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タイシジ シギ
太史慈 子義
  
~青州の雄才~

 呉の将。初め孔融、続いて劉繇に仕え、機略や武技を発揮する。その後、丹陽太守を名乗り、独自の勢力を持つ。やがて孫策に帰服し、荊州との国境地域を守る。



初期
・青州の東莱(とうらい)郡出身。学問を好み、郡で役人となる。

・州と郡で、行政上の争いが起こる。先に朝廷に上奏した方が有利、という状況。太史慈は、郡の上表書を手に出発し、途中で州の使者と出会う。正体を隠し、州の上表書を見せて貰い、破り捨てる。そのあと正体を明かし、「我々は二人共、逃亡するしかない」と言う。同行中、行方をくらまし、朝廷に上表書を提出。(正史の太史慈は、詐術を得意としていた。演義のイメージと少し異なる。)

・これにより、郡(東莱郡)の役所から称賛されたが、州(青州)の役所からは恨まれる。そこで、遼東郡(幽州)に移住する。(東莱郡の北に、渤海という内海があり、それを挟んで遼東郡がある。)
・孔融(青州北海国の相)が太史慈に興味を持ち、家族の生活の面倒を見る。しばらくして、太史慈は青州に帰郷。




孔融に助力
・孔融が管亥(黄巾)の攻撃を受ける。太史慈は母から、「義によって救援すべき」と言われる。かくて、孔融の元に赴く。(孔融は当時、都昌県の県城に駐在。)

・孔融は、劉備に援軍を求めようとする。(劉備は当時、平原国の相。)太史慈は志願し、劉備への使者となる。しかし、包囲が完成しているため、抜け出すために工夫する。
・まず、夜を待って城門を開ける。堀に矢の的を立て、騎射してみせる。これを何日か繰り返し、敵は次第に警戒を解く。太史慈はある夜、いつものように的を射ると見せかけ、突如包囲軍の中を駆け抜ける。加えて、追手を何人か射殺し、敵は追うのを諦める。
・その後劉備に会い、救援の約束を取り付ける。劉備が出した援軍が着くと、管亥は直ちに兵を引き、一帯に平穏が戻る。(太史慈の大功。)




劉繇に助力
・当時、劉繇が揚州刺史を務め、呉郡に駐在。太史慈は、劉繇の配下に入る。

・孫策が呉郡に侵攻し、劉繇と対する。太史慈は、敵陣を偵察中、孫策本人と出くわす。直ちに戦いを挑み、武器を合わせる。孫策は太史慈の手戟を奪い、太史慈は孫策の兜を奪い、引き分けとなる。

・やがて、劉繇は敗北。太史慈は、丹陽郡に行き、太守を名乗る。(丹陽郡は、呉郡の西隣。)涇(けい)県を拠点とし、西部の諸県を支配する。その元には、多数の山越(山地の異民族の総称)が帰属してくる。




孫策に仕える
・孫策は各地を制し、勢力を増す。その後丹陽に進軍し、太史慈を討伐する。太史慈は抗戦したが、防ぎ切れず、捕らえられる。孫策は直ちに縄を解かせ、太史慈は孫策に帰服する。
・孫策に言う。「劉繇に従っていた者達は、北に逃亡しました。私が彼等を糾合してきます。」出発後、孫策の部下達が「戻ってこないかも知れません」と言ったが、孫策は言う。「彼は義を大事にする男だ。絶対に戻ってくる。」その後、太史慈は期日通りに帰還。(この話は、演義でも描かれる。)


・孫策に従い、麻保の賊を討伐する。(麻保は江夏郡にあり、黄祖の領地。また、県名ではなく土地名。)あるとき、敵兵が城の梁に手をかけ、孫策を罵倒する。太史慈は矢を放ち、その手を射抜き、梁に釘付けにする。

・劉磐(劉表の甥)は驍勇をもって知られ、度々、豫(よ)章郡(揚州)を侵犯する。(豫章郡は孫策の領地。)太史慈は、建昌都尉となり、建昌と海昬(かいこん)など六県をまとめる。(駐在地は海昬。また、この六県は、いずれも豫章郡に所属。)以後、劉磐は二度と侵入しなくなる。(太史慈は、万全の防衛態勢を敷いたのだろう。また、元々武名あり。)

・孫権の時代、山越の動きが活発になる。太史慈は、治安の悪い地に遣わされ、山越に睨みを利かせる。(後に海昬に戻る。)


・病床に伏すと、こう言う。「男子たる者、七尺の剣を背負い、天子の位に付くことを志すべき。それが叶わぬ内に死ぬことになるのか。」その死後、程普(呉の重鎮)が後任となり、海昬に赴く。
陳寿は太史慈を評して言う。「信義と節操の持ち主。」




孫策 劉繇 孔融


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