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ソンケン チュウボウ
呉の初代皇帝。孫策の跡を継いでのち、赤壁で曹操に勝利。その後も、魏・蜀と巧みに渡り合う。家臣団をよく取りまとめ、時機を見て呉王朝を開く。しかし、次第に横暴になる。
・陽羨県(呉郡)の長に任じられる。
・孝廉、茂才に推挙される。(いずれも、官僚の候補枠。)奉義校尉代行に任じられる。
・度量があり明朗。仁にして決断力を持つ。また、侠を好んで士を養う。
・常に協議に参画する。その計略能力は、孫策から一目置かれる。(詳細不明。)また、劉勲、黄祖の討伐に従軍する。
・あるとき、刺客が孫策を襲撃。孫策は負傷して床に伏し、孫権に後を託す。その際、孫権にこう述べる。「他国を攻略することにおいて、お前は俺に及ばない。だが人材を活用し、国を保つことにおいて、お前は俺より優れている。」(孫策は用兵家。孫権は、国家戦略と政治。)
・孫策の死後、跡を継いで当主となる。周瑜、張昭が中心となり、孫権の補佐に尽力する。
・その後、顧雍を会稽の丞(次官)に任じ、赴任させる。自身は呉郡にあって、会稽太守の事務を行う。
・廬江太守の李術は、かつて孫策に従っていたが、跡を継いだ孫権を軽視。州の刺史を殺害し、公然と反乱を起こす。(本拠地は皖(かん)城。)孫権は軍を統率し、皖城に向かう。事前に、曹操に書簡を送り、事の次第を説明する。
・李術は、孫権の進軍を知ると、曹操に救援を求める。しかし、曹操は応じない。孫権は、皖城を陥落させ、李術を討ち取る。
・各地に軍を派遣し、山越に対処させる。(山越とは、山地の異民族の総称。)また、度々行政区分を変え、山越対策に心を砕く。
・黄祖(江夏太守)の討伐に向かう。(当時、江夏郡の首都(太守の滞在地)は沙羨県。)長江でその水軍を破り、続いて城を攻撃する。しかし、地元で山越が反乱し、止むなく撤退。
・再び江夏郡に侵攻し、住民を奪略して帰る。
・翌年、甘寧らを従え、黄祖の討伐に向かう。その水軍を破り、城を陥落させ、黄祖を討ち取る。(これにより、長江一帯の要地が、孫権の支配下に入った。)
・抗戦の意志を固める。剣を抜いて机に斬り付け、こう言う。「以後、帰順を言う者は、この机と同様だ」。
・周瑜、程普を左右の都督とし、曹操の撃退に成功する。(有名な「赤壁の戦い」。)
・合肥(がっぴ)に進軍し、同時に、張昭を当塗に進軍させる。(いずれも曹操領(守将不明)。九江郡の県。)しかし、共に戦果は挙がらず。
・劉備に荊州四郡を平定させ、仮の領主とする。(劉備を使い、曹操の対抗馬とする算段。魯粛が提言した。)四郡とは、武陵・長沙・零陵・桂陽。
・曹操が濡須(じゅしゅ)に進軍する。(濡須は長江の北。)孫権は、水軍を取りまとめ、濡須の防備に当たる。局地戦で、敵の水軍を撃破。また、あるとき船団を率い、敵陣を視察に行く。曹操は、その統率ぶりに感嘆し、少しのち撤退。
・皖(かん)城に進軍する。(魏臣朱光(廬江太守)が駐在。)呂蒙、甘寧が活躍し、孫権は城を陥落させる。その後、呂蒙を廬江太守とする。
・常々、虎狩りを好む。馬に乗り先頭に立ち、虎を追って戟を投げる。後に張昭に諫められ、やや控えるようになる。
