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サイヨウ ハクカイ
後漢の官僚、学者。経書を大々的に校訂し、国政の矯正を試みる。後に、董卓が朝廷を制すると、厚遇を受ける。董卓が王允に殺害されたあと、王允に糾弾されて獄死する。
・若くして博学。詩の技法、算術、天文を好み、音律を巧みに操る。(つまり、文、理、音楽全てに長けていた。)
・強い孝心を持ち、親戚のことも気にかける。郷里で高い評判あり。
・琴の演奏に長ける。宦官たちがその噂を聞き、厚遇しようと考え、陳留太守に任じる。しかし、蔡邕は病と称して辞退。世俗との関わりを断ち、古典を研究して著述を行う。
・名臣橋玄の推挙により、司徒府(内政を司る)に招聘される。出仕後、(才腕を発揮し、)橋玄から改めて敬愛される。
・橋玄の推挙により、河平県の長に任じられる。(河平県はどこの郡の県なのか、調べても判明しない。誤記の可能性あり。)
・議郎(帝の補佐官)に昇進する。
・馬日磾(ばじつてい)、盧植、楊彪らと共に、六経(六つの経書)の校訂を完成させる。霊帝の許可の元、太学(都の国立学校)の門外に石碑を立て、校訂結果を刻む。(なお、太学の建物は城邑外。南側。)たくさんの学生・研究者がそこに殺到。
・霊帝は常々、文学(詩など)、書道に長けた者を重用する。蔡邕は上奏し、儒学の士を用いることを進言。(漢王朝は本来、儒教国家。宦官が体制を瓦解させ、国は乱れた。)
・あるとき、霊帝に対し、官界の浄化を提言する。曹節(高位の宦官)、陽球(高級官僚)らが怒り、理由を付けて蔡邕を糾弾。しかし、呂強(高位の宦官)が蔡邕を弁護する。(呂強は常々、霊帝の諫め役だったとされる。)結果、蔡邕は流刑で済まされ、朔方郡に流される。(朔方郡は、并(へい)州の北西端。)
・陽球は、道中での暗殺を試みる。依頼された者は皆、蔡邕に味方する。
・五原郡(并州)に移されてのち、大赦により帰郷。しかし、故郷でも宦官派の恨みを買い、呉郡(揚州)に亡命する。
・祭酒(学界のトップ)に任じられる。
・高第(官僚の候補枠の一つ)に推挙され、三日の間に侍御史(監察官)、持書御史(同じく監察官)、尚書(帝の秘書官)と移る。
・巴郡太守に任じられたが、赴任する前に取り止め。(理由不明。)代わりに、侍中(政治顧問)に任じられる。後に、左中郎将となる。
・董卓は暴政を行い、袁紹らが討伐軍を起こす。董卓は、長安遷都を強行。その後、董卓は「尚父」の称号を得ることを欲する。(かつて、太公望(呂尚)が尚父と呼ばれた。董卓は、これを称号化して名乗ることを考案。)蔡邕は、これに反対する。「明公(董卓)の御威徳は、まことに大きなものです。しかし、今のところ、太公望に並ぶとは言い切れません。まず東方の平定を終え、続いて洛陽に都を戻し、そののち改めて検討しましょう。」董卓はこれに同意する。
・あるとき天災(地震)が起こり、董卓からどうすべきか尋ねられる。蔡邕は、「前に帝が祭祀を行った際、董卓様の車が豪奢すぎた」旨を述べる。董卓は以後、飾り立てを控え目にする。
・やがて、董卓は王允(大臣)、呂布(配下の武将)に暗殺される。蔡邕は思わず慨嘆し、王允に投獄される。多くの者が弁護したが、王允は許さず、蔡邕は獄死する。
・鄭玄(高名な儒学者)は、蔡邕の死後、「漢の世は誰と正せばよいのか」と嘆く。また、蔡邕の故郷陳留の人々は、肖像画を描いて蔡邕を祀る。
・詩、賦、碑文、論、議(意見)など104篇を著したという。
・蔡邕の娘は蔡琰(さいえん)といい、字(あざな)は文姫。才女として知られ、蔡邕同様、音楽にも長ける。李傕(りかく)らの時代、匈奴の劉豹(左賢王)に拉致され、二人の子を設ける。
・蔡邕の伝記は、陳寿「三国志」にはない。「後漢書」に立伝されている。
・范曄(後漢書の著者)は蔡邕を評して言う。「静を重んじ、心を磨き、甘言には耳を傾けず、絶えず奔走した。しかし、結局失敗した。」
董卓 盧植 楊彪 王允
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サイヨウ ハクカイ
蔡邕 伯喈
~漢王朝の再建に努めた儒学者~
