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エンショウ ホンショ
後漢の群雄。遊侠生活を送ってのち、宦官を討ち滅ぼし、続いて董卓討伐の軍を起こす。冀州に割拠し、やがて河北を全て制し、当時最大の勢力を築く。その後、官渡で曹操に敗れる。
・立派な容貌で、威風あり。また、身分にこだわらず士と接し、広く人望を集める。
・濮陽(ぼくよう)県の長となる。清廉を保ち、評判を得たという。(基本的に儒家。)
・官を辞し、汝南に帰郷する。三年間母の喪に服し、続いて、三年間父の喪に服する。(あえて仕官を避け、世の趨勢を窺った。)その後、洛陽の外れに移住。これらの期間、日々遊侠活動を行い、独自の人脈を築く。(曹操とも交流あり。)宦官に圧迫される者達を支援。
・侍御史、更に虎賁(こほん)中郎将へと昇進する。(前者は監察官で、「御史台」という府の補佐役。後者は近衛隊の隊長。)後に中軍校尉となる。
・司隷校尉に任じられる。司隷とは、洛陽(首都)と長安を含む地域。司隷校尉はその統治者。
・何進に対し、宦官誅殺を進言する。(宦官は横暴で、儒家勢力と常に対立。かつての抗争では、双方に死者が出た。)何進は最初同意したが、何太后(何進の妹)の反対を受け、意思が揺らぐ。袁紹はそこで、地方の強豪(董卓ら)を都に呼び、何太后に圧力をかける。(同時に、何進が後戻りできない状況を作った。)
・あるとき、何進は参内し、宦官達に殺害される。袁紹は兵と共に宮中に入り、宦官二千人をまとめて討ち滅ぼす。(逆境で決断力を発揮した。儒家勢力・宦官の長年の抗争は、これにより終結。)その直後に、董卓が洛陽に入城し、朝廷を制圧する。
・宮中で董卓と対峙し、屈しない構えを見せる。その後冀州(北方の州)に出奔し、再起の機会を待つ。董卓は袁紹の人脈を警戒し、懐柔することを考え、渤海太守に任命する。
・董卓討伐軍の盟主となる。諸地方の長官を統率し、洛陽の董卓を圧迫する。董卓は長安に遷都。
・従弟の袁術とは不仲。孫堅(袁術の傘下)が董卓討伐に向かうと、袁紹はその隙を狙い、部将周昂に留守を襲わせる。(董卓を倒す前に、袁家の内紛を片付ける算段。)孫堅は、公孫越と共に周昂を攻めたが、公孫越は戦死する。その従兄の勇将公孫瓚は、袁紹に敵意を向ける。
・公孫瓚の懐柔を試みるも、上手くいかない。そこで、公孫瓚の討伐に赴き、界橋という地で対陣する。部将麹義を先鋒に据え、自身は大軍でこれを援護し、公孫瓚を撃破する。その後、本陣に敵が到来。袁紹は麹義と共に、これを撃退する。
・黒山の賊が大挙して反乱。袁紹は討伐に向かい、これを全て平定する。(界橋に続き、大きな戦果。かなりの軍才を有していた。)
・少しのち、勇将呂布を味方に付け、黒山賊の首領・張燕を破る。(決定打は与えられず。)その後、呂布は横暴になり、袁紹は呂布の暗殺を試みる。しかし呂布は脱出。
・常々、寛容に統治する。反面、法を厳格に敷かず、有力者層が増長する。(これは、郭嘉が曹操に述べた見解。「かつての後漢王朝と同じ」とも指摘している。)
・配下の沮授が、帝を奉じることを勧めたが、袁紹はこれを却下。後に曹操が帝を奉じ、曹操に味方する者が増える。袁紹は後悔したという。
・曹操が大将軍に任じられる。袁紹はこれに不快感を表し、大将軍の位を曹操から譲り受ける。(曹操は当時、袁紹をはばかっていた。)
