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リュウヒョウ ケイショウ
後漢の群雄。豪族の助力の元、荊州の統治に尽力し、文化的な国を築く。官渡の戦いを傍観し、その後曹操と開戦したが、ほどなく病死する。
・太学(都の国立学校)で学び、儒学を修める。
・当時、朝廷では宦官が専横。一部の儒者が彼等と対立し、「清流派」と呼ばれる。清流派は、しばしば徒党を組んだため、別名「党人」。(一方、宦官グループは「濁流派」と呼ばれた。)劉表も、この清流派の一人。次第に名声を高め、「八俊」の一人に数えられる。
・やがて、「党錮の禁」事件が起こる。(宦官による弾圧事件。)劉表は事前に察し、行方をくらます。
・十年以上のち、外戚の何進が大将軍となり、都で権力を得る。(外戚とは皇后・太后の一族。)何進は宦官と対するため、清流派と結託。劉表も招聘を受け、大将軍府の掾(えん)、及び北軍中候となる。(掾とは府の属官。北軍中候は、北軍(宮殿の守備軍の一つ)の監督官。)
・蒯良(かいりょう)、蒯越、蔡瑁を招き、共に画策する。(いずれも、荊州の有力者。)当時荊州には、不服従民が多く、官の命令に従わない。その指導者たちは横暴で、人望は欠けていたという。
・蒯越の進言に従い、指導者層に偽りの誘いをかける。55人が来ると、全員誅殺する。その後、配下の者たちを取り押さえ、あらかた手なずける。
・江夏郡の賊陳生、張虎のみ従わず、襄陽県(南郡)に駐屯する。劉表は蒯越、龐季(ほうき)を使者とし、礼を尽くさせる。結果、陳生らは恭順。
・孫堅が袁術の指令を受け、襄陽に進軍する。やがて、孫堅は城を包囲。劉表は夜、配下の黄祖を城外に出し、兵を集めさせる。黄祖は帰還時、孫堅に敗れ、追撃を受ける。配下の伏兵が、孫堅を射殺。
・各地の糧道を封鎖し、袁術を困窮させる。(略奪を不可能にした。)やがて、袁術は南陽を去る。
・李傕(りかく)の時代、朝廷に貢物を献上。李傕の意により、荊州牧に昇進する。(それまでは荊州刺史。)
・張済(董卓の残党)が領内に侵入し、略奪を行う。やがて、張済は戦死。(甥の張繍が兵を引き継ぐ。)劉表の部下達は、祝い事を述べる。しかし、劉表はこう言う。「張済は食糧が欠乏し、止むを得ず侵略したのだ。私が歓待しなかったせいで、戦争になってしまった。私は弔辞なら受けるが、祝辞は断る。」(儒者として、あえて徳を示した。)張済の将兵は、この発言を知り、劉表に恭順する。
・張繍を宛県(南陽郡)に駐屯させ、曹操に対抗する。
・少しのち、張繍は曹操に降ったが、ほどなく離反。再び劉表と連合する。張繍は穣県(南陽郡)に駐屯し、劉表はこれを支援する。
・「毛玠伝」には、政令は大雑把だったと記される。(法治より礼教。また、豪族(蒯越、蔡瑁ら)の自治を認め、強い統制はせず。)
・当時、張羨という人物が、長沙郡(荊州)の太守を務める。(首都は臨湘(りんしょう)県。)人心を得ていたが、剛情な性格で、己を慎まない。そのため、劉表(謹厳な儒者)は、この張羨を軽視する。結果、張羨は反逆。
・張羨の討伐を開始する。かなり手こずり、連年鎮圧できず。やがて、張羨は病死し、子の張懌が跡を継ぐ。劉表は攻撃を続け、城を陥落させる。
・袁紹と曹操が開戦する。劉表は、どっち付かずの態度を取る。(双方から信頼を失う態度。)
・袁紹の死後、その子の袁譚と袁尚が争う。劉表は双方に長文の書簡を送るが、やはりどちらの味方もしない。(なお、書簡の文は王粲(おうさん)の作とされる。)
