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コウユウ ブンキョ
孔融 文挙
  
~後漢屈指の教養・個性~

 後漢の官僚、学者。朝廷に仕え、宦官を摘発し、後に北海国を治める。黄巾の侵攻を防ぎ、その後独自の施政を敷く。後に曹操に仕えたが、度々放言し、曹操に殺害される。



育ち・仕官
・豫州(よしゅう)の魯国出身。孔子の子孫。高級官僚の家系。

・幼少の頃から聡明。十歳のとき、父に従い都へ行く。当時、李鷹(りよう)という名士がおり、限られた人としか会わない。孔融は、李鷹の家の門番に告げる。「私の祖先と李鷹様の祖先は、代々の付き合いです。」
・その後、李鷹が招き入れ、尋ねてみる。孔融は、「私の祖先は孔子、貴方の祖先は老子(本名・李耳)です。彼等には交流がありました。」(実際は、李鷹と李耳は姓が同じだけ。)皆、機智に感心する。
・やがて、陳煒(ちんい)がその場に来る。陳煒は言う。「子供の頃賢くても、大人になってからもそうとは限らぬ。」孔融は即座に言う。「貴方は子供の頃は賢かったのでしょうね。」李鷹は大笑いする。


・学問を好み博学。沢山の書物を読む。
司徒府(内政を司る)に招聘される。あるとき、不正官吏の調査を命じられ、宦官の親族を多く挙げる。尚書(帝の秘書官)の一人が、宦官の意を受け、孔融を詰問する。孔融はあくまで屈せず。(なお、宦官を摘発した話は、当時の名士層に多い。蔡邕(さいよう)、楊彪、王允、更に劉繇(りゅうよう)。)




黄巾と董卓
・黄巾の乱が起こる。王允が豫(よ)州刺史となり、一帯の黄巾に当たる。孔融は荀爽共々、王允に招かれ、従事(補佐官)となる。
・王允は黄巾を撃破する。孔融の貢献もあったと思われる。


・董卓が朝廷を支配。孔融は、司空(民政大臣)の府の掾(えん)となる。(掾とは府の属官。)その後、虎賁(こほん)中郎将に任じられる。(近衛隊の隊長。武芸の素養もあったのだろう。)
・董卓は帝の廃立を企てる。孔融は、正論でこれに反対する。結果、董卓に疎まれ、議郎(帝の補佐官)に転任となる。




統治に尽力
・黄巾が北海国(青州)で勢力を持つ。孔融は董卓により、北海国の相に任じられる。(厄介払いだったという。)北海国の治所は劇県。
・着任後、軍の編成を行い、訓練を施す。しかし、黄巾は数が多い。孔融は対戦したが敗れ、朱虚県に退去。


・黄巾に従っていた官民4万人が、次第に領内に集まり、統治下に入る。孔融はまず、城邑を設置。次に、学校を積極的に立て、儒学を教えさせる。また、些細な善行に対し、存分に礼を施す。一方、鄭玄(高名な儒学者)らを、賢良(郷挙里選の一科目)に推挙。更に、鄭玄のために一つの「郷」(県の下の行政単位)を作り、「鄭公郷」と名付ける。(以上、「後漢書」)

・以下、「九州春秋」の記事。孔融には、大きな野心、自負心あり。一方では、風変わりな者を好む。また、教化の訓令を大々的に掲げ、その文面は華麗だったが、現実性は欠ける。政令もたくさん作り、上手く張り巡らせたが、その運営に関しては大雑把。また、あるとき租税が滞り、孔融は督郵(諸県を管理する)を誅殺する。領内の治安、規律は次第に乱れていく。(「九州春秋」は、基本的に誇張が多い。記事内容が、どこまで正確かは分からない。)