・公孫瓚と何度も交戦する。なかなか決着は付かない。
・公孫瓚は劉虞(幽州牧)と不仲になり、これを殺害する。 劉虞は仁徳をもって知られ、有力者や異民族(烏丸や鮮卑)にも広く人望あり。袁紹は、彼等を徐々に味方に取り込む。(取り分け、烏丸の懐柔に力を入れたという。)
・公孫瓚に攻勢をかけ、圧迫する。公孫瓚は易京に籠る。(易京は、公孫瓚が易県(冀州河間郡)に築いた城塞。)袁紹は手こずったが、やがて攻城兵器を調達。改めて攻撃をかけ、遂に易京を陥落させる。公孫瓚は自害し、その勢力は滅亡する。
・袁尚(三子)を気に入り、袁譚(長子)を青州に赴任させる。(時期不詳。)これは、跡目争いの元となる。
・曹操は徐州の劉備を討伐し、許都を留守にする。田豊は袁紹に許都襲撃を勧める。しかし袁紹は、子供の病気で気が乗らない。その後、延津(黄河の南岸)に軍を向けたが、敵将于禁は防ぎ通す。
・黎陽県(黄河北岸)に駐屯する。河を挟んで曹操と対峙。
・顔良(配下の勇将)を渡河させたが、やがて敗れ、袁紹自身が渡河する。その後、文醜(顔良と並ぶ勇将)が敗れたが、袁紹の兵力は依然強大。
・出撃して曹操と合戦し、これを破る。以後、一進一退の攻防が続く。曹操は兵糧が乏しくなり、撤退を考えたが、思い留まる。(この時点では、袁紹がはっきり優位。)
・参謀の許攸が寝返り、曹操に情報を漏らす。(当時の袁紹は独善的で、家臣は互いに政争中。許攸は、嫌気が差していた。)結果、曹操は袁紹の補給地・烏巣(うそう)に進軍。袁紹は、軽騎兵を烏巣に送り、主力を曹操の本営に向ける。どちらも失敗に終わり、官渡から敗走する。
・冀州の諸県が反乱する。袁紹はこれを討伐し、全て平定する。
・病により死去し、袁尚(三子)が跡を継ぐ。
・「献帝春秋」には、こう記される。「袁紹は寛容に為政し、百姓はその徳に感謝した。袁紹の死後、民衆は悲しみに暮れた。」(誇張はあると思われる。)
・部下への処断は厳しい。麹義が勝手な振舞いをすると、許さず誅殺する。また、田豊は剛直で知られ、官渡戦の前に度々諫言する。袁紹は田豊を投獄し、後に殺害する。(他にも、粛清の記録が複数ある。)
・陳寿は袁紹、劉表をまとめて評する。「威容と器量、見識をもって名声を得た。しかし、寛大な外面に反し、内に猜疑心あり。また、策を好みながら、決断力に欠ける。人材も活用できず。加えて、嫡子でない者を跡継ぎにした。これは、私情を優先し、礼制を無視する行為である。次の代で国が滅びたのは、不幸とは言えない(当然の結果である)。」
・范曄(後漢書の著者)は袁紹を評して言う。「優雅な容貌を持ち、河北に雄を示した。」また、劉表とまとめて、「資質は十分ではなく、跡目の問題でも誤った」と評している。
曹操 袁術 董卓 呂布
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エンショウ ホンショ
袁紹 本初
~破天荒なエリート~
後漢の群雄。遊侠生活を送ってのち、宦官を討ち滅ぼし、続いて董卓討伐の軍を起こす。冀州に割拠し、やがて河北を全て制し、当時最大の勢力を築く。その後、官渡で曹操に敗れる。
若年期
・豫州(よしゅう)の汝南郡出身。家系は時代屈指の名門。(代々、大臣を輩出した。)但し、袁紹は庶子(側室の子)。・立派な容貌で、威風あり。また、身分にこだわらず士と接し、広く人望を集める。