後漢の官僚、学者。経書を大々的に校訂し、国政の矯正を試みる。後に、董卓が朝廷を制すると、厚遇を受ける。董卓が王允に殺害されたあと、王允に糾弾されて獄死する。
霊帝の時代1
・兗州(えんしゅう)の陳留郡出身。
・若くして博学。詩の技法、算術、天文を好み、音律を巧みに操る。(つまり、文、理、音楽全てに長けていた。)
・強い孝心を持ち、親戚のことも気にかける。郷里で高い評判あり。
・琴の演奏に長ける。宦官たちがその噂を聞き、厚遇しようと考え、陳留太守に任じる。しかし、蔡邕は病と称して辞退。世俗との関わりを断ち、古典を研究して著述を行う。
・名臣橋玄の推挙により、司徒府(内政を司る)に招聘される。出仕後、(才腕を発揮し、)橋玄から改めて敬愛される。
・橋玄の推挙により、河平県の長に任じられる。(河平県はどこの郡の県なのか、調べても判明しない。誤記の可能性あり。)
霊帝の時代2
・朝廷に戻り、郎中(宮仕えの官)となる。・議郎(帝の補佐官)に昇進する。
・馬日磾(ばじつてい)、盧植、楊彪らと共に、六経(六つの経書)の校訂を完成させる。霊帝の許可の元、太学(都の国立学校)の門外に石碑を立て、校訂結果を刻む。(なお、太学の建物は城邑外。南側。)たくさんの学生・研究者がそこに殺到。
・霊帝は常々、文学(詩など)、書道に長けた者を重用する。蔡邕は上奏し、儒学の士を用いることを進言。(漢王朝は本来、儒教国家。宦官が体制を瓦解させ、国は乱れた。)
・あるとき、霊帝に対し、官界の浄化を提言する。曹節(高位の宦官)、陽球(高級官僚)らが怒り、理由を付けて蔡邕を糾弾。しかし、呂強(高位の宦官)が蔡邕を弁護する。(呂強は常々、霊帝の諫め役だったとされる。)結果、蔡邕は流刑で済まされ、朔方郡に流される。(朔方郡は、并(へい)州の北西端。)
・陽球は、道中での暗殺を試みる。依頼された者は皆、蔡邕に味方する。
・五原郡(并州)に移されてのち、大赦により帰郷。しかし、故郷でも宦官派の恨みを買い、呉郡(揚州)に亡命する。
董卓の時代1
・十余年後、董卓から招聘を受ける。病と称して断ったが、董卓におどされ、結局応じる。・祭酒(学界のトップ)に任じられる。
・高第(官僚の候補枠の一つ)に推挙され、三日の間に侍御史(監察官)、持書御史(同じく監察官)、尚書(帝の秘書官)と移る。
・巴郡太守に任じられたが、赴任する前に取り止め。(理由不明。)代わりに、侍中(政治顧問)に任じられる。後に、左中郎将となる。
・董卓は暴政を行い、袁紹らが討伐軍を起こす。董卓は、長安遷都を強行。その後、董卓は「尚父」の称号を得ることを欲する。(かつて、太公望(呂尚)が尚父と呼ばれた。董卓は、これを称号化して名乗ることを考案。)蔡邕は、これに反対する。「明公(董卓)の御威徳は、まことに大きなものです。しかし、今のところ、太公望に並ぶとは言い切れません。まず東方の平定を終え、続いて洛陽に都を戻し、そののち改めて検討しましょう。」董卓はこれに同意する。
・あるとき天災(地震)が起こり、董卓からどうすべきか尋ねられる。蔡邕は、「前に帝が祭祀を行った際、董卓様の車が豪奢すぎた」旨を述べる。董卓は以後、飾り立てを控え目にする。
董卓の時代2
・日々、董卓から学識を重宝がられ、厚遇を受ける。しかし総じて、進言はあまり通らない。あるとき、兗州(故郷)への逃亡を考え、従弟に相談する。しかし、「貴方は常人と異なる容貌ですから、隠れるのは無理です」と言われ断念。
・やがて、董卓は王允(大臣)、呂布(配下の武将)に暗殺される。蔡邕は思わず慨嘆し、王允に投獄される。多くの者が弁護したが、王允は許さず、蔡邕は獄死する。
・鄭玄(高名な儒学者)は、蔡邕の死後、「漢の世は誰と正せばよいのか」と嘆く。また、蔡邕の故郷陳留の人々は、肖像画を描いて蔡邕を祀る。
・詩、賦、碑文、論、議(意見)など104篇を著したという。
・蔡邕の娘は蔡琰(さいえん)といい、字(あざな)は文姫。才女として知られ、蔡邕同様、音楽にも長ける。李傕(りかく)らの時代、匈奴の劉豹(左賢王)に拉致され、二人の子を設ける。
・蔡邕の伝記は、陳寿「三国志」にはない。「後漢書」に立伝されている。
・范曄(後漢書の著者)は蔡邕を評して言う。「静を重んじ、心を磨き、甘言には耳を傾けず、絶えず奔走した。しかし、結局失敗した。」