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エンジュツ コウロ
袁術 公路
  
~奔放な貴族~

 後漢の群雄。揚州に割拠し、従兄の袁紹と張り合う。侠を好んだが、統治能力は欠如。やがて、自ら皇帝を名乗ったが、結局没落する。



初期
・豫州(よしゅう)の汝南郡出身。名門袁家の嫡子。袁紹の従弟(異母弟ともいわれる)。
・侠気をもって知られ、袁紹と名声を競う。(それぞれ、独自の組織を率い、豪侠の士と呼ばれる。)また、常々、放蕩を好んだという。鷹を飛ばし犬を走らせ、狩りに興じる。
・素行を改め、孝廉に推挙される。(孝廉とは、官僚の候補枠。)郎中(宮仕え)となってのち、河南尹(洛陽周辺を治める)に任じられる。治績は不明。


・袁紹と同じく、大将軍何進に招かれる。何進は外戚(皇后・太后の一族)でもあり、宦官と抗争中。名族の袁家と手を結ぶ算段。
・この頃、長水校尉に任じられる。意気が盛んで、馬車を豪奢に飾り立て、傍若無人に町を巡回する。(袁術は基本的に、侠者気取り。恐らく、色んなトラブルに首を突っ込んでいた。)結果、民百姓から、「路中悍鬼」という異名を付けられる。
・虎賁(こほん)中郎将となり、近衛隊を率いる。帝と皇居を警護。

・何進は長年、宦官と抗争。あるとき、何進は嘉徳殿(南宮)に参内し、宦官の張譲らに殺害される。袁術は、呉匡(何進の腹心)と共に報復戦を行う。
・まず、南宮の門を攻撃する。張譲らも兵をもって防ぐ。日が暮れると、袁術は門を燃やす。続いて、門内に兵を進め、嘉徳殿に火をかける。一方、袁紹が北宮から進入し、宦官達を討ち滅ぼす。直後に、董卓が朝廷を制圧。




南陽時代
・董卓から、後将軍に任じられる。少しのち、南の荊州に出奔し、魯陽県(南陽郡)に駐在する。「後漢書」によると、劉表の推挙を受け、南陽太守に就任。(この頃は、劉表と良好な関係。)
袁紹の董卓討伐軍に加わる。魯陽にあって、傘下の孫堅を出征させ、自身は城で兵糧を司る。孫堅が勝利し、勢いを得ると、袁術は一時輸送を差し止める。(器は大きくない。)


・南陽を思いのまま支配。法治を軽視し、政令をしっかり定めない。領地は豊かだったが、搾取、略奪をもって国庫を潤し、私腹も肥やす。(侠者だが、民の労苦には鈍感。また、官僚経験は長い筈だが、元来が大雑把な性格。)

・袁紹が劉虞(幽州牧)を帝に立てようとする。野心家の袁術にとって、これは都合が悪い。年長で人徳もある劉虞が即位すれば、今後、勝手な振舞いができなくなる。そこで、今の帝への忠義を口実に、劉虞擁立に反対する。
・帝を迎えに行くと称し、劉虞から兵数千を騙し取る。(基本的に、詐術にためらいがない。)

・袁紹が袁遺(袁紹・袁術の従兄)を起用し、揚州刺史に任じる。袁術はこれを討伐し、撃破する。その後、袁遺は配下の兵に殺害される。
・孫堅に指令し、劉表を討伐させる。孫堅は追撃中に戦死し、劉表は袁術の糧道を断つ。




南陽から九江へ
・大挙して南陽を出発し、袁紹のいる冀州に進軍。まず、兗州の封丘県(陳留郡)に駐屯し、匈奴の於夫羅、及び黒山賊の援護も得る。(高い政治力。)一方、曹操が袁紹に味方し、これを阻む。曹操は少し前、青州黄巾を併呑し、兵力は十分。

・曹操はまず、匡亭において、袁術の部将劉詳を攻める。袁術も拠点(封丘城)を出て、救援に向かう。しかし、曹操に迎撃され、大敗する。(拠点から誘い出され、待ち伏せされた形。)
・封丘城に撤退後、態勢の立て直しを図る。曹操は追撃し、城の包囲にかかる。袁術は襄邑県(陳留郡)に逃走し、篭城する構えを見せる。曹操は太寿という地で、川を決壊させる。袁術は寧陵県(豫州梁国)に退避し、その後、揚州九江郡に落ち延びる。(これにより、二袁の正面対決は回避。もし起きていたら、時代の混乱は、更に進んでいたと思われる。)


寿春県(九江郡)に向かう。ここには、揚州刺史の陳瑀(ちんう)が駐在している。かつて袁術が任命したのだが、入城を拒否される。(いつの間にか、版図が変わっていた。)ここで袁術は、巧みに言葉を弄し、陳瑀を惑わせる。(狡知に長ける。)そうして行動を封じた上で、東の陰陵県(同じく九江郡)に行き、兵を糾合。すぐさま寿春に進軍し、陳瑀を追放する。




権勢を振るう
・寿春城を拠点とし、淮南(わいなん)の一帯を支配する。(淮南とは、淮水の南の地域。)周辺の都市に侵攻し、更に領地を広げる。
孫策に指令し、江東を攻略させる。(孫策は孫堅の子。江東とは長江の東。)孫策は戦勝を重ね、江東で独立勢力となる。(以後、袁術とは、微妙な協調路線が続く。)

