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チンキュウ コウダイ
陳宮 公台
  
~気概に溢れた策士~

 呂布の参謀。初め曹操に仕えたが、あるとき呂布に寝返り、諸県の制圧を主導する。その後も、絶えず呂布を補佐したが、なかなか進言が通らず。やがて曹操に捕らえられ、降伏を拒否して刑死する。



曹操を補佐
・兗州(えんしゅう)の東郡出身。烈士として知られる。日々、志ある者たちと交流する。
・当時、東郡の太守は曹操。陳宮は郡に仕官し、曹操の配下に入る。(「三国志演義」とは異なり、出会いは普通。)

・あるとき、青州の黄巾軍が、兗州に侵入する。刺史(長官)の劉岱は迎撃したが、勝てず戦死する。陳宮は、曹操に進言する。「現在、州には統治者がおらず、王朝の命令も届いていません。私が州の有力者を説得しますので、州牧の地位に就いてください。」(牧は刺史同様、州の長官。刺史とは異なり、軍権が付属する。)
・説得は成功し、曹操は(事実上の)兗州牧となる。(陳宮は日頃から、入念に人脈を築いていたのだろう。)その後、曹操は黄巾を撃破し、州を守り通す。なお、三年後、正式に牧に就任。




呂布を補佐
・あるとき、曹嵩(曹操の父)が、陶謙(徐州牧)の部下に殺害される。曹操は徐州に二度侵攻し、殺戮を行う。二度目の侵攻の際、陳宮(兗州に留まっていた)は、陳留太守の張邈(ちょうばく)の元に走る。(陳留は兗州の郡。)寝返った理由は、特に記されない。(恐らく、曹操の人格に疑いを持ち、兗州の先行きに不安を持った。)呂布(流浪中の勇将)を加え、共々反乱を起こす。

・呂布共々、軍を率い、兗州各地に進軍。諸県は次々呼応し、州の大半が支配下に入る。(諸県の豪族達も、曹操への忠誠が低下。陳宮は軍略と政略を駆使し、彼等を制していった。)
・呂布を兗州牧とする。本拠地は濮陽(ぼくよう)県。


・呂布は曹操と対峙し、苦戦させる。やがて敗れたが、後に、劉備から下邳(かひ)県を奪う。(下邳は徐州の首都。)この間、陳宮の活躍は不明だが、作戦面で貢献があったと思われる。
・あるとき、「袁術(揚州の群雄)と通じている」という疑惑をかけられる。陳宮は動揺し、顔色を変えたが、結局不問に付される。(真相は不明。独自に、何か画策していたのかも知れない。)




籠城戦
・曹操が下邳に進軍する。陳宮は敵の疲弊を考え、急戦を進言。しかし、呂布はこれを却下する。

・籠城戦が始まる。陳宮はあるとき、撹乱策を献じる。「敵は遠征なので、糧食はもう残り少ない筈です。将軍(呂布)はまず、城外に駐屯なさってください。内と外から敵と対し、敵が一方に向かったら、もう一方から背後を襲うようにします。敵は何もできないまま、十日もせずに糧食は尽き、自壊するでしょう。」(敵の内情を捉えた上で、適した作戦を立案。戦略、戦術いずれにも長けていた。)
・呂布は、当初は従おうとしたが、呂布の妻が「陳宮はいつ寝返るか分かりません」と言う。結局、この作戦は却下される。

・曹操は、一時は撤退を考える。(呂布の軍はかなり粘った。)しかし取り止め、水攻めを行い、城はほどなく陥落する。陳宮は降伏を拒み、曹操に家族のことを頼み、その後刑死する。曹操は涙を流し、遺族を厚遇する。そのあと、呂布を誅殺する。
・独立した伝記はない。




曹操 呂布 陳登 


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