・劉備を北の新野県に置き、曹操に対抗させる。劉備は一帯で人心を得る。劉表は劉備を敬愛していたが、一方では警戒する。
・跡目争いが起こる。劉表は元々、劉琦(長子)を跡継ぎにする予定。しかし、蔡瑁(大豪族の出身)が劉琮(次子)を後押しする。劉表はそれを無視できず、次第に劉琮の方に気持ちが傾く。(なお、劉琮は蔡瑁の姉の子。)
・曹操は袁氏の一族を破り、自ら荊州に進軍する。まもなく劉表は病死し、劉琮は曹操に降る。
・陳寿は袁紹、劉表をまとめて評する。「威容と器量、見識をもって名声を得た。しかし、寛大な外面に反し、内に猜疑心あり。また、策を好みながら、決断力に欠ける。人材も活用できず。」更に言う。「嫡子でない者を跡継ぎにした。私情を優先し、礼制を無視する行為である。次の代で国が滅びたのは、不幸とは言えない(当然の結果である)。」
・范曄(後漢書の著者)は劉表を評して言う。「人格者にして、南方で強大さを誇った。」また、袁紹とまとめて、「資質は十分ではなく、跡目の問題でも誤った」と評している。
劉焉 劉璋 黄祖 劉備 袁術
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リュウヒョウ ケイショウ
劉表 景升
~統治に長けたインテリ群雄~
後漢の群雄。豪族の助力の元、荊州の統治に尽力し、文化的な国を築く。官渡の戦いを傍観し、その後曹操と開戦したが、ほどなく病死する。
清流派時代
・兗州(えんしゅう)の山陽郡出身。漢王朝の皇族。身の丈八尺(約185cm)。穏やかだが、威厳があったという。
・太学(都の国立学校)で学び、儒学を修める。
・当時、朝廷では宦官が専横。一部の儒者が彼等と対立し、「清流派」と呼ばれる。清流派は、しばしば徒党を組んだため、別名「党人」。(一方、宦官グループは「濁流派」と呼ばれた。)劉表も、この清流派の一人。次第に名声を高め、「八俊」の一人に数えられる。
・やがて、「党錮の禁」事件が起こる。(宦官による弾圧事件。)劉表は事前に察し、行方をくらます。
・十年以上のち、外戚の何進が大将軍となり、都で権力を得る。(外戚とは皇后・太后の一族。)何進は宦官と対するため、清流派と結託。劉表も招聘を受け、大将軍府の掾(えん)、及び北軍中候となる。(掾とは府の属官。北軍中候は、北軍(宮殿の守備軍の一つ)の監督官。)
荊州に着任
・董卓の時代、荊州刺史に任じられる。単身馬に乗り、まず宜城県(南郡)に赴く。(なお、前任者は王叡。孫堅と対立し、殺害された。)・蒯良(かいりょう)、蒯越、蔡瑁を招き、共に画策する。(いずれも、荊州の有力者。)当時荊州には、不服従民が多く、官の命令に従わない。その指導者たちは横暴で、人望は欠けていたという。
・蒯越の進言に従い、指導者層に偽りの誘いをかける。55人が来ると、全員誅殺する。その後、配下の者たちを取り押さえ、あらかた手なずける。
・江夏郡の賊陳生、張虎のみ従わず、襄陽県(南郡)に駐屯する。劉表は蒯越、龐季(ほうき)を使者とし、礼を尽くさせる。結果、陳生らは恭順。
対袁術・対曹操
・襄陽県に駐在し、州庁を置く。また、董卓討伐軍に加わり、盟主の袁紹と連絡を取り合う。・孫堅が袁術の指令を受け、襄陽に進軍する。やがて、孫堅は城を包囲。劉表は夜、配下の黄祖を城外に出し、兵を集めさせる。黄祖は帰還時、孫堅に敗れ、追撃を受ける。配下の伏兵が、孫堅を射殺。