・濮陽(ぼくよう)県の長となる。清廉を保ち、評判を得たという。(基本的に儒家。)
・官を辞し、汝南に帰郷する。三年間母の喪に服し、続いて、三年間父の喪に服する。(あえて仕官を避け、世の趨勢を窺った。)その後、洛陽の外れに移住。これらの期間、日々遊侠活動を行い、独自の人脈を築く。(曹操とも交流あり。)宦官に圧迫される者達を支援。
何進時代
・当時、外戚の何進が大将軍に在任。朝廷で権勢を持つ。(外戚とは、太后や皇后の一族。宦官と対立関係にある。)袁紹は、何進の招聘に応じ、その掾(えん)となる。(掾とは府の属官。)・侍御史、更に虎賁(こほん)中郎将へと昇進する。(前者は監察官で、「御史台」という府の補佐役。後者は近衛隊の隊長。)後に中軍校尉となる。
・司隷校尉に任じられる。司隷とは、洛陽(首都)と長安を含む地域。司隷校尉はその統治者。
・何進に対し、宦官誅殺を進言する。(宦官は横暴で、儒家勢力と常に対立。かつての抗争では、双方に死者が出た。)何進は最初同意したが、何太后(何進の妹)の反対を受け、意思が揺らぐ。袁紹はそこで、地方の強豪(董卓ら)を都に呼び、何太后に圧力をかける。(同時に、何進が後戻りできない状況を作った。)
・あるとき、何進は参内し、宦官達に殺害される。袁紹は兵と共に宮中に入り、宦官二千人をまとめて討ち滅ぼす。(逆境で決断力を発揮した。儒家勢力・宦官の長年の抗争は、これにより終結。)その直後に、董卓が洛陽に入城し、朝廷を制圧する。
・宮中で董卓と対峙し、屈しない構えを見せる。その後冀州(北方の州)に出奔し、再起の機会を待つ。董卓は袁紹の人脈を警戒し、懐柔することを考え、渤海太守に任命する。
・董卓討伐軍の盟主となる。諸地方の長官を統率し、洛陽の董卓を圧迫する。董卓は長安に遷都。
冀州牧就任
・韓馥(かんふく)に代わり、冀州牧となる。州の首都は、魏郡の鄴(ぎょう)県。・従弟の袁術とは不仲。孫堅(袁術の傘下)が董卓討伐に向かうと、袁紹はその隙を狙い、部将周昂に留守を襲わせる。(董卓を倒す前に、袁家の内紛を片付ける算段。)孫堅は、公孫越と共に周昂を攻めたが、公孫越は戦死する。その従兄の勇将公孫瓚は、袁紹に敵意を向ける。
・公孫瓚の懐柔を試みるも、上手くいかない。そこで、公孫瓚の討伐に赴き、界橋という地で対陣する。部将麹義を先鋒に据え、自身は大軍でこれを援護し、公孫瓚を撃破する。その後、本陣に敵が到来。袁紹は麹義と共に、これを撃退する。
・黒山の賊が大挙して反乱。袁紹は討伐に向かい、これを全て平定する。(界橋に続き、大きな戦果。かなりの軍才を有していた。)
・少しのち、勇将呂布を味方に付け、黒山賊の首領・張燕を破る。(決定打は与えられず。)その後、呂布は横暴になり、袁紹は呂布の暗殺を試みる。しかし呂布は脱出。
勢力を固める
・名家出身の人士を重用し、政権の中核に据える。(名家とは、儒家官僚の家系。特別な豪族。)また、鄭玄(高名な儒学者)を賓客とし、礼遇する。・常々、寛容に統治する。反面、法を厳格に敷かず、有力者層が増長する。(これは、郭嘉が曹操に述べた見解。「かつての後漢王朝と同じ」とも指摘している。)
・配下の沮授が、帝を奉じることを勧めたが、袁紹はこれを却下。後に曹操が帝を奉じ、曹操に味方する者が増える。袁紹は後悔したという。
