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チョウクン
張勲
  
~袁術軍の大幹部~

 袁術の将。諸軍を統率し、呂布を討伐する。味方の裏切りで敗北。



・袁術は寿春を制圧し、新たに本拠に据える。このとき、「橋蕤(きょうずい)共々、大将軍に任じられた」とある。(但し、当時の袁術は帝位僭称前。大将軍を任命する権限はなく、「大将」の誤記ともいわれる。)袁術は帝位簒奪の野心を持ち、周辺の都市を順次攻略。張勲らは中心となって、これに関わっていたと思われる。
・孫堅の子孫策が寿春に来る。張勲、橋蕤は孫策に心服する。(「三国志演義」には描かれない逸話。)

・袁術が帝位を僭称する。張勲は袁術の指令を受け、数万の軍を率い、徐州の呂布を攻撃する。途中で、味方の二将が離反。(袁術が人望を失っていたことが原因。)三方から挟撃され、潰走する。
・袁術が陳国に進軍した際、これに随行する。曹操が自ら討伐に来ると、袁術は橋蕤を後に残し、自身は寿春に去る。張勲も橋蕤共々、陳国に留まる。やがて、橋蕤は敗死したが、張勲は包囲を脱する。(なお、両者は、別の場所に駐屯していた可能性もある。)


・袁術は没落し、やがて病死する。張勲は、長史の楊弘共々、孫策を頼ろうとする。しかし、廬江太守の劉勲に襲撃され、捕らえられる。袁術の従弟の袁胤らは、張勲らとは別行動で、初めから劉勲を頼る。(こうして、袁術の旧臣・親族は、期せずして一堂に会した。)
・劉勲が城外に行軍中、孫策がその城を落とす。その後の張勲の消息は不明。袁術の妻子は孫策に保護される。(なお、ちくま学芸文庫の訳文には「張勲は曹操の元に亡命した」とある。原文は「勲」とあるのみで、文脈からいって張勲ではなく劉勲。)




橋蕤 紀霊


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