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ソンサク ハクフ
後漢の群雄。袁術に仕えたが、江東を攻略して独立する。その後も歴戦し、勢力を拡張する。民からも人望があったが、一部の顔役・名士を圧迫し、刺客に殺害される。
・孫堅は荊州に行き、黄巾を討伐する。その際、孫策を寿春に移住させる。(寿春は、揚州九江郡の県。)
・周瑜(名族出身)が孫策の評判を聞き、寿春を訪問する。孫策は同い年の周瑜と親交し、周瑜の住む舒(じょ)に引っ越す。(舒は、揚州廬江郡の県。)一帯の人士と交流。
・陶謙(徐州牧)は孫策を嫌う。(理由は不明。)孫策は陶謙を避け、丹陽郡(揚州)に移住する。(丹陽太守呉景は、孫策の義理の叔父。)一方、孫堅は戦死し、残された将兵は袁術を頼る。(当時の袁術の本拠は、魯陽県。荊州南陽郡に所属。)
・丹陽で数百の兵を集め、寿春に戻ろうとする。途中で、祖郎の私兵団に襲撃され、兵の大半を失う。袁術は孫策に会うと、孫堅の旧兵の中から一千を返す。
・朝廷から、校尉(軍官)の官職を与えられる。
・容貌優れ闊達。談笑を好む。人の意見をよく聞き、更に、適所に人材を配置する。士人や民から、広く人望を集める。
・袁術は孫策を気に入り、高く評価する。袁術軍の幹部である張勲、橋蕤(きょうずい)も、孫策に心服する。
・袁術が廬江郡(太守陸康)を狙う。一方、孫策は廬江に住んでいた頃、陸康に軽んじられていたという。孫策は袁術の指令を受け、陸康討伐に赴く。やがて、城の陥落に成功。陸康は逃亡後、病死する。(この討伐戦の結果、陸家(呉郡の名門)との間に因縁が生じたという。)
・まず、敵城を二つ落とし、長江を渡河。沿岸の二つの要塞を突破し、続いて、牛渚(ぎゅうしょ)にある要塞を陥落させる。また、笮融(さくゆう)を野戦で破り、更に、薛礼(せつれい)を秣陵城から敗走させる。後に再び笮融を破る。
・曲阿県(劉繇の本拠)に進軍する。あるとき、偵察中の太史慈(劉繇の将)と出くわし、自ら渡り合う。孫策は手戟を奪い、太史慈は兜を奪う。
・やがて、劉繇は城から撤退する。孫策は、曲阿県を占拠する。
・行く先々で軍令を厳しくし、略奪の類は一切許さず、民衆の信頼を得る。
・劉繇が後に病死すると、孫策は棺を引き取り、遺族の元に返す。加えて、生活の援助をしたという。
・賢才の張昭を配下にし、国事を委ねる。時に私宅を訪ねるなどし、親交を結んだという。また、張紘(張昭と並ぶ賢才)も同じく配下に加える。(なお、張昭、張紘はいずれも徐州人だが、揚州に避難していた。また、両者は同族ではない。)
・王朗はほどなく投降。孫策は、王朗の教養と徳を考慮し、あえて害は加えない。
・再び呉郡に進軍し、厳白虎(土着豪族)と対する。(厳白虎からすれば、孫策は侵略者。既存の秩序の破壊者。)
・厳白虎は弟の厳與(勇力で知られる)を遣わし、和睦を申し込む。孫策は、会見の場において、戟を投げて殺害する。
・厳白虎の一団に攻勢をかけ、これを破る。厳白虎は、旧知の許昭を頼る。孫策は許昭の義心を重んじ、追撃は行わない。
・少しのち、正式に会稽太守に任じられる。
・袁術が帝位を僭称する。孫策は張紘に命じ、絶縁の手紙を書かせる。
・当時、丹陽郡には、太史慈、祖郎がそれぞれ割拠する。孫策はこれらを討伐し、いずれも併呑する。
・袁術が死去する。その一族や配下の者は、廬江太守の劉勲を頼る。孫策は隙を見て劉勲を破り、袁術の残余勢力を吸収し、袁術の家族も庇護する。続いて、江夏郡の黄祖を破る。
・豫章太守の華歆(かきん)を降伏させ、江東統一が完了する。
・常々虞翻(ぐほん)を尊重し、しばしば談話する。あるとき虞翻に、「貴方を中原に派遣し、江東の学を知らしめたい」と言う。(虞翻は、江東出身の教養人。)虞翻は、「私は貴方の宝物でして、中原に行けば、他人に取られます」と答える。孫策はそれを聞き、「その通りだ」と笑う。
・呂布(徐州の群雄)が張紘に誘いをかけ、配下に加えようとする。(張紘は徐州出身。)孫策は呂布に書簡を送る。「真珠は誰からも重宝されます。君子も同じです。張紘がどこの出身だろうと、関係ありません。」
