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シュウユ コウキン
呉の参謀、政治家、軍人。孫策の江東出征に従い、その後も片腕として活躍する。孫策死後は、孫権の補佐に努め、赤壁、南郡で魏軍を破る。その後、益州攻略を計画したが、途中で病死する。
・孫策の評判を聞き、寿春県(九江郡)まで会いに行く。(恐らく、「新興の孫家の今後を見極める」という意図もあった。)孫策を自分の故郷(廬江郡舒県)に誘い、向かい合わせの屋敷に住まわす。(意気投合し、且つ、孫家に期待をかけた。)
・成長するにつれ、立派な容貌を持つ。また、音楽に精通する。
・袁術が寿春を占拠すると、孫策はその配下に入る。(周瑜は舒に留まる。)やがて、孫策は袁術の指令を受け、呉郡の劉繇(りゅうよう)討伐に向かう。一方、周尚(周瑜の叔父)が丹陽郡の太守に就任し、周瑜は挨拶に出向く。
・孫策が丹陽に使者を出し、周瑜に誘いをかける。周瑜はこれに応じ、軍勢、船、兵糧を手配する。(周瑜は、名家出身の英才。財産と人脈を有し、事務にも長ける。)
・孫策と共に転戦する。(恐らく、作戦と軍政を担当。)孫策は呉郡を制圧し、独自の勢力を築く。
・孫策により、丹陽郡を任される。孫策自身は、会稽郡を攻略し、制圧する。
・袁術は、周瑜を配下にしたいと考える。しかし、周瑜にその気はない。願い出て、居巣県(廬江郡)の長となる。当面袁術の配下という形だが、折を見て孫策(呉郡呉県)の元に戻る算段。(なお、この居巣県は、舒県(周瑜の故郷)の近く。すぐ南西。)
・やがて居巣を離れ、孫策の元に戻り、中郎将に任じられる。これは、198年のこと。丹陽赴任は196年の半ばなので、一年半以上離れていたことになる。
・居巣にいた期間は不明。そう長期ではないと思われる。半年以内とすると、居巣に赴任したのは、197年の中期以降ということになる。一方、袁術の帝位僭称は197年の初め。(つまり、周瑜は、帝位僭称後の袁術と会見。孫策サイドは、袁術が帝位を僭称したあと、すぐに縁を切った訳ではないらしい。)
・廬江郡での人望を見込まれ、牛渚(ぎゅうしょ)の一帯を任される。(牛渚とは、長江南東の一帯(丹陽郡)。周瑜は、廬江郡(長江北西)とのパイプ役。)
・少しのち、春穀県(丹陽郡)の長となる。牛渚の南西。
・中護軍となり、孫策の諸軍を統括する。更に、江夏太守に任じられる。(江夏郡は、実際は黄祖の領地。建前上の任命。)
・孫策が各地を転戦する。(廬江郡、江夏郡、豫章郡、廬陵郡。)周瑜もこれに随行し、勝利に貢献する。
・孫策と別れ、巴丘県(廬陵郡)に駐屯する。
・当時孫権の権勢は強くなく、位も漢王朝の一将軍。部下達は孫権に対し、簡略な礼法で接する。そこで周瑜は、率先して臣下の礼を取る。以後、他の者もそうする。(周瑜の家柄は、元来孫家より上。その周瑜が、孫権を敬う態度を見せたことで、国の体制が明確になった。)
・広い度量があり、大勢から人望を得る。しかし、程普(古参の武将)は周瑜を快く思わず、度々それを態度に表す。周瑜は謙虚な態度を保ち、程普はやがて心服する。
・孫瑜の軍を監督し、山越(山地の異民族の総称)を討伐。二つの砦を陥落させる。
・鄧龍(黄祖の将)が柴桑県に侵入すると、周瑜は防備に当たる。敵軍を撃破し、鄧龍を捕らえる。
・孫権が江夏郡に侵攻し、周瑜は前衛軍を監督する。孫権の軍は、黄祖を討ち取る。
・三日後、周瑜は蒋幹と向き合い、孫権への忠節を述べる。「男子たる者、己を知ってくれる主君に出会えば、外では君臣の義に従い、内では骨肉の恩を結び、献策が用いられる度に、禍福を共にします。例え、古代の名遊説家が甦り、私を見込んで説得にきたとしても、私は感謝を述べるのみで、心を変えることはありません。」(勿論、根底には、「孫権の元にいた方が、力を振るいやすい」という思いもあっただろう。しかし、孫権を認めていたのは、基本的に本心と思われる。)
