トップページ三国志総合事典(正史)人物事典-後漢

ロショク シカン
盧植 子幹
  
~文武に長けた儒学者~

 後漢の政治家、軍人。儒学を探究し、朝政の矯正に努め、地方でも治績を挙げる。後には、黄巾討伐で活躍する。劉備の学問の師でもある。



初期
・幽州の涿(たく)郡出身。身の丈八尺二寸(190cm以上)。声は鐘の如し。

・鄭玄と共に、馬融(儒学者)に師事する。
・馬融はしばしば、妾達を舞わせたが、盧植は目もくれない。このため、馬融から敬愛される。
・儒学を学ぶ際、ひたすら真髄を探り、細かい字句にはこだわらない。(諸葛亮を思わせる。)
・剛毅で節義があり、常に救世の志を持つ。詩賦の技術には、特に興味は持たない。一方では酒を好み、豪快に飲んだという。

・州、郡から度々招聘されるも、応じようとしない。朝廷から博士に任じられると、ようやく仕官する。(博士とは、政治の疑事に答える官職。)




太守として活躍
・九江郡(揚州)で異民族が蜂起する。盧植は、朝廷から文武の才を見込まれ、九江太守に任じられる。恩と信を示し、異民族を服従させる。(劉虞を思わせる。)
・病により辞職し、帰郷する。

・私塾を開き、人々に教授する。(劉備も生徒の一人。)
・経書(儒学書の一群)の研究に尽力。例えば、「尚書」、三礼(「周礼」「儀礼」「礼記」)を読み込み、それぞれの解釈書を著す。著書名は、「尚書章句」と「三礼解詁」。


・南方で異民族が蜂起する。盧植は、廬江郡(揚州)の太守に任じられる。清廉と平常を重んじ、要綱を明示し、法による締め付けは避ける。在任は数年に及んだという。(統治が軌道に乗っていたのだろう。)




霊帝に提言・黄巾討伐
・朝廷に招聘され、議郎(帝の補佐官)に任じられる。
・蔡邕(さいよう)、楊彪らと共に、経書の校正、「漢記」の補完を行う。

・霊帝から、侍中(政治顧問)に任じられる。後に、尚書(帝の秘書官)に転任する。
・あるとき、日食が起こる。盧植は上奏し、政治の矯正を提言する。「凶兆に対処するため、八つの策を献じます。一に良臣を用い、二に禁(党錮の禁)を解き、三に伝染病を予防し、四に侵略に備え、五に礼を重んじ、六に尭(古代の五帝の一人)に習い、七に下の者をよく御し、八に財を天下に散じます(福祉に力を入れる)。」しかし、霊帝は聞き入れず。(霊帝は宦官を信任し、儒家官僚を軽んじていた。)


・張角が農民たちを率い、反乱(黄巾の乱)を起こす。盧植は、黄巾討伐に参加し、冀州に進軍する。張角を撃破し、広宗県に追い込む。
・朝廷は宦官の左豊を遣わし、様子見をさせる。盧植は左豊に贈賄しなかったため、「戦う気がない」と讒言(ざんげん)される。結果、都に護送され、死罪の次に重い罪とされる。
・その後、皇甫嵩が黄巾を破り、「勝てたのは盧植のおかげです」と述べる。その結果、盧植は官に復帰し、元通り尚書を務める。




漢王朝に尽くす
・何進(外戚)、袁紹(名門貴族)が宦官討伐を考え、董卓(西涼の武将)らを呼ぼうとする。(外戚とは皇后・太后の一族。)盧植は何進に諫言する。「董卓は凶にして悍。必ず災いを起こします。」しかし、聞き入れられず。

・何進は、宦官の張譲らに殺害される。袁術(袁紹の従弟)、呉匡(何進の腹心)が報復戦を開始し、南宮の門を突破する。張譲らは、帝(少帝)・太后(何太后)を拉致し、逃走を開始。宮殿の間の通路に出て、ずっと進んでいく。盧植はたまたま宮庭にいたが、矛をもって張譲らを咎める。張譲らは太后を釈放。

・董卓が朝廷を制圧。(盧植が案じていた通り。)まもなく、董卓は帝(少帝)の廃立を主張する。諸官は同意したが、盧植は反対を述べる。董卓は盧植を殺害しようとしたが、周りが制止し、免官するに留める。盧植は帰郷する途中、行方をくらます。

・袁紹が冀州牧となる。盧植は、袁紹に招聘され、軍師(官職名)に任じられる。(あまり知られていない事実。)その翌年に病死し、一族は曹操に厚遇される。


・盧植の伝記は、陳寿「三国志」にはない。「後漢書」に立伝されている。
・范曄(後漢書の著者)は盧植を評して言う。「文武を兼備し、儒者の服を着て戦場に赴いた。」(「儒将」の代表格の一人。)




皇甫嵩 朱儁 楊彪 蔡邕


トップページ三国志総合事典(正史)人物事典-後漢