・あるとき、朝廷(李傕の支配下)から使者馬日磾(ばじつてい)が来る。袁術は、朝廷の権威を示す節(はた)を奪い取る。その後、馬日磾を拘束し、憤死させる。
・かつて交流のあった陳珪(徐州の名士)に書簡を送り、味方に引き込もうとする。一方で、陳珪の子(陳応)を拘束し、しきりに陳珪に圧力をかける。しかし、思い通りにはならず。
・配下の袁渙は、清廉潔白で知られ、常に正論をもって発言する。袁術はこの袁渙を敬愛し、常に礼を尽くしたという。
・陸績(名門陸家の子供)の孝心を称賛する。




二州攻略
・橋蕤(きょうずい)と共に、豫州の陳国を攻略する。(陳国は、淮水の向こう側。時期不詳。)蘄陽(きよう)城を攻撃した際、戦況が膠着する。袁術は陳国出身の名士・何夔(かき)を呼び出し、敵の説得を強要。何夔はこれを拒否し、潜山に逃亡する。
・この何夔は、袁遺の近縁だったため、袁術は害を与えようとせず。(袁術はかつて、袁遺を追い込んでいるが、本意ではなかったのだろう。)

・袁嗣(えんし)を陳国の相とし、武平県(陳国東部)に駐屯させる。(時期不詳。)本来の首都は陳県。


徐州を巡り、劉備と開戦する。広陵県(徐州南部)などを奪取し、淮陰まで進軍する。劉備の本軍と対陣し、一進一退の攻防が続く。
・やがて、呂布(徐州の勇将)をそそのかし、劉備の本拠地・下邳(かひ)県を奪わせる。(絶妙な政略。)劉備は転進し、広陵県を奪還する。袁術はこれを撃破する。劉備は兵糧も尽き撤退。
・呉景を起用し、広陵郡の太守に任じる。(首都は広陵県。)

・曹操が武平県に進軍し、袁嗣は降伏する。(恐らく、袁術は徐州攻略に手こずり、援護できず。)




帝位僭称
・当時、漢王朝は既に衰退。袁術は見切りを付け、自ら皇帝を名乗り、国号を仲とする。中原の動乱をひとまず放置し、南方(淮南、江南)から新時代を築いていく計画。(また、虚栄心が大きな動機だったと思われる。)しかし、江東の孫策は、袁術に対立の意を示す。

・呂布と姻戚関係を結ぼうとする。(太子と呂布の娘の政略結婚。)呂布は当初、乗り気になる。(辺境出身のため、漢に忠義はない。また、連合相手を欲していた。)しかし陳珪の進言により、結局取り止め、曹操に味方する。
呂布と開戦する。張勲、橋蕤らに数万の軍を与え、七路から徐州を攻撃。しかし、味方の裏切りにより、敗北に終わる。(陳珪が画策。)その後、袁術は兵五千で出陣し、淮水の南岸に布陣。呂布は対岸におり、構わず去る。


・帝を名乗って以来、栄華を求め、搾取、浪費を重ねる。
・劉寵(陳国の王)に軍糧の供給を求めたが、拒否される。そこで、兵を率いて北上し、陳国に乗り込む。劉寵と駱俊(国相)を会見に誘い、城外に出た彼等を暗殺。こうして、陳国を占拠する。曹操が自ら討伐に来ると、袁術は逃走し、橋蕤は敗死する。

・領土が日照りに見舞われ、凶作となる。民の困苦は加速。
・沛国(豫州)の相の舒仲応(じょちゅうおう)に通達し、十万石を軍糧用に保存せよと命じる。しかし、仲応は全て民に施す。袁術は軍兵を引き連れ、馬上から詰問し、誅殺しようとする。仲応が「私一人が死ぬことで、百姓達を救うのだ」と言うと、袁術は馬を下りて言う。「貴公は名声を一手に集める気か。」
・この記述のあと、「袁術は奇を尊ぶ」と記される。「奇」とは、非凡なこと、非凡な行い。




没落
・しばらくの間、動向は記されない。(恐らく、行動を起こす余裕なし。)呂布が曹操と対し、袁術に付いたが、袁術は特に援護せず。(自国のことで手一杯だったのだろう。)呂布はやがて敗北。

・帝を名乗ってから2年、勢力を保つのが困難になる。(むしろ、2年持ったと言うべきかも知れない。何とかやり繰りしていた。)そこで、袁紹を頼って北上したが、劉備(当時曹操の配下)が徐州でこれを阻む。袁術は既に病身で、兵糧も足りない。
・止むなく行軍を中断し、江亭という地で休憩する。時は夏の最中。蜂蜜水を口にしたいと願ったが、それも叶わない。しばらく溜息を付き、それから叫ぶ。「袁術ともあろう者がこの様か!」そのまま吐血して死ぬ。袁術の家族は、後に孫策に保護される。


・許劭(きょしょう)はかつて、袁術をこう評している。「その性質、山犬や狼と異ならず」(劉繇伝の註釈)。つまり、貪欲で凶暴。(なお、許劭は字(あざな)を子将という。「許子将」という呼称が有名。)
・蒯越は袁術をこう評する。「勇あって断なし」(劉表伝の註釈)。強気に行動するのみで、果断ではないということ。

・陳寿は袁術を評して言う。「欲望のままに振舞った。最後に栄華を失ったのは、自ら招いたことである。」一方、裴松之は袁術を悪人と断じ、酷評している。また、范曄(後漢書の著者)は、袁術を「貪欲が染み付いていた」とのみ評する。




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