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コウソンサン ハクケイ
後漢の群雄。北方の地を支配し、異民族を度々撃退する。儒学の素養もあったが、商人を好み、儒家名士、民百姓を共に圧迫する。袁紹と長年争い、敗れて滅亡する。
・盧植の元で学問をする。学友には劉備がおり、公孫瓚に兄事する。(特にエピソードなし。)
・郡(遼西郡)の役人となる。家柄の関係で、なかなか昇進できない。容貌は立派で、弁舌にも長ける。結果、郡太守の侯氏に気に入られ、娘を娶ることになる。以後順調に昇進。
・劉基という人物が、郡の太守に就任。劉基はやがて、法に触れて護送される。公孫瓚は下僕に扮し、護送車を押す。
・劉基の罪刑が確定し、辺境に流されることになる。公孫瓚は山に入り、先祖に米と肉を捧げ、故郷を去ることを報告。感情をたかぶらせ、(決まりに反して)随行しようとする。人々は感じ入り、役人達もあえて見逃す。たまたま、劉基は途中で赦免。(以上、公孫瓚の青年期のエピソード。気質がよく分かる。)
・あるとき、数十騎を引き連れ、砦から離れて巡回する。(遼東属国は、異民族の領地と隣接。砦は国境の軍事拠点。)やがて、鮮卑族100騎が現れ、帰路を塞ぐ。公孫瓚は矛を掲げ、部下達と共に突撃し、数十人を倒して脱出する。公孫瓚の部下も、半数が犠牲になる。これ以後、鮮卑は二度と境を越えず。
・涿(たく)県の令に任じられる。(この涿県は、劉備の故郷でもある。)
・張純(幽州の有力者)が、烏丸族の丘力居(きゅうりききょ)と結託し、反乱を起こす。公孫瓚は討伐に赴き、平定に成功する。功により、騎都尉に任じられる。
・しばらくのち、張純、丘力居が再び反乱。公孫瓚は討伐に赴き、大いにこれを破る。その後追撃し、長期戦の末、双方引き上げる。
・中郎将となり、遼東属国に駐屯。異民族の侵入と対する。
・戦場では常に白い馬に乗り、蛮族を討伐すれば確実に破り、「白馬長史」と恐れられる。騎射に秀でた者を数千人選出し、揃って白馬に乗らせ、「白馬義従」と名付ける。蛮族は戦闘の際、「白馬を避けよ」と言い合う。
・烏丸族(指導者は丘力居)が各地を荒らす。公孫瓚も手が回らない。そこで、朝廷は劉虞を起用し、平定を命じる。劉虞は丘力居に使者を出し、懐柔に成功する。(劉虞は仁徳の持ち主として知られ、異民族にも強い信望があった。)
・以後、公孫瓚は劉虞を憎む。劉虞が烏丸に使者を出す度、刺客を放って殺害する。
・渤海郡(冀州)で黄巾を討伐し、戦勝を重ねる。その後、広宗県に駐屯する。(広宗県は、冀州鉅鹿(きょろく)郡に所属。)
・袁紹が部将周昂を遣わし、陽県(豫州潁川郡)を奪わせる。(陽県は孫堅(袁術傘下)の拠点。袁紹は、袁術と対立中。)袁術は孫堅と公孫越(公孫瓚の弟)に命じ、周昂を攻撃させる。公孫越は戦死し、公孫瓚は激怒。(袁紹の私闘の犠牲になったと考えた。)従弟公孫範と協力し、袁紹の領地を侵略する。
・界橋で袁紹と対陣する。袁紹は名将麹義と弩(ど)の装備を有し、公孫瓚は敗れて撤退。
・この頃、薊(けい)県に城塞を築き、本拠地とする。(薊県は、幽州広陽郡に所属。)この薊県は州都でもあり、県城には劉虞が駐在。公孫瓚の城塞は、その南東に位置したという。
・袁紹と交戦を繰り返す。時に勝利し、時に敗北する。
・名家の英才達を迫害。公孫瓚は言う。「奴等は、重用されるのを当然だと思っている。重用してやっても感謝しない。」(結果、優秀な官僚が不足したと思われる。また、名家の持つ人脈も利用できず。)
・その一方で、商人達と義兄弟になる。(当時、商人の身分は高くなかった。公孫瓚は、身分を重視しない。)
・あるとき、劉虞が軍を動かし、公孫瓚の居城を包囲。その後、劉虞は部将たちに「民家を荒らすな」と命じ、軍は上手く機能しない。公孫瓚はそれを見て、逆襲に転じ、劉虞を捕らえる。人々は劉虞のために嘆願したが、公孫瓚は劉虞を市場で引き回し、殺害する。
