呂布の指令により、小沛県に駐在する。呂布は徐州牧を名乗り、劉備を豫州刺史とする。




帰順と反逆
・独自に一万の兵を集める。呂布に警戒され、討伐を受ける。曹操の元に逃れ、豫州牧に任じられる。
・再び小沛城に入る。しかし、高順(呂布配下の名将)に敗れ、曹操と合流。その後、曹操の軍は、呂布を討ち滅ぼす。

・曹操により、左将軍に任じられる。(かなりの厚遇。しかし、実際は、警戒もされている。)
・董承(漢の姻族)が曹操排除の密勅を受け、劉備はこれと結託する。(「三国志演義」では、劉備、董承はいずれも漢の忠臣。史実では、両者とも個人的動機と思われる。)


・曹操の指令を受け、北上する袁術を遮る。たまたま、袁術は病死する。その後、劉備は反逆を開始。下邳を襲撃し、徐州刺史の車冑(曹操配下)を殺害する。その後、関羽を下邳に留め、自身は小沛に移る。

・劉岱と王忠(曹操の将)の攻撃を防ぎ通す。(基本的に、将才に優れる。)曹操は郭嘉の進言に従い、自ら小沛に向かう。(劉備は小勢力だったが、郭嘉は、すぐに力を付けると予測。早めに片を付けるべきと説いた。)劉備は勝てず、冀州の袁紹の元に行く。
・袁紹、袁譚(袁紹の長子)は、いずれも劉備を敬愛したという。




袁紹に助力
・袁紹から兵を与えられ、汝南郡(豫州)に赴く。元黄巾の劉辟(りゅうへき)と結託し、諸県を平定する。
・曹仁(曹操配下の名将)が到来。劉備は、袁紹の兵の指揮に慣れておらず、敗走を余儀なくされる。


・袁紹の元に帰還する。長居は無用と考え、立ち去ることを考える。(袁紹政権は、家臣団が分裂。)そこで、「劉表(荊州牧)に連合を持ち掛ける」と申し出る。
・袁紹は、(これには同意せず、)汝南の共都(元黄巾)との結託を命じる。劉備はこれに従い、再び汝南に赴く。今度は、旧来の兵を指揮。

・蔡陽(曹操の将)を迎撃し、これを討ち取る。一方、袁紹は官渡で敗北し、曹操の本軍が汝南に来る。劉備は逃亡し、劉表の元に行く。(当初の予定通り。)州の首都は、南郡襄陽県。




劉表に助力
・劉表の指令を受け、新野県に駐屯する。(襄陽県の北東。)着任後、一帯で広く人望を集める。
・北東の博望(はくほう)県に進軍し、夏侯惇(曹操の将)と対峙する。やがて撤退を決めるが、伏兵を用意し、追撃の軍を撃破する。

・当時、諸葛亮(字(あざな)は孔明)が、襄陽城外の村に居住。徐州の名族出身で、荊州では学閥に属する。劉備は、訪問して配下に加える。


・曹操が荊州に進軍する。劉表は病死し、子の劉琮は降伏する。劉備は南へと逃れ、多くの民が望んで同行。(曹操は史実でも、苛烈さで知られていた。)
・長阪で追撃を受けたあと、江東(長江の東)の孫権を頼る。孫権は周瑜を司令官とし、赤壁で曹操を撃退する。劉備もこれに貢献。




益州制圧
孫権から、油江口の一帯を与えられる。(長江の南で、南郡の南端。)一帯を「公安」と名付け、城塞を築き、当面の本拠地とする。
・上表し、劉琦(劉表の子)を荊州刺史に据える。

荊州の四郡を攻略。いずれも、平定に成功する。(建前上は、孫権の代理。)
・劉琦の死後、荊州牧に任じられる。


・劉璋(益州牧)が曹操、張魯に圧迫される。(また、領内の情勢も安定せず、軍備が整わない。)劉備は救援すると称し、益州に乗り込む。(新しい領主となる算段。)葭萌(かぼう)関を任されると、一帯で広く人心を得る。

・機を見て反逆を開始し、戦勝を重ねる。また、呼応者も、次々現れたという。(劉璋政権は外来集団(東州派閥)が牛耳っており、土着の豪族は新しい主君を待望。)
・雒(らく)城の攻略を開始する。しかし手こずり、一年後に陥落させる。
・成都(益州の首都)に進軍し、城を囲む。ほどなく劉璋を降伏させ、公安太守とする。自身は、新たな益州牧となる。




益州統治・荊州問題
・最初に、人事に取り掛かる。益州の多様な人士を任用し、新しい体制を構築。
・諸葛亮らに、「蜀科」という刑法を定めさせる。また、塩、鉄の専売を行い、財政の安定を図る。


・孫権から、荊州返還を求められると、言を左右にする。その後、公安城まで赴き、牽制する。
・曹操が漢中(張魯が支配)に進軍する。(漢中は成都の北。)劉備はこれを警戒し、孫権と和睦。荊州を分け合い、益州に帰還する。




蜀王朝設立・呉征伐
・漢中に進軍する。魏軍を破り、一帯を制圧する。曹操の本軍が来ると、守りを固めて撃退する。
漢中王となる。その後、成都に帰還。一方、呉が裏切り、関羽を殺害する。


・曹操死後、子の曹丕(そうひ)が魏王朝を開き、漢は滅亡。劉備は翌年、蜀王朝を開き、漢の正統な後継を称する。
・大軍を率い、呉征伐に赴く。(関羽のために復讐し、義を示すため。また、荊州を奪還し、対魏の態勢を強化するため。)夷陵県(荊州宜都郡)に進出し、知将の陸遜と対峙。長期戦ののち敗れる。
・成都まで戻らず、白帝県(益州東部)に駐在する。


陳寿は劉備を評して言う。「度量が広く意志が強い。寛容で情に厚い。人を知り士を遇する。高祖(劉邦)の風格があり、英雄の器量があった。諸葛亮をよく信任し、子を託した。」




諸葛亮 関羽 曹操 孫権


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