・他国から外交の使者が来ると、しばしば言葉を弄しからかう。相手が気の利いた返答をすれば、その者を気に入る。劉禅の時代、蜀から費禕(ひい)が使者として来る。費禕はそれまでの使者と違い、ひたすら正論をもって返す。孫権は、この費禕を敬愛したという。
・常々、学問を好む。あるとき、呂蒙、将欽にも読書を勧める(時期不詳)。彼等はこれに従い、見識を広げる。
・曹操が、漢中方面に手を伸ばす。劉備は曹操を警戒し、孫権に和睦を求める。結果、「江夏郡・長沙郡・桂陽郡が呉、南郡・武陵郡・零陵郡は蜀」と決まる。
・大軍を統率し、合肥城に進軍する。包囲を完成させる前、守将の張遼が出撃し、孫権軍は打撃を受ける。孫権は、長い矛で身を守る。
・十日後、退陣を指揮し、自軍の多くが帰途に付く。張遼が本陣に来襲し、孫権の部将達は奮戦する。張遼は呉軍の捕虜に聞く。「先程見かけた将軍は、髭が紫で、背は高く足は短く、騎射が上手かった。あれは何者だ。」「孫権様です。」
・曹操が再び濡須に来攻。孫権は、呂蒙を都督とし、これを防がせる。曹操は夏侯惇を後に残し、自身は撤退する。
・建業県から鄂(がく)県に移り、県名を武昌と改称。この鄂(武昌)は、江夏郡に所属。(魏・蜀との国境に近い。)
・劉備は関羽の復讐、荊州奪還を考え、孫権もそれを予測。孫権は曹丕(魏帝)との敵対を避け、臣従を申し出る。
・曹丕により、呉王(呉国の王)に封じられる。呉国は、魏王朝の藩国。(所領地は不詳。)顧雍を初代尚書令、孫邵(そんしょう)を初代丞相とする。孫邵死後は、顧雍が丞相に就任。
・度々顧雍に使いを出し、己の試案の検討・修正を頼んだという。
・劉備が呉に遠征する。孫権は陸遜を抜擢し、劉備迎撃の司令官とする。陸遜は夷陵(いりょう)県で劉備を破る。
・後に、再び曹丕が来攻する。孫権は徐盛の策により、木材と葦で偽の城壁を作る。曹丕はこれを見て撤退。
・劉備死後、劉禅が跡を継ぎ、諸葛亮が実権を握る。諸葛亮は鄧芝(とうし)を呉に遣わし、孫権はこれを歓待する。
・翌年、張温を遣わし、正式に蜀と同盟する。
・曹丕死後、魏の動揺を見越し、江夏郡に進軍。石陽県(首都)を攻撃する。江夏太守・文聘が城を守備。(この文聘は、魏の良将。)孫権は勝てず。
・即位の年内に、建業に遷都する。建業はかつての本拠。(孫権の本拠地は、呉→建業→武昌→建業。)
・農作物の不作を考慮し、税の取り立てを緩める。
・諸葛恪を丹陽太守に任じ、山越への対処を命じる。(諸臣は反対したが、孫権は抜擢。)諸葛恪は巧みに兵糧攻めし、一帯の山越を全て帰順させる。
・農耕期の労役を禁じる。また、国庫を開き、貧民を救済する。
・魏との国境地帯を攻略。全琮を淮南、諸葛恪を六安(りくあん)に進軍させる。(いずれも揚州。)また、朱然を樊城、諸葛瑾を柤中(そちゅう)に進軍させる。(いずれも荊州。)戦果は挙がるも、決定打は与えられず。
・軍を東の海に派遣し、徐福が行き着いた島を探させる。(徐福は秦の時代、始皇帝の命令を受け、不老不死の薬を探した。)孫権の目的は人狩り。島は結局発見できず、代わりに別の島に上陸し、数千人を連れ帰る。しかし孫権は許さず、責任者達を誅殺する。
・遼東の公孫淵との国交を望み、張昭の諫めも聞かず。公孫淵は後に反逆し、孫権からの使者を殺害する。