・その後、会見は始まり、孫策は高岱を捕らえる。多くの人が釈放を訴えると、孫策はかえって機嫌を損ね、高岱を殺害する。(以上、「呉録」の記事。)
・許貢(元呉郡太守)が孫策を警戒し、朝廷に宛てて書簡を書く。「孫策は驍雄でして、項羽の風格があります。放置すると勢力を誇り、命令を聞かなくなります。」(許貢は江東の顔役で、孫策を敵視。漢の忠臣という訳ではない。)この書簡は送付途中、孫策の手に渡る。孫策は許貢を呼び付け、配下の兵に殺害させる。
・郭嘉が曹操に言う。「孫策は江東の有力者達を殺害し、いつ仇と狙われてもおかしくありません。」(恐らく、江東には独自の秩序が存在し、孫策はその解体を考えた。また、陸家の協力を得られなかったのも、強引な征服の一因と思われる。)
・道士の于吉の人気を憎み、殺害したとされる。(「江表伝」、「捜神伝」。信憑性は不明。)
・あるとき、狩猟に出る。その最中、許貢の食客たちに襲われ、負傷して館に帰る。(「捜神伝」には、「于吉の祟りが傷を悪化させた」とある。)ほどなく死去。その前に、弟孫権に後を託す。
・陳寿は孫策を評して言う。「傑出した英気を持ち、猛々しさと鋭さは比類なし。また、非凡な人材を見つけては起用した。志は中華全土に及んだ。」また、こう記す。「孫堅、孫策は共に軽佻(軽はずみ)な所があった。」
孫堅 孫権 周瑜 袁術
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ソンサク ハクフ
孫策 伯符
~快活で戦上手な英傑~
後漢の群雄。袁術に仕えたが、江東を攻略して独立する。その後も歴戦し、勢力を拡張する。民からも人望があったが、一部の顔役・名士を圧迫し、刺客に殺害される。
育ち
・揚州の呉郡出身。孫堅の長子で、孫権の兄。
・孫堅は荊州に行き、黄巾を討伐する。その際、孫策を寿春に移住させる。(寿春は、揚州九江郡の県。)
・周瑜(名族出身)が孫策の評判を聞き、寿春を訪問する。孫策は同い年の周瑜と親交し、周瑜の住む舒(じょ)に引っ越す。(舒は、揚州廬江郡の県。)一帯の人士と交流。
・陶謙(徐州牧)は孫策を嫌う。(理由は不明。)孫策は陶謙を避け、丹陽郡(揚州)に移住する。(丹陽太守呉景は、孫策の義理の叔父。)一方、孫堅は戦死し、残された将兵は袁術を頼る。(当時の袁術の本拠は、魯陽県。荊州南陽郡に所属。)
寿春時代
・袁術は寿春に移転。孫策は、寿春に行き、袁術と会見する。孫策は涙を流しながら、父の遺志を継ぎたいと述べる。袁術は心を動かしたが、すぐには孫堅の旧兵を返さない。「まず、丹陽で兵を集めよ」と言う。 (丹陽は、江東(長江の東)に位置。未開地、不服従民が多い。)
・丹陽で数百の兵を集め、寿春に戻ろうとする。途中で、祖郎の私兵団に襲撃され、兵の大半を失う。袁術は孫策に会うと、孫堅の旧兵の中から一千を返す。
・朝廷から、校尉(軍官)の官職を与えられる。
・容貌優れ闊達。談笑を好む。人の意見をよく聞き、更に、適所に人材を配置する。士人や民から、広く人望を集める。
・袁術は孫策を気に入り、高く評価する。袁術軍の幹部である張勲、橋蕤(きょうずい)も、孫策に心服する。
・袁術が廬江郡(太守陸康)を狙う。一方、孫策は廬江に住んでいた頃、陸康に軽んじられていたという。孫策は袁術の指令を受け、陸康討伐に赴く。やがて、城の陥落に成功。陸康は逃亡後、病死する。(この討伐戦の結果、陸家(呉郡の名門)との間に因縁が生じたという。)
平定1
・袁術が呉景、孫賁(そんほん)に指令し、呉郡の劉繇(りゅうよう)を討伐させる。(孫賁は孫策の従兄。)孫策は、呉景らの救援を志願。将軍位を与えられ、江東に出征する。途中で、周瑜を配下に加える。
・まず、敵城を二つ落とし、長江を渡河。沿岸の二つの要塞を突破し、続いて、牛渚(ぎゅうしょ)にある要塞を陥落させる。また、笮融(さくゆう)を野戦で破り、更に、薛礼(せつれい)を秣陵城から敗走させる。後に再び笮融を破る。
・曲阿県(劉繇の本拠)に進軍する。あるとき、偵察中の太史慈(劉繇の将)と出くわし、自ら渡り合う。孫策は手戟を奪い、太史慈は兜を奪う。
・やがて、劉繇は城から撤退する。孫策は、曲阿県を占拠する。