・易京に入り、籠城を始める。(易京は、公孫瓚が築いた城塞。場所は、冀州河間郡の易県。)公孫瓚は、屯田を行って兵糧を得る。麹義は兵糧が尽きて撤退し、公孫瓚は追撃して破る。
・城壁を何重にもする。警戒を厳重にし、部下の目通りも容易に許さない。この作戦はかなり成功し、袁紹は長らく苦戦する。
・籠城から四年後、袁紹は攻城兵器を整え、易京に進軍する。あるとき、公孫瓚の兵達が囲まれる。公孫瓚は、「ここで救援すれば、今後もすぐ助けが来ると考え、必死に戦わなくなる」と言い、救援せず。以後、公孫瓚の兵達は、囲まれるとすぐ降伏する。(「三国志演義」にも記されるエピソード。)
・子の公孫続を使者とし、黒山の張燕に救援を求める。しかし、途中で捕らえられる。公孫瓚は偽の情報を掴まされ、出撃して敗れる。帰還すると、まず家族を殺害し、そのあと自害する。
・陳寿は公孫瓚を評して言う。「易京を保持したまま、坐して滅亡を待っていた。」
・陳寿は更に、公孫瓚、公孫度、公孫淵、陶謙、張楊をまとめて評する。「州郡を擁しながら、一匹夫以下であり、論じるに値しない。」(陳寿は史家としての立場上、魏や漢に従わなかった者を非難。)
・范曄(後漢書の著者)は公孫瓚を評して言う。「粗暴な性格で、猛々しい武才あり。劉虞といい関係を築けず、袁紹の勢威には歯が立たず。」
袁紹 袁術 劉虞
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コウソンサン ハクケイ
公孫瓚 伯珪
~武断派の辺境統治者~
後漢の群雄。北方の地を支配し、異民族を度々撃退する。儒学の素養もあったが、商人を好み、儒家名士、民百姓を共に圧迫する。袁紹と長年争い、敗れて滅亡する。
初期
・幽州の遼西郡出身。有力豪族の家に生まれる。しかし、母の身分が賤しく、不遇を強いられる。 ・盧植の元で学問をする。学友には劉備がおり、公孫瓚に兄事する。(特にエピソードなし。)
・郡(遼西郡)の役人となる。家柄の関係で、なかなか昇進できない。容貌は立派で、弁舌にも長ける。結果、郡太守の侯氏に気に入られ、娘を娶ることになる。以後順調に昇進。
・劉基という人物が、郡の太守に就任。劉基はやがて、法に触れて護送される。公孫瓚は下僕に扮し、護送車を押す。
・劉基の罪刑が確定し、辺境に流されることになる。公孫瓚は山に入り、先祖に米と肉を捧げ、故郷を去ることを報告。感情をたかぶらせ、(決まりに反して)随行しようとする。人々は感じ入り、役人達もあえて見逃す。たまたま、劉基は途中で赦免。(以上、公孫瓚の青年期のエピソード。気質がよく分かる。)
幽州鎮撫
・孝廉に推挙される。(孝廉とは、官僚の候補枠。)その後、遼東属国(遼東郡の属国)の長史に任じられる。属国は実質、郡と同等。太守の代わりに都尉(軍事長官)が治める。また、長史は次官で、諸部局を統括して長官を補佐。(当時の長官(都尉)が誰かは不明。)・あるとき、数十騎を引き連れ、砦から離れて巡回する。(遼東属国は、異民族の領地と隣接。砦は国境の軍事拠点。)やがて、鮮卑族100騎が現れ、帰路を塞ぐ。公孫瓚は矛を掲げ、部下達と共に突撃し、数十人を倒して脱出する。公孫瓚の部下も、半数が犠牲になる。これ以後、鮮卑は二度と境を越えず。
・涿(たく)県の令に任じられる。(この涿県は、劉備の故郷でもある。)
・張純(幽州の有力者)が、烏丸族の丘力居(きゅうりききょ)と結託し、反乱を起こす。公孫瓚は討伐に赴き、平定に成功する。功により、騎都尉に任じられる。
・しばらくのち、張純、丘力居が再び反乱。公孫瓚は討伐に赴き、大いにこれを破る。その後追撃し、長期戦の末、双方引き上げる。
・中郎将となり、遼東属国に駐屯。異民族の侵入と対する。