・蒋幹はこれを聞くと、あえて説得をせず、帰還後周瑜を称賛する。
・なお、以上は「江表伝」の記事。多少の誇張・美化はあるかも知れない。
・孫権に対し、見通しを述べる。「北方はいまだ安定せず、西(北西)には馬超や韓遂がおり、曹操は後方に憂いを持っています。また、北の者は馬に長けていますが、水戦は不得手です。加えて、今は冬でして、馬のまぐさはありません。また、彼等は南の風土に慣れておらず、疫病にかかるでしょう。曹操が敗れる条件は揃っています。」更に、劉備が江東に来援し、孫権は迎撃を決意。
・水軍の司令官に任じられ、赤壁の地に駐屯する。(赤壁は、長江南岸の一帯を指す。江夏郡。)程普が副司令官、魯粛が参謀。その後、曹操の大船団を迎撃し、火攻めをもって敗走させる。(武将の黄蓋が活躍。)
・曹操は、江陵県(南郡の首都)に曹仁を置く。周瑜は、江陵に進軍する。対峙が始まってのち、甘寧を夷陵県(南郡)に遣わし、城を奪わせる。魏軍がこれを包囲すると、周瑜は出向いて撃退する。
・江陵に戻り、曹仁と対峙する。あるとき、自ら敵陣に入ったが、足に矢を受け帰陣。その後も隙を見せず、遂に曹仁を撤退させる。
・南郡太守に任じられる。偏将軍も兼ねる。(偏将軍とは、将軍に次ぐという意味。主君の孫権は将軍(討虜将軍)。)
・孫権に目通りし、天下平定の戦略を提言。まず、こう述べる。「曹操は敗戦の直後で、変事が起こるのを心配しています。今すぐ、将軍(孫権)に戦いを挑む余裕はありません。」
・続いて、こう述べる。「私は孫瑜殿と共に、蜀(益州の中心地帯)を攻略したいと思います。続いて、漢中(益州の最北部)の張魯を併呑し、そのあと、孫瑜殿に(益州を)固めて貰います。そして、馬超(関中の軍閥)に連合を呼び掛けます。これが成ったら、私は帰還して襄陽に入り、将軍(孫権)と共に曹操と対します。これで天下を狙えます。」(周瑜は何より、大規模な戦略を得意とする。戦術家というより戦略家。)孫権は、これに同意する。
・江陵県(南郡)を出て、巴丘(長沙郡)に駐屯する。(巴丘は県名ではなく、下雋(かしゅん)県の中の一帯。)ここで、益州攻略の準備を進めたが、その途中で病死する。(もし長生きしていたら、時代の情勢はだいぶ変わっていただろう。)
・陳寿は周瑜、魯粛をまとめて評する。「曹操の勢いの前に、人々は迷い、取るべき道が分からなかった。そんな中、周瑜、魯粛は明確な見通しを立て、周りに惑わされることなく、己の主張を押し通した。非凡な才能の持ち主であった。」(勿論、実際は、抗戦が正しかったとは言い切れない。帰服していれば、その後、世は治まっていた可能性もある。)
孫策 孫権 魯粛 呂蒙 陸遜
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シュウユ コウキン
周瑜 公瑾
~呉の興隆を支えた英傑~
呉の参謀、政治家、軍人。孫策の江東出征に従い、その後も片腕として活躍する。孫策死後は、孫権の補佐に努め、赤壁、南郡で魏軍を破る。その後、益州攻略を計画したが、途中で病死する。
初期
・揚州の廬江(ろこう)郡出身。一族には三公(三つの大臣職)の経験者が二人。父周異も、洛陽の県令を務めたが、周瑜が幼い頃に死去。・孫策の評判を聞き、寿春県(九江郡)まで会いに行く。(恐らく、「新興の孫家の今後を見極める」という意図もあった。)孫策を自分の故郷(廬江郡舒県)に誘い、向かい合わせの屋敷に住まわす。(意気投合し、且つ、孫家に期待をかけた。)