・長子の孫登が病死し、跡継ぎ争いが起こる。いわゆる「二宮事件」。孫覇派と孫和派で、宮廷が二つに割れる。(孫和が年長。)しかし、孫権は態度を明確にしない。
・この二宮事件は長引く。あるとき、陸遜が孫権に書簡を送り、「正室の子(孫和)を重んじるべき」と説得。しかし、孫権は聞く耳を持たない。その上、(陸遜の発言に)政治的意図があることを疑い、問い詰める。(陸遜は儒家名士。)陸遜は気を病み、やがて憤死する。
・七男孫亮を跡継ぎにする。また、陸遜の子・陸抗に謝罪する。やがて死去。その後も王朝は安定せず、長らく騒乱が続く。
・陳寿は孫権を評して言う。「身を屈し恥を忍んだ(魏に対しあえて下手に出た)。有能な人材によく仕事を任せ、また、十分な計略と共に行動した。非凡で傑出した人物。」
・その一方で、こうも評する。「猜疑心が強い性格で、積極的に粛清を行った。特に晩年はその傾向を強め、讒言(ざんげん)がはびこるようになった。」
孫堅 孫策 周瑜 魯粛 曹操 劉備
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ソンケン チュウボウ
孫権 仲謀
~豪放にして政事に長けた国主~
呉の初代皇帝。孫策の跡を継いでのち、赤壁で曹操に勝利。その後も、魏・蜀と巧みに渡り合う。家臣団をよく取りまとめ、時機を見て呉王朝を開く。しかし、次第に横暴になる。
当主となる
・徐州の下邳(かひ)国出身。孫堅の子で、孫策の弟。
・陽羨県(呉郡)の長に任じられる。
・孝廉、茂才に推挙される。(いずれも、官僚の候補枠。)奉義校尉代行に任じられる。
・度量があり明朗。仁にして決断力を持つ。また、侠を好んで士を養う。
・常に協議に参画する。その計略能力は、孫策から一目置かれる。(詳細不明。)また、劉勲、黄祖の討伐に従軍する。
・あるとき、刺客が孫策を襲撃。孫策は負傷して床に伏し、孫権に後を託す。その際、孫権にこう述べる。「他国を攻略することにおいて、お前は俺に及ばない。だが人材を活用し、国を保つことにおいて、お前は俺より優れている。」(孫策は用兵家。孫権は、国家戦略と政治。)
・孫策の死後、跡を継いで当主となる。周瑜、張昭が中心となり、孫権の補佐に尽力する。
地盤確立まで
・曹操の上表により、会稽太守、討虜将軍に任じられる。・その後、顧雍を会稽の丞(次官)に任じ、赴任させる。自身は呉郡にあって、会稽太守の事務を行う。
・廬江太守の李術は、かつて孫策に従っていたが、跡を継いだ孫権を軽視。州の刺史を殺害し、公然と反乱を起こす。(本拠地は皖(かん)城。)孫権は軍を統率し、皖城に向かう。事前に、曹操に書簡を送り、事の次第を説明する。
・李術は、孫権の進軍を知ると、曹操に救援を求める。しかし、曹操は応じない。孫権は、皖城を陥落させ、李術を討ち取る。
・各地に軍を派遣し、山越に対処させる。(山越とは、山地の異民族の総称。)また、度々行政区分を変え、山越対策に心を砕く。
・黄祖(江夏太守)の討伐に向かう。(当時、江夏郡の首都(太守の滞在地)は沙羨県。)長江でその水軍を破り、続いて城を攻撃する。しかし、地元で山越が反乱し、止むなく撤退。
・再び江夏郡に侵攻し、住民を奪略して帰る。