・各地の糧道を封鎖し、袁術を困窮させる。(略奪を不可能にした。)やがて、袁術は南陽を去る。
・李傕(りかく)の時代、朝廷に貢物を献上。李傕の意により、荊州牧に昇進する。(それまでは荊州刺史。)
・張済(董卓の残党)が領内に侵入し、略奪を行う。やがて、張済は戦死。(甥の張繍が兵を引き継ぐ。)劉表の部下達は、祝い事を述べる。しかし、劉表はこう言う。「張済は食糧が欠乏し、止むを得ず侵略したのだ。私が歓待しなかったせいで、戦争になってしまった。私は弔辞なら受けるが、祝辞は断る。」(儒者として、あえて徳を示した。)張済の将兵は、この発言を知り、劉表に恭順する。
・張繍を宛県(南陽郡)に駐屯させ、曹操に対抗する。
・少しのち、張繍は曹操に降ったが、ほどなく離反。再び劉表と連合する。張繍は穣県(南陽郡)に駐屯し、劉表はこれを支援する。
善政と反乱
・威と徳をもって統治する。(礼教政治。)学者を積極的に招き、各地に学校を開き、儒学を興隆させる。民に慈愛を施し、士(志ある者)の養成にも力を入れる。領内は平穏になったという。(以上、「後漢書」の記述。)・「毛玠伝」には、政令は大雑把だったと記される。(法治より礼教。また、豪族(蒯越、蔡瑁ら)の自治を認め、強い統制はせず。)
・当時、張羨という人物が、長沙郡(荊州)の太守を務める。(首都は臨湘(りんしょう)県。)人心を得ていたが、剛情な性格で、己を慎まない。そのため、劉表(謹厳な儒者)は、この張羨を軽視する。結果、張羨は反逆。
・張羨の討伐を開始する。かなり手こずり、連年鎮圧できず。やがて、張羨は病死し、子の張懌が跡を継ぐ。劉表は攻撃を続け、城を陥落させる。
中立を選択
・韓嵩(配下の参謀)を曹操の元に遣わし、様子を窺う。曹操は帝を戴いており、韓嵩は朝廷から官位を授かる。帰還後、曹操を称賛し、劉表に帰服を勧める。(韓嵩は出発前、「官位を受けたら、その後は漢臣として意見を述べる」と述べていた。)劉表はそれを裏切りと捉え、激昂して処刑しようとする。周囲の取りなしで、監禁するに留める。・袁紹と曹操が開戦する。劉表は、どっち付かずの態度を取る。(双方から信頼を失う態度。)
・袁紹の死後、その子の袁譚と袁尚が争う。劉表は双方に長文の書簡を送るが、やはりどちらの味方もしない。(なお、書簡の文は王粲(おうさん)の作とされる。)
劉備歓待・跡目問題
・劉備が荊州に亡命し、劉表はこれを歓待する。しばしば、劉備と孫乾(劉備の側近)を呼び、談笑する。・劉備を北の新野県に置き、曹操に対抗させる。劉備は一帯で人心を得る。劉表は劉備を敬愛していたが、一方では警戒する。
・跡目争いが起こる。劉表は元々、劉琦(長子)を跡継ぎにする予定。しかし、蔡瑁(大豪族の出身)が劉琮(次子)を後押しする。劉表はそれを無視できず、次第に劉琮の方に気持ちが傾く。(なお、劉琮は蔡瑁の姉の子。)
・曹操は袁氏の一族を破り、自ら荊州に進軍する。まもなく劉表は病死し、劉琮は曹操に降る。
・陳寿は袁紹、劉表をまとめて評する。「威容と器量、見識をもって名声を得た。しかし、寛大な外面に反し、内に猜疑心あり。また、策を好みながら、決断力に欠ける。人材も活用できず。」更に言う。「嫡子でない者を跡継ぎにした。私情を優先し、礼制を無視する行為である。次の代で国が滅びたのは、不幸とは言えない(当然の結果である)。」
・范曄(後漢書の著者)は劉表を評して言う。「人格者にして、南方で強大さを誇った。」また、袁紹とまとめて、「資質は十分ではなく、跡目の問題でも誤った」と評している。