・成長するにつれ、立派な容貌を持つ。また、音楽に精通する。
・袁術が寿春を占拠すると、孫策はその配下に入る。(周瑜は舒に留まる。)やがて、孫策は袁術の指令を受け、呉郡の劉繇(りゅうよう)討伐に向かう。一方、周尚(周瑜の叔父)が丹陽郡の太守に就任し、周瑜は挨拶に出向く。
・孫策が丹陽に使者を出し、周瑜に誘いをかける。周瑜はこれに応じ、軍勢、船、兵糧を手配する。(周瑜は、名家出身の英才。財産と人脈を有し、事務にも長ける。)
・孫策と共に転戦する。(恐らく、作戦と軍政を担当。)孫策は呉郡を制圧し、独自の勢力を築く。
・孫策により、丹陽郡を任される。孫策自身は、会稽郡を攻略し、制圧する。
居巣に赴任
・袁術が従弟の袁胤を太守とし、丹陽に送り込む。(時期不詳。)周瑜は周尚共々、寿春の袁術に会見する。(袁術と孫策の関係を取り持つため。)・袁術は、周瑜を配下にしたいと考える。しかし、周瑜にその気はない。願い出て、居巣県(廬江郡)の長となる。当面袁術の配下という形だが、折を見て孫策(呉郡呉県)の元に戻る算段。(なお、この居巣県は、舒県(周瑜の故郷)の近く。すぐ南西。)
・やがて居巣を離れ、孫策の元に戻り、中郎将に任じられる。これは、198年のこと。丹陽赴任は196年の半ばなので、一年半以上離れていたことになる。
・居巣にいた期間は不明。そう長期ではないと思われる。半年以内とすると、居巣に赴任したのは、197年の中期以降ということになる。一方、袁術の帝位僭称は197年の初め。(つまり、周瑜は、帝位僭称後の袁術と会見。孫策サイドは、袁術が帝位を僭称したあと、すぐに縁を切った訳ではないらしい。)
重鎮として活躍
・当時、周瑜の恩恵と信頼は、廬江郡に浸透していたという。(この郡は、周瑜の出身地(豪族周家の地元)。また、居巣(廬江郡)に赴任中も、県長、豪族として(地域の安定に)貢献していたと思われる。)・廬江郡での人望を見込まれ、牛渚(ぎゅうしょ)の一帯を任される。(牛渚とは、長江南東の一帯(丹陽郡)。周瑜は、廬江郡(長江北西)とのパイプ役。)
・少しのち、春穀県(丹陽郡)の長となる。牛渚の南西。
・中護軍となり、孫策の諸軍を統括する。更に、江夏太守に任じられる。(江夏郡は、実際は黄祖の領地。建前上の任命。)
・孫策が各地を転戦する。(廬江郡、江夏郡、豫章郡、廬陵郡。)周瑜もこれに随行し、勝利に貢献する。
・孫策と別れ、巴丘県(廬陵郡)に駐屯する。
孫権を補佐
・孫策が刺客に殺害され、弟の孫権が跡を継ぐ。周瑜は、張昭と協力し、諸事を取り仕切る。・当時孫権の権勢は強くなく、位も漢王朝の一将軍。部下達は孫権に対し、簡略な礼法で接する。そこで周瑜は、率先して臣下の礼を取る。以後、他の者もそうする。(周瑜の家柄は、元来孫家より上。その周瑜が、孫権を敬う態度を見せたことで、国の体制が明確になった。)
・広い度量があり、大勢から人望を得る。しかし、程普(古参の武将)は周瑜を快く思わず、度々それを態度に表す。周瑜は謙虚な態度を保ち、程普はやがて心服する。
・孫瑜の軍を監督し、山越(山地の異民族の総称)を討伐。二つの砦を陥落させる。
・鄧龍(黄祖の将)が柴桑県に侵入すると、周瑜は防備に当たる。敵軍を撃破し、鄧龍を捕らえる。
・孫権が江夏郡に侵攻し、周瑜は前衛軍を監督する。孫権の軍は、黄祖を討ち取る。
蒋幹来訪
・曹操が周瑜の評判を聞き、配下の蒋幹を遣わして勧誘。(時期不詳。)蒋幹はまず、「評判を聞いて会いにきた」と述べ、曹操の命令であることは隠す。周瑜はあえて追及をせず、しばらく歓待する。
