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リュウヨウ セイレイ
後漢の地方領主。呉郡を本拠とし、揚州を治める。軍備も固め、袁術軍の侵攻をしばらく防ぐ。しかし、孫策に敗北。
・若年の頃、叔父が賊に捕らわれる。劉繇はこれを奪い返し、郷里で名を上げたという。(具体的な方法は不明。)
・孝廉に推挙され、郎中(宮仕えの官)となる。(孝廉とは、官僚の候補枠。)
・下邑県(豫州梁郡)の長に任じられる。やがて、郡の太守から交際を求められる。しかし、自分の家柄目当てと知り、直ちに官を棄てて去る。
・州府に仕える。あるとき、済南国(青州)の巡察に当たる。当時の済南国の相(しょう)は中常侍の子で、法を軽視し、しばしば収賄。(中常侍は、高位の宦官職。)劉繇は上奏して摘発し、罷免させる。(贈賄者は豪族達で、その元手は、民百姓からの搾取であった。摘発は救民に直結。)
・朝廷から招聘され、司空府の掾(えん)に任じられ、侍御史(監察官)の官も与えられる。(掾とは府の属官。)しかし、あえて辞退する。(当時の朝廷は腐敗しており、劉繇は出仕を避けた。)
・劉繇はそこで、長江を東に渡り、曲阿県(呉郡)に赴く。呉景と孫賁(そんほん)がこれを出迎え、劉繇はここに州庁を設置。 (支配地は、揚州の東部のみ。即ち、呉郡・丹陽郡・会稽郡。)
・配下の張英を当利口、樊能・于麋(うび)を横江津に駐屯させ、長江の沿岸を固める。一方、呉景・孫賁は元袁術の配下であるため、領内から追放する。両者は袁術に帰服。
・袁術は呉景、孫賁に指令し、呉郡に進軍させる。しかし一年経っても、張英らの要塞を突破できず。(張英らは経歴不明だが、良将だったらしい。また、劉繇は高級官僚タイプで、軍政に長ける。)
・その内に、劉繇は、揚州牧に昇進。配下の兵は数万人になる。
・やがて、袁術は孫策を進軍させる。孫策は周瑜(名家の英才)の助力も得て、勢いを増す。張英らは遂に敗れ、各地の拠点も陥落。
・劉繇の元には、太史慈という雄才あり。但し、客将的な立場。劉繇は、偵察の任のみ与える。
・孫策は攻勢を強め、劉繇は城を棄てて去る。
・笮融は劉繇に造反。仲間を次々殺害し、郡の役所を占拠。劉繇は、笮融討伐に赴く。最初は敗れたが、改めて兵を集め、再戦して撃破する。(劉繇と笮融では、何より人望に差がある。笮融には既に信頼がなく、味方はもう増えない。)
・笮融は逃亡したが、住民に殺害される。劉繇もほどなく病死。後に、孫策が劉繇の棺を引き取り、遺族を厚遇する。
・陳寿は劉繇を評して言う。「立派な行いをなすことに努め、物事の善悪を正しく行うことを心がけたが、混乱の時代にあって(中央から)遠い土地で自立することは、その長ずるところではなかった。」(意外なほど、人格を称賛している。実際の劉繇は、道義のみではなく、野心家の面も持っていたと思われる。)
太史慈 笮融 袁術 孫策 士燮
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リュウヨウ セイレイ
劉繇 正礼
~人格、才腕を備えた貴族群雄~
後漢の地方領主。呉郡を本拠とし、揚州を治める。軍備も固め、袁術軍の侵攻をしばらく防ぐ。しかし、孫策に敗北。
官僚時代
・青州の東莱(とうらい)郡出身。漢王朝の皇族。
・若年の頃、叔父が賊に捕らわれる。劉繇はこれを奪い返し、郷里で名を上げたという。(具体的な方法は不明。)
・孝廉に推挙され、郎中(宮仕えの官)となる。(孝廉とは、官僚の候補枠。)
・下邑県(豫州梁郡)の長に任じられる。やがて、郡の太守から交際を求められる。しかし、自分の家柄目当てと知り、直ちに官を棄てて去る。
・州府に仕える。あるとき、済南国(青州)の巡察に当たる。当時の済南国の相(しょう)は中常侍の子で、法を軽視し、しばしば収賄。(中常侍は、高位の宦官職。)劉繇は上奏して摘発し、罷免させる。(贈賄者は豪族達で、その元手は、民百姓からの搾取であった。摘発は救民に直結。)
賛辞と招聘
・陶丘洪という人物が、州の刺史に対し、「劉繇を茂才に推挙してください」と頼む。(茂才とは、官僚の候補枠。)刺史は、「前年、劉岱(劉繇の兄)を推挙したばかりだ」と答える。陶丘洪は言う。「公山(劉岱)、正礼(劉繇)を共に配下にするならば、二頭の龍を御するようなもので、とても素晴らしいことです。」
・朝廷から招聘され、司空府の掾(えん)に任じられ、侍御史(監察官)の官も与えられる。(掾とは府の属官。)しかし、あえて辞退する。(当時の朝廷は腐敗しており、劉繇は出仕を避けた。)
江東に割拠
・動乱を避け、淮水の流域に滞在。この頃、揚州刺史に任じられる。しかし、袁術(大軍閥)が当時、寿春県(州都)を占拠。・劉繇はそこで、長江を東に渡り、曲阿県(呉郡)に赴く。呉景と孫賁(そんほん)がこれを出迎え、劉繇はここに州庁を設置。 (支配地は、揚州の東部のみ。即ち、呉郡・丹陽郡・会稽郡。)
・配下の張英を当利口、樊能・于麋(うび)を横江津に駐屯させ、長江の沿岸を固める。一方、呉景・孫賁は元袁術の配下であるため、領内から追放する。両者は袁術に帰服。
・袁術は呉景、孫賁に指令し、呉郡に進軍させる。しかし一年経っても、張英らの要塞を突破できず。(張英らは経歴不明だが、良将だったらしい。また、劉繇は高級官僚タイプで、軍政に長ける。)
・その内に、劉繇は、揚州牧に昇進。配下の兵は数万人になる。
・やがて、袁術は孫策を進軍させる。孫策は周瑜(名家の英才)の助力も得て、勢いを増す。張英らは遂に敗れ、各地の拠点も陥落。
・劉繇の元には、太史慈という雄才あり。但し、客将的な立場。劉繇は、偵察の任のみ与える。
・孫策は攻勢を強め、劉繇は城を棄てて去る。
豫章進出
・南西に進み、豫章郡(揚州)に向かう。(同じく江東地域。)まず、傘下の笮融(さくゆう)を遣わし、先駆けとして豫章に入らせる。
・笮融は劉繇に造反。仲間を次々殺害し、郡の役所を占拠。劉繇は、笮融討伐に赴く。最初は敗れたが、改めて兵を集め、再戦して撃破する。(劉繇と笮融では、何より人望に差がある。笮融には既に信頼がなく、味方はもう増えない。)
・笮融は逃亡したが、住民に殺害される。劉繇もほどなく病死。後に、孫策が劉繇の棺を引き取り、遺族を厚遇する。
・陳寿は劉繇を評して言う。「立派な行いをなすことに努め、物事の善悪を正しく行うことを心がけたが、混乱の時代にあって(中央から)遠い土地で自立することは、その長ずるところではなかった。」(意外なほど、人格を称賛している。実際の劉繇は、道義のみではなく、野心家の面も持っていたと思われる。)