・戦場では常に白い馬に乗り、蛮族を討伐すれば確実に破り、「白馬長史」と恐れられる。騎射に秀でた者を数千人選出し、揃って白馬に乗らせ、「白馬義従」と名付ける。蛮族は戦闘の際、「白馬を避けよ」と言い合う。
・烏丸族(指導者は丘力居)が各地を荒らす。公孫瓚も手が回らない。そこで、朝廷は劉虞を起用し、平定を命じる。劉虞は丘力居に使者を出し、懐柔に成功する。(劉虞は仁徳の持ち主として知られ、異民族にも強い信望があった。)
・以後、公孫瓚は劉虞を憎む。劉虞が烏丸に使者を出す度、刺客を放って殺害する。
・渤海郡(冀州)で黄巾を討伐し、戦勝を重ねる。その後、広宗県に駐屯する。(広宗県は、冀州鉅鹿(きょろく)郡に所属。)
袁紹との抗争
・董卓が洛陽を制圧。公孫瓚は、奮武将軍に任じられる。(この頃から、幽州の多くと、冀州の一部を実効支配。)董卓の死後、前将軍に昇進。・袁紹が部将周昂を遣わし、陽県(豫州潁川郡)を奪わせる。(陽県は孫堅(袁術傘下)の拠点。袁紹は、袁術と対立中。)袁術は孫堅と公孫越(公孫瓚の弟)に命じ、周昂を攻撃させる。公孫越は戦死し、公孫瓚は激怒。(袁紹の私闘の犠牲になったと考えた。)従弟公孫範と協力し、袁紹の領地を侵略する。
・界橋で袁紹と対陣する。袁紹は名将麹義と弩(ど)の装備を有し、公孫瓚は敗れて撤退。
・この頃、薊(けい)県に城塞を築き、本拠地とする。(薊県は、幽州広陽郡に所属。)この薊県は州都でもあり、県城には劉虞が駐在。公孫瓚の城塞は、その南東に位置したという。
・袁紹と交戦を繰り返す。時に勝利し、時に敗北する。
政治姿勢・劉虞打倒
・驕って百姓を粗略に扱う。人に厳しく、些細な罪を責め立て、善行は記憶に留めない。(これらは、「後漢書」に記される。) ・名家の英才達を迫害。公孫瓚は言う。「奴等は、重用されるのを当然だと思っている。重用してやっても感謝しない。」(結果、優秀な官僚が不足したと思われる。また、名家の持つ人脈も利用できず。)
・その一方で、商人達と義兄弟になる。(当時、商人の身分は高くなかった。公孫瓚は、身分を重視しない。)
・あるとき、劉虞が軍を動かし、公孫瓚の居城を包囲。その後、劉虞は部将たちに「民家を荒らすな」と命じ、軍は上手く機能しない。公孫瓚はそれを見て、逆襲に転じ、劉虞を捕らえる。人々は劉虞のために嘆願したが、公孫瓚は劉虞を市場で引き回し、殺害する。
易京に移る
・鮮干輔(劉虞の旧臣)が、劉和(劉虞の子)を擁立し、鮮卑や烏丸と結託。そして、麹義(袁紹の将)が彼等と協力する。公孫瓚は迎撃したが、敗れて撤退する。麹義がこれを追撃。・易京に入り、籠城を始める。(易京は、公孫瓚が築いた城塞。場所は、冀州河間郡の易県。)公孫瓚は、屯田を行って兵糧を得る。麹義は兵糧が尽きて撤退し、公孫瓚は追撃して破る。
・城壁を何重にもする。警戒を厳重にし、部下の目通りも容易に許さない。この作戦はかなり成功し、袁紹は長らく苦戦する。
・籠城から四年後、袁紹は攻城兵器を整え、易京に進軍する。あるとき、公孫瓚の兵達が囲まれる。公孫瓚は、「ここで救援すれば、今後もすぐ助けが来ると考え、必死に戦わなくなる」と言い、救援せず。以後、公孫瓚の兵達は、囲まれるとすぐ降伏する。(「三国志演義」にも記されるエピソード。)
・子の公孫続を使者とし、黒山の張燕に救援を求める。しかし、途中で捕らえられる。公孫瓚は偽の情報を掴まされ、出撃して敗れる。帰還すると、まず家族を殺害し、そのあと自害する。
・陳寿は公孫瓚を評して言う。「易京を保持したまま、坐して滅亡を待っていた。」
・陳寿は更に、公孫瓚、公孫度、公孫淵、陶謙、張楊をまとめて評する。「州郡を擁しながら、一匹夫以下であり、論じるに値しない。」(陳寿は史家としての立場上、魏や漢に従わなかった者を非難。)
・范曄(後漢書の著者)は公孫瓚を評して言う。「粗暴な性格で、猛々しい武才あり。劉虞といい関係を築けず、袁紹の勢威には歯が立たず。」