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コヨウ ゲンタン
顧雍 元歎
  
~実直、賢明な大臣~

 呉の政治家。孫権に仕え、会稽の丞として活躍。後に呉国・呉王朝の丞相を務め、長年国政を補佐する。



初期
・揚州の呉郡出身。蔡邕(さいよう)から教えを受け、高い評価を受ける。
・州、郡両方から推挙される。合肥県の長となり、後に三つの県で為政する。いずれにおいても、目立った治績を挙げる。

・孫権が会稽太守となる。顧雍は、孫権から丞(次官)に任じられ、会稽郡に赴く。(孫権自身は、呉郡に留まる。)
・会稽に着任後、不服従民の討伐を行い、一通り平定する。(将軍タイプではないが、軍政能力が高い。)これにより、官民は心服する。その後数年に渡り、郡の統治に尽力。
・呉郡に戻り、左司馬に任じられる。(司馬は軍のまとめ役。)




重臣となる
・孫権が呉王(呉国の王)となる。(呉国は魏王朝の藩国。)顧雍は、呉国の尚書令に任じられる。(秘書機関の長。)
・侯の爵位を貰う。しかし、そのことを誰にも言わず、家人は後に知って驚いたという。
・酒を飲まず寡黙。言動は常に時宜を得る。孫権は常々言う。「顧君は普段物言わぬが、言えば必ず的を射る。」宴の場では、皆顧雍の目を気にし、羽目を外さなかったという。(顧雍は基本的に、張昭と人物像が近い。ただ、張昭は厳格さを表に出し、顧雍は内に秘める。)

呉国の丞相・平尚書事に任じられる。(丞相は首相。平尚書事は、尚書令の上で、後漢の録尚書事と同じ。)




政治姿勢
・人事の際、適材かどうかのみを基準とし、個人的な感情には左右されず。民政に際しては、自ら民間に入って意見を聞き、随時参考にする。また、いい施策を考え、孫権に用いられたとき、孫権自身の発案ということにする。却下されても、周りに愚痴を言わず。(人格者という点では、顧雍は三国屈指だろう。)


・朝廷での協議の際、穏やかな言葉、表情ながら、正しいことは絶対譲らない。
・あるとき、張昭が孫権に進言。「民間には法令の煩雑さ、刑罰の重さを言う者がいます。改めた方がいいでしょう。」孫権はしばらく黙っていたが、顧雍に「どう思うか」と尋ねる。顧雍は答える。「私の耳に入りますところも、張昭殿の述べた通りでございます。」結果、孫権はしぶしぶ、張昭の意見を採用する。


・孫権はしばしば、書記官を顧雍の家に派遣し、案出した施策について問う。顧雍はその施策に納得すると、書記官を相手に討議し、検討を加え、更に酒食を用意する。そうでなければ、厳しい表情で何も言わず、書記官は早々と帰る。孫権は言う。「顧雍が何も言わなかったなら、私の考えが足りないのだ。改めて考え直さねばならぬ。」(この逸話からは、孫権の実直さも窺える。)




呉王朝成立後
・孫権が呉王朝を開く。顧雍は、呉王朝の丞相を務める。(呉国時代から継続。)

・孫権が呂壱という酷吏を重用。(酷吏とは、法に厳しい官吏。)呂壱は横暴を振るい、忠臣をも次々罪に落とす。顧雍もまた、被害を受ける。
・呂壱の悪事が発覚し、獄につながれる。ある者が呂壱を激しく罵倒し、顧雍はそれをたしなめる。顧雍は獄に赴き、穏やかな態度で取り調べる。獄を出る際、「何か言いたいことがあるのではないか」と改めて聞く。呂壱は平伏したまま答えず。(呂壱はその後刑死する。)

・長江沿いの諸将が、度々孫権に上表。敵を襲撃する策を献じる。顧雍は、孫権に言う。「兵法では、小さな利を求めぬものです。彼等は皆、個人的に手柄を立てたいだけで、国のためを思ってのことではありません。国益にならない策は、決して採用してはいけません。」孫権はこれに従う。


・計十九年に渡り、丞相を務める。(呉国時代と、呉王朝時代。)
陳寿は顧雍を評して言う。「父祖以来の業績を基礎としつつ、それを知謀によって運用し、それ故栄誉、官位を極めることができた。」




張昭 張紘 諸葛瑾 駱統


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