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リクコウ ヨウセツ
陸抗 幼節
  
~才徳優れる二代目~

 呉の政治家、軍人。父陸遜の跡を継ぎ、荊州に駐在する。西陵の反乱を鎮圧し、その後も、国境地帯を長らくまとめる。一方、度々上奏し、国政の補佐に努める。



初期
・呉の重臣陸遜の子。陸遜は荊州刺史だったが、孫権に疎まれる。陸遜の死後、陸抗は校尉に任じられ、その兵五千を引き継ぐ。
・宮中に挨拶に行く。都に滞在中、孫権から使者が到来し、陸遜に関する疑事を二十出される。陸抗は筋道を立てて説明し、孫権のわだかまりは消える。

・中郎将に任じられる。
・諸葛恪と任地を交換。諸葛恪は武昌に赴き、陸抗は、柴桑(さいそう)に赴く。いずれも、荊州江夏郡の県。(柴桑は、かつては揚州豫章郡に所属。)
・あるとき、療養のため都に行き、やがて治癒。任地(柴桑)に戻る際、孫権は涙を流し、別れを惜しむ。将軍位を与えられる。

・寿春で諸葛誕(魏の臣)が反乱し、呉は諸葛誕に援軍を送る。陸抗はこれに加わり、戦功を挙げる。(なお、諸葛誕は後に敗北。)




荊州赴任
・鎮軍将軍に任じられ、荊州に赴任。西陵から、白帝までの地域を司る。(白帝自体は含まない。白帝は益州に属し、蜀の領地。)また、西陵を駐在地とする。(西陵は元夷陵で、荊州西部の県。)
・蜀が滅亡してのち、鎮軍大将軍、益州牧に任じられる。(益州は、実際は魏の領地。建前上の任命。)

・任地が変わり、別の五つの地(信陵・西陵・夷道・楽郷・公安)を司ることとなる。(いずれも荊州。時期は、晋成立後。)新たな駐在地は楽郷。(楽郷は、長江の南に位置。西陵は長江の北。)


・国防に関し、帝(孫皓)に上奏する。「現在、呉は同盟国がいない上、内部が安定しません。また、(呉の)論者たちは、『呉は河川、山岳に囲まれているから安全だ』と申していますが、それらは国防において些末です。臣下の務めとは、(そういう耳障りのいいことは言わず、)主君の耳に逆らっても、御意見を申し上げることです。私はここに、十七の方策を献じます。」(方策の内容は不明。)




人事に関する提言
・何定という人物が朝政を牛耳り、宦官も国政に口を出す。陸抗はこれを知ると、上奏して意見を述べる。

・まず、こう述べる。「古代より、小人(しょうじん)は国家を転覆させます。(漢人文化における「小人」とは、俗物、利己主義者を指す。)彼等には道理がよく見えず、見識が浅く、例え忠義の心を持っていても、重臣の任には耐えません。実際には、(忠義など持たず、)悪事に傾く心性を持ち、一時の愛憎に流されるのですから、なおのことです。彼等は少しでも、己の不利益を予測すれば、どんな無法でも行って防ごうとします。」

・更に、こう述べる。「現在、非凡な人材は少ないとはいえ、例えば名家に生まれ、正しい教えと共に育ってきた者たちがいます。また、清貧の中で己を磨き、資質を身に付けた者たちがいます。彼等を取り立てるべきです。」(名家出身者とそうでない者、双方の長所に言及した。)




反乱鎮圧
・当時、呉将歩闡(ほせん)が西陵に駐屯。やがて、反乱を起こす。陸抗は、歩闡討伐に赴く。
・陸抗の部下達は、西陵を総攻撃することを主張。陸抗はこう言う。「西陵は堅固な地勢で、糧食も多い。また、防備の設備が整っているが、それはかつて私が施したものだ。城はすぐに落ちることはなく、その間に晋から救援が来るだろう。まずは、これを防ぐ準備をすべきだ。」そして、晋軍を防ぐための要塞を築く。(陸遜同様、部下の意見に流されず、己の考えを貫く司令官。)


・羊祜は、配下の楊肇(ようちょう)らを進軍させる。陸抗はこれを撃退する。
・追撃を考えたが、歩闡の動きを案じ、大軍は動かせない。そこで、まず盛んに太鼓を打ち鳴らし、全力で追撃する構えを示し、敵軍を撹乱する。(応変な戦術にも長けていた。これも陸遜同様。)その後、軽装の兵を繰り出し、楊肇を大敗させる。

西陵城に進軍する。攻撃をかけ、これを陥落させる。歩闡の一族、配下の幹部を誅殺し、他の者は全て許す。
・陸抗はその後、功を誇らず、謙虚な態度を崩さない。結果、皆が心服したという。




羊祜との交流
・羊祜は任地に戻ると、徹底して徳治を行い、呉の人々も感嘆する。陸抗は言う。「敵が徳を行い、我が方が酷を行えば、戦う前から負けるようなものだ。我が方も持ち場を正しく守り、小さな利益を追ってはならない。」(陸抗は元々、羊祜に劣らない人格者。また、呉の国情は当時不安定で、人心を引き止めることは必須だった。)かくて陸抗も、日々徳治に努める。国境でのいさかいは、次第に絶える。

・あるとき、陸抗は羊祜に酒を送り、羊祜はこれを飲み干す。また、陸抗は病にかかったとき、羊祜に使者を送り、いい薬を所望する。羊祜は薬を差し出し、陸抗の部下が飲むことを諌めたが、陸抗はためらわず飲む。(両者の諸々の交流は、後に「羊陸之交」と呼ばれる。)

・こうしたことが続く内に、孫皓(呉帝)から問いただされる。陸抗は言う。「私が徳に努めなければ、晋の徳だけが称えられることになり、我が国にとって益になりません。」(当時、「徳」は社会倫理でもあり、逆らうのはいい結果をもたらさない。また、双方(陸抗と羊祜)とも、当分交戦を避けたい状況にあったと思われる。)




忠言
・武昌の左都督の薛瑩(せつけい)が召還され、投獄される。陸抗は上奏し、「人心を失う」と諌め、聞き入れられる。

・各地で出兵が続く。陸抗は上奏し、国力の養成を説く。「まずは、農事を重んじ穀物を蓄え、昇進、左遷、刑罰を明確にし、官吏に徳を教え、民を仁によっていたわり、その上で、時機を選んで行動すべきです。」(儒家らしい方策。)

大司馬、荊州牧に任じられる。
・病身になると、上奏し、国防に関して提言する。「西陵(荊州)、建平(揚州)は国境の要所ですが、敵(晋)が川の上流を押さえているので、多くの守備兵が必要です。黄門府(宦官中心)が有する兵(実質私兵)をこちらに回し、防備を万全にすべきです。」


陳寿は陸抗を評して言う。「身を正しく持しつつ、将来への見通しを持って行動し、父(陸遜)の遺風をよく受け継いだ。父祖以来の立派な家風を守り、先人に若干劣る点があったとはいえ、先人が建てた基礎の上に、見事に仕事を完成させたと言えるだろう。」




陸遜 諸葛恪 羊祜


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