・曹操が大将軍に任じられる。袁紹はこれに不快感を表し、大将軍の位を曹操から譲り受ける。(曹操は当時、袁紹をはばかっていた。)
・公孫瓚と何度も交戦する。なかなか決着は付かない。
・公孫瓚は劉虞(幽州牧)と不仲になり、これを殺害する。 劉虞は仁徳をもって知られ、有力者や異民族(烏丸や鮮卑)にも広く人望あり。袁紹は、彼等を徐々に味方に取り込む。(取り分け、烏丸の懐柔に力を入れたという。)
・公孫瓚に攻勢をかけ、圧迫する。公孫瓚は易京に籠る。(易京は、公孫瓚が易県(冀州河間郡)に築いた城塞。)袁紹は手こずったが、やがて攻城兵器を調達。改めて攻撃をかけ、遂に易京を陥落させる。公孫瓚は自害し、その勢力は滅亡する。
・袁尚(三子)を気に入り、袁譚(長子)を青州に赴任させる。(時期不詳。)これは、跡目争いの元となる。
曹操と開戦
・曹操討伐に臨み、家臣たちに方針を問う。沮授、田豊は進言する。「防備を固め、奇兵をもって敵領を荒らせば、敵は自ずと敗れます。」一方、郭図(かくと)、審配は言う。「ご主君には神武があり、兵力は強大です。今が好機なので、一気に攻めるべきです。」袁紹は郭図らの意見に従う。(この時点では、どちらの意見が正しいとも言えない。)・曹操は徐州の劉備を討伐し、許都を留守にする。田豊は袁紹に許都襲撃を勧める。しかし袁紹は、子供の病気で気が乗らない。その後、延津(黄河の南岸)に軍を向けたが、敵将于禁は防ぎ通す。
・黎陽県(黄河北岸)に駐屯する。河を挟んで曹操と対峙。
・顔良(配下の勇将)を渡河させたが、やがて敗れ、袁紹自身が渡河する。その後、文醜(顔良と並ぶ勇将)が敗れたが、袁紹の兵力は依然強大。
官渡戦
・南下し、官渡(かんと)という地に進出。軍営を連ね、対峙を開始する。・出撃して曹操と合戦し、これを破る。以後、一進一退の攻防が続く。曹操は兵糧が乏しくなり、撤退を考えたが、思い留まる。(この時点では、袁紹がはっきり優位。)
・参謀の許攸が寝返り、曹操に情報を漏らす。(当時の袁紹は独善的で、家臣は互いに政争中。許攸は、嫌気が差していた。)結果、曹操は袁紹の補給地・烏巣(うそう)に進軍。袁紹は、軽騎兵を烏巣に送り、主力を曹操の本営に向ける。どちらも失敗に終わり、官渡から敗走する。
・冀州の諸県が反乱する。袁紹はこれを討伐し、全て平定する。
・病により死去し、袁尚(三子)が跡を継ぐ。
・「献帝春秋」には、こう記される。「袁紹は寛容に為政し、百姓はその徳に感謝した。袁紹の死後、民衆は悲しみに暮れた。」(誇張はあると思われる。)
・部下への処断は厳しい。麹義が勝手な振舞いをすると、許さず誅殺する。また、田豊は剛直で知られ、官渡戦の前に度々諫言する。袁紹は田豊を投獄し、後に殺害する。(他にも、粛清の記録が複数ある。)
・陳寿は袁紹、劉表をまとめて評する。「威容と器量、見識をもって名声を得た。しかし、寛大な外面に反し、内に猜疑心あり。また、策を好みながら、決断力に欠ける。人材も活用できず。加えて、嫡子でない者を跡継ぎにした。これは、私情を優先し、礼制を無視する行為である。次の代で国が滅びたのは、不幸とは言えない(当然の結果である)。」
・范曄(後漢書の著者)は袁紹を評して言う。「優雅な容貌を持ち、河北に雄を示した。」また、劉表とまとめて、「資質は十分ではなく、跡目の問題でも誤った」と評している。