・翌年、甘寧らを従え、黄祖の討伐に向かう。その水軍を破り、城を陥落させ、黄祖を討ち取る。(これにより、長江一帯の要地が、孫権の支配下に入った。)
赤壁戦とその後
・曹操から、帰順を求められる。周瑜、魯粛のみ抗戦を主張する。やがて、劉備が到来し、助力を申し出る。・抗戦の意志を固める。剣を抜いて机に斬り付け、こう言う。「以後、帰順を言う者は、この机と同様だ」。
・周瑜、程普を左右の都督とし、曹操の撃退に成功する。(有名な「赤壁の戦い」。)
・合肥(がっぴ)に進軍し、同時に、張昭を当塗に進軍させる。(いずれも曹操領(守将不明)。九江郡の県。)しかし、共に戦果は挙がらず。
・劉備に荊州四郡を平定させ、仮の領主とする。(劉備を使い、曹操の対抗馬とする算段。魯粛が提言した。)四郡とは、武陵・長沙・零陵・桂陽。
飛躍期
・秣陵県(丹陽郡)に遷都し、県名を建業と改める。
・曹操が濡須(じゅしゅ)に進軍する。(濡須は長江の北。)孫権は、水軍を取りまとめ、濡須の防備に当たる。局地戦で、敵の水軍を撃破。また、あるとき船団を率い、敵陣を視察に行く。曹操は、その統率ぶりに感嘆し、少しのち撤退。
・皖(かん)城に進軍する。(魏臣朱光(廬江太守)が駐在。)呂蒙、甘寧が活躍し、孫権は城を陥落させる。その後、呂蒙を廬江太守とする。
・常々、虎狩りを好む。馬に乗り先頭に立ち、虎を追って戟を投げる。後に張昭に諫められ、やや控えるようになる。
・他国から外交の使者が来ると、しばしば言葉を弄しからかう。相手が気の利いた返答をすれば、その者を気に入る。劉禅の時代、蜀から費禕(ひい)が使者として来る。費禕はそれまでの使者と違い、ひたすら正論をもって返す。孫権は、この費禕を敬愛したという。
・常々、学問を好む。あるとき、呂蒙、将欽にも読書を勧める(時期不詳)。彼等はこれに従い、見識を広げる。
荊州問題・対魏
・劉備が益州を奪取し、地盤を得る。孫権は荊州の返還を求めたが、劉備が言を左右にしたため、いさかいが起こる。・曹操が、漢中方面に手を伸ばす。劉備は曹操を警戒し、孫権に和睦を求める。結果、「江夏郡・長沙郡・桂陽郡が呉、南郡・武陵郡・零陵郡は蜀」と決まる。
・大軍を統率し、合肥城に進軍する。包囲を完成させる前、守将の張遼が出撃し、孫権軍は打撃を受ける。孫権は、長い矛で身を守る。
・十日後、退陣を指揮し、自軍の多くが帰途に付く。張遼が本陣に来襲し、孫権の部将達は奮戦する。張遼は呉軍の捕虜に聞く。「先程見かけた将軍は、髭が紫で、背は高く足は短く、騎射が上手かった。あれは何者だ。」「孫権様です。」
・曹操が再び濡須に来攻。孫権は、呂蒙を都督とし、これを防がせる。曹操は夏侯惇を後に残し、自身は撤退する。
対蜀
・荊州では、関羽が勢威を振るう。孫権は秘かに曹操と連合し、共に関羽を攻略。呂蒙を司令官とし、呉軍は関羽を殺害する。
・建業県から鄂(がく)県に移り、県名を武昌と改称。この鄂(武昌)は、江夏郡に所属。(魏・蜀との国境に近い。)
・劉備は関羽の復讐、荊州奪還を考え、孫権もそれを予測。孫権は曹丕(魏帝)との敵対を避け、臣従を申し出る。
・曹丕により、呉王(呉国の王)に封じられる。呉国は、魏王朝の藩国。(所領地は不詳。)顧雍を初代尚書令、孫邵(そんしょう)を初代丞相とする。孫邵死後は、顧雍が丞相に就任。