・行く先々で軍令を厳しくし、略奪の類は一切許さず、民衆の信頼を得る。
・劉繇が後に病死すると、孫策は棺を引き取り、遺族の元に返す。加えて、生活の援助をしたという。
・賢才の張昭を配下にし、国事を委ねる。時に私宅を訪ねるなどし、親交を結んだという。また、張紘(張昭と並ぶ賢才)も同じく配下に加える。(なお、張昭、張紘はいずれも徐州人だが、揚州に避難していた。また、両者は同族ではない。)
平定2
・会稽郡(太守王朗)に進軍する。王朗は、漢の忠臣として抗戦を決め、固陵(土地名)にある城塞に籠城。一帯は要害で、孫策もすぐには勝てない。そこで、城の前でかがり火を焚いて惑わし、秘かに査涜(さとく)という地に進軍。ここの拠点を奪い取る。改めて城を攻撃し、王朗は撤退する。
・王朗はほどなく投降。孫策は、王朗の教養と徳を考慮し、あえて害は加えない。
・再び呉郡に進軍し、厳白虎(土着豪族)と対する。(厳白虎からすれば、孫策は侵略者。既存の秩序の破壊者。)
・厳白虎は弟の厳與(勇力で知られる)を遣わし、和睦を申し込む。孫策は、会見の場において、戟を投げて殺害する。
・厳白虎の一団に攻勢をかけ、これを破る。厳白虎は、旧知の許昭を頼る。孫策は許昭の義心を重んじ、追撃は行わない。
太守時代1
・会稽太守を名乗る。(実質の本拠地は、故郷の呉郡。)また、朱治を呉郡太守とする。更に、郡県の役人を一新させる。・少しのち、正式に会稽太守に任じられる。
・袁術が帝位を僭称する。孫策は張紘に命じ、絶縁の手紙を書かせる。
・当時、丹陽郡には、太史慈、祖郎がそれぞれ割拠する。孫策はこれらを討伐し、いずれも併呑する。
・袁術が死去する。その一族や配下の者は、廬江太守の劉勲を頼る。孫策は隙を見て劉勲を破り、袁術の残余勢力を吸収し、袁術の家族も庇護する。続いて、江夏郡の黄祖を破る。
・豫章太守の華歆(かきん)を降伏させ、江東統一が完了する。
・常々虞翻(ぐほん)を尊重し、しばしば談話する。あるとき虞翻に、「貴方を中原に派遣し、江東の学を知らしめたい」と言う。(虞翻は、江東出身の教養人。)虞翻は、「私は貴方の宝物でして、中原に行けば、他人に取られます」と答える。孫策はそれを聞き、「その通りだ」と笑う。
・呂布(徐州の群雄)が張紘に誘いをかけ、配下に加えようとする。(張紘は徐州出身。)孫策は呂布に書簡を送る。「真珠は誰からも重宝されます。君子も同じです。張紘がどこの出身だろうと、関係ありません。」
太守時代2
・「春秋左氏伝」を読み始める。談論相手として、高岱(呉郡の名士)を呼ぶ。ある者が高岱に言う。「質問されたら『私にも分からない』と答えよ。負けず嫌いの孫策は、気を良くするだろう。」一方で孫策に言う。「もし高岱が『分からない』と答えたら、それは“共に語るに足らない”と考えているのです。貴方を武のみの人物と見て、軽んじているのです。」・その後、会見は始まり、孫策は高岱を捕らえる。多くの人が釈放を訴えると、孫策はかえって機嫌を損ね、高岱を殺害する。(以上、「呉録」の記事。)
・許貢(元呉郡太守)が孫策を警戒し、朝廷に宛てて書簡を書く。「孫策は驍雄でして、項羽の風格があります。放置すると勢力を誇り、命令を聞かなくなります。」(許貢は江東の顔役で、孫策を敵視。漢の忠臣という訳ではない。)この書簡は送付途中、孫策の手に渡る。孫策は許貢を呼び付け、配下の兵に殺害させる。
・郭嘉が曹操に言う。「孫策は江東の有力者達を殺害し、いつ仇と狙われてもおかしくありません。」(恐らく、江東には独自の秩序が存在し、孫策はその解体を考えた。また、陸家の協力を得られなかったのも、強引な征服の一因と思われる。)
・道士の于吉の人気を憎み、殺害したとされる。(「江表伝」、「捜神伝」。信憑性は不明。)
・あるとき、狩猟に出る。その最中、許貢の食客たちに襲われ、負傷して館に帰る。(「捜神伝」には、「于吉の祟りが傷を悪化させた」とある。)ほどなく死去。その前に、弟孫権に後を託す。
・陳寿は孫策を評して言う。「傑出した英気を持ち、猛々しさと鋭さは比類なし。また、非凡な人材を見つけては起用した。志は中華全土に及んだ。」また、こう記す。「孫堅、孫策は共に軽佻(軽はずみ)な所があった。」