軍事
・管亥(黄巾の将)が北海国に侵入する。孔融は、都昌県に駐屯。籠城する一方、平原国の劉備に救援を求める。援軍が来ると、管亥は撤退する。

・幽州の軍が反乱。徐州、更に青州へと進む。(この反乱軍の詳細は不明。)孔融はまず、彼等を説得し、謀反心をなくさせる。その後、夜襲をかけて破り、これを併呑する。後に背かれる。(以上、「九州春秋」。)
・黄巾の一派が到来する。孔融は、迎撃に取り掛かる。酒を存分に飲み、自ら馬に乗って出撃。黄巾はこれと対峙する一方、秘かに別方向に部隊を出し、城は陥落する。孔融は、徐州に逃れてのち、北海国の北部に駐在。(以上、「九州春秋」。)


・劉備の推薦により、青州刺史に任じられる。当時、青州の治所は、斉国の臨淄(りんし)県。しかし、袁紹・公孫瓚の争いで既に荒廃。孔融は北海国に留まる。
・当時、袁紹、曹操が勢力を持つ。左丞祖(孔融の謀臣)が進言し、いずれかとの結託を説く。孔融は、「袁紹らは漢の忠臣ではない」と考えており、怒って左丞祖を殺害する。

・袁紹が、子の袁譚を青州刺史とする。袁譚は北海国に侵攻し、孔融は籠城する。孔融の兵は数百しかおらず、敵軍はやがて城内に入る。孔融は平然と読書し、談笑を続けたという。夜になると、秘かに脱出し、東山に隠遁。




曹操の時代1
・曹操が帝を擁し、許に遷都させる。孔融は、曹操に招聘される。将作大匠(宮殿を造営)に任じられ、後に少府(内務全般に関わる)に転任。

・朝廷で会議が行われる度、常に中心となって正論を述べる。他の朝臣は圧倒され、ただ出席するのみとなる。
・あるとき、朝廷で肉刑(体の一部を傷つける)の復活が論じられる。孔融は反対して言う。「昔紂王は肉刑を行い、人々は皆、これを無道と考えました。また、肉刑を受けた者は、必ず自棄となり、再び悪に走るでしょう。」朝廷はこれに従う。


・文化人同士で、盛んに交流する。張紘とは直接交友し、虞翻(ぐほん)とは書簡をやり取り。(なお、張紘は穏健な人格者。孔融とは性格がだいぶ違うが、相性は合ったらしい。)
・禰衡(ねいこう)という人物を推挙する。禰衡は、ずば抜けた頭脳を持つが、性格は偏屈。曹操は任用せず、劉表に押し付ける。




曹操の時代2
・曹操が袁紹と対立する。孔融は、袁紹陣営の手ごわさを述べ、勝算の低さを述べる。荀彧がこれに反論。

・曹操は冀州(袁氏の本拠)を制し、曹丕(曹操の子)が甄(しん)氏を娶る。(甄氏は袁紹の次子・袁熙の妻だったが、曹丕がこれを奪った。)孔融は曹操に言上し、当てこすりをもって揶揄する。
・曹操が烏丸族を討伐する。孔融は、これを揶揄的に批判。また、曹操が酒を禁じる布令を出すと、孔融はまたも揶揄。
・同僚の郗慮(ちりょ)の誹謗を受け、罷免される。後に復帰し、太中大夫(帝の質問に答える)に就任。

・寛容で人を嫌うこと少なく、士を好んで後進を育成。賓客は日々増えたという。また、善行は必ず称え、優れた意見は必ず取り入れる。意見を出された際は、その場で不足点を指摘する。そして、世間に知らせる際は、長所を強調して称賛する。(以上は、「後漢書」の記事。「後漢書」は、孔融に好意的な記述が多い。)


・曹操から、日々疎んじられる。(孔融が、皮肉な態度を変えなかったため。孔融は儒家の名士、漢の忠臣としての立場にこだわり、曹操を受け入れるのを良しとせず。)
・あるとき、郗慮が再び、孔融を誹謗する。曹操はこれを機に、孔融の罪を探し出し、誅殺する。(相克の解消は不可能と考え、遂に始末を決めた。)

・孔融の伝記は、陳寿「三国志」にはない。「後漢書」に立伝されている。
・范曄(後漢書の著者)は、孔融を評して言う。「気分のままに振舞い、世俗を超えて人々を驚かせ、その行く道は帰するところなく、その深謀は誰の物にもならず。」




王允 張紘 虞翻


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