・度々顧雍に使いを出し、己の試案の検討・修正を頼んだという。
・劉備が呉に遠征する。孫権は陸遜を抜擢し、劉備迎撃の司令官とする。陸遜は夷陵(いりょう)県で劉備を破る。
対魏
・魏の曹丕が呉征伐に赴く。孫権は防衛態勢を整え、呉の諸軍は守り切る。
・後に、再び曹丕が来攻する。孫権は徐盛の策により、木材と葦で偽の城壁を作る。曹丕はこれを見て撤退。
・劉備死後、劉禅が跡を継ぎ、諸葛亮が実権を握る。諸葛亮は鄧芝(とうし)を呉に遣わし、孫権はこれを歓待する。
・翌年、張温を遣わし、正式に蜀と同盟する。
・曹丕死後、魏の動揺を見越し、江夏郡に進軍。石陽県(首都)を攻撃する。江夏太守・文聘が城を守備。(この文聘は、魏の良将。)孫権は勝てず。
呉王朝開始
・武昌において、呉王朝を開く。顧雍を初代丞相とする(呉国時代からの継続)。
・即位の年内に、建業に遷都する。建業はかつての本拠。(孫権の本拠地は、呉→建業→武昌→建業。)
・農作物の不作を考慮し、税の取り立てを緩める。
・諸葛恪を丹陽太守に任じ、山越への対処を命じる。(諸臣は反対したが、孫権は抜擢。)諸葛恪は巧みに兵糧攻めし、一帯の山越を全て帰順させる。
・農耕期の労役を禁じる。また、国庫を開き、貧民を救済する。
・魏との国境地帯を攻略。全琮を淮南、諸葛恪を六安(りくあん)に進軍させる。(いずれも揚州。)また、朱然を樊城、諸葛瑾を柤中(そちゅう)に進軍させる。(いずれも荊州。)戦果は挙がるも、決定打は与えられず。
・軍を東の海に派遣し、徐福が行き着いた島を探させる。(徐福は秦の時代、始皇帝の命令を受け、不老不死の薬を探した。)孫権の目的は人狩り。島は結局発見できず、代わりに別の島に上陸し、数千人を連れ帰る。しかし孫権は許さず、責任者達を誅殺する。
・遼東の公孫淵との国交を望み、張昭の諫めも聞かず。公孫淵は後に反逆し、孫権からの使者を殺害する。
朝政混乱
・呂壱という酷吏(法に厳しい官吏)を重用する。(当時、呉では儒家名士が台頭し、権勢を保有。恐らく、それに対抗するため。)呂壱は法を駆使し、忠臣達の粗探しを行い、次々罪に陥れる。多くの者が孫権を諌めたが、なかなか聞き入れず。しかし、結局反省し、呂壱を誅殺する。
・長子の孫登が病死し、跡継ぎ争いが起こる。いわゆる「二宮事件」。孫覇派と孫和派で、宮廷が二つに割れる。(孫和が年長。)しかし、孫権は態度を明確にしない。
・この二宮事件は長引く。あるとき、陸遜が孫権に書簡を送り、「正室の子(孫和)を重んじるべき」と説得。しかし、孫権は聞く耳を持たない。その上、(陸遜の発言に)政治的意図があることを疑い、問い詰める。(陸遜は儒家名士。)陸遜は気を病み、やがて憤死する。
・七男孫亮を跡継ぎにする。また、陸遜の子・陸抗に謝罪する。やがて死去。その後も王朝は安定せず、長らく騒乱が続く。
・陳寿は孫権を評して言う。「身を屈し恥を忍んだ(魏に対しあえて下手に出た)。有能な人材によく仕事を任せ、また、十分な計略と共に行動した。非凡で傑出した人物。」
・その一方で、こうも評する。「猜疑心が強い性格で、積極的に粛清を行った。特に晩年はその傾向を強め、讒言(ざんげん)がはびこるようになった。」