・三日後、周瑜は蒋幹と向き合い、孫権への忠節を述べる。「男子たる者、己を知ってくれる主君に出会えば、外では君臣の義に従い、内では骨肉の恩を結び、献策が用いられる度に、禍福を共にします。例え、古代の名遊説家が甦り、私を見込んで説得にきたとしても、私は感謝を述べるのみで、心を変えることはありません。」(勿論、根底には、「孫権の元にいた方が、力を振るいやすい」という思いもあっただろう。しかし、孫権を認めていたのは、基本的に本心と思われる。)
・蒋幹はこれを聞くと、あえて説得をせず、帰還後周瑜を称賛する。
・なお、以上は「江表伝」の記事。多少の誇張・美化はあるかも知れない。
赤壁戦・南郡戦
・曹操が荊州を平定し、続いて江東を狙う。曹操は、既に巨大な勢力であり、孫権の諸臣は帰順を述べる。しかし、周瑜、魯粛は抗戦を主張する。(周瑜は孫策の時代から、長年江東の鎮撫に尽力してきた。部外者の曹操に、簡単に明け渡すのを良しとせず。)
・孫権に対し、見通しを述べる。「北方はいまだ安定せず、西(北西)には馬超や韓遂がおり、曹操は後方に憂いを持っています。また、北の者は馬に長けていますが、水戦は不得手です。加えて、今は冬でして、馬のまぐさはありません。また、彼等は南の風土に慣れておらず、疫病にかかるでしょう。曹操が敗れる条件は揃っています。」更に、劉備が江東に来援し、孫権は迎撃を決意。
・水軍の司令官に任じられ、赤壁の地に駐屯する。(赤壁は、長江南岸の一帯を指す。江夏郡。)程普が副司令官、魯粛が参謀。その後、曹操の大船団を迎撃し、火攻めをもって敗走させる。(武将の黄蓋が活躍。)
・曹操は、江陵県(南郡の首都)に曹仁を置く。周瑜は、江陵に進軍する。対峙が始まってのち、甘寧を夷陵県(南郡)に遣わし、城を奪わせる。魏軍がこれを包囲すると、周瑜は出向いて撃退する。
・江陵に戻り、曹仁と対峙する。あるとき、自ら敵陣に入ったが、足に矢を受け帰陣。その後も隙を見せず、遂に曹仁を撤退させる。
・南郡太守に任じられる。偏将軍も兼ねる。(偏将軍とは、将軍に次ぐという意味。主君の孫権は将軍(討虜将軍)。)
その後
・孫権に対し、劉備への警戒を説く。「劉備は英傑でして、配下には勇将の関羽、張飛がいます。彼等に土地を与えると、後々厄介です。劉備を手元に留めておき、美女や高価な品々を与え、篭絡するのがよいでしょう。また、関羽、張飛を別々の地方に遣わします。そうして、3人を分離させるのです。」(周瑜がこういう策を弄するのは、結構珍しい。基本的に、正統派の戦略家。)しかし、孫権は劉備を戦力と見ていたため、この進言に従わない。・孫権に目通りし、天下平定の戦略を提言。まず、こう述べる。「曹操は敗戦の直後で、変事が起こるのを心配しています。今すぐ、将軍(孫権)に戦いを挑む余裕はありません。」
・続いて、こう述べる。「私は孫瑜殿と共に、蜀(益州の中心地帯)を攻略したいと思います。続いて、漢中(益州の最北部)の張魯を併呑し、そのあと、孫瑜殿に(益州を)固めて貰います。そして、馬超(関中の軍閥)に連合を呼び掛けます。これが成ったら、私は帰還して襄陽に入り、将軍(孫権)と共に曹操と対します。これで天下を狙えます。」(周瑜は何より、大規模な戦略を得意とする。戦術家というより戦略家。)孫権は、これに同意する。
・江陵県(南郡)を出て、巴丘(長沙郡)に駐屯する。(巴丘は県名ではなく、下雋(かしゅん)県の中の一帯。)ここで、益州攻略の準備を進めたが、その途中で病死する。(もし長生きしていたら、時代の情勢はだいぶ変わっていただろう。)
・陳寿は周瑜、魯粛をまとめて評する。「曹操の勢いの前に、人々は迷い、取るべき道が分からなかった。そんな中、周瑜、魯粛は明確な見通しを立て、周りに惑わされることなく、己の主張を押し通した。非凡な才能の持ち主であった。」(勿論、実際は、抗戦が正しかったとは言い切れない。帰服していれば、その後、世は治まっていた可能性もある。)