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トウタク チュウエイ
董卓 仲穎
  
~辺境出身の野心家~

 後漢の群雄。西の辺境に生まれ、長年異民族と対し、その後朝廷を制圧する。中原の人士達を任用したが、思うように人望は得られず、次第に横暴を強める。長安遷都を強行し、後に王允(大臣)、呂布(部下)に殺害される。



遊侠
・涼州の隴西(ろうせい)郡出身。地方官吏の子。
・怪力で武芸に秀でる。取り分け、騎射を得意とする。二つの弓袋(ゆぶくろ)を身に付け、馬上で左右から同時に射る。「後漢書」には、「羌族や胡(えびす)族は、そんな董卓を恐れた」とある。また、「後漢書」によると、「策謀にも長ける」。

・遊侠を好み、羌族の居住地を渡り歩く。(当時、羌族は漢王朝に服属しており、漢の領内に住んでいた。)その頭領達と会い、義の交わりを結ぶ。
・帰郷し、農耕生活を送る。あるとき、羌族の頭領達が来訪すると、董卓は農耕牛を殺して歓待する。彼等はその意気に感じる。




活躍
・胡(えびす)族が郡に侵入し、住民を連れ去る。董卓は涼州の従事(補佐官)に任じられ、騎兵を率いて胡を討伐する。四桁の敵を倒し、勝利を得る。
・中郎将の張奐が并(へい)州で反乱者を討伐。董卓は司馬(軍のまとめ役)に任じられ、反乱鎮圧に参加する。戦功を挙げ、褒賞品は全て部下に分け与える。


并州刺史や河東太守となる。羌族の反乱軍と歴戦する。(反乱の一因は、漢王朝による差別とされる。)その後、黄巾を討伐したが、敗れて免官となる。(黄巾軍は、威名のある董卓を警戒し、防備を固めたのだろう。)

・涼州の辺章、韓遂が反乱し、三輔に侵入する。(三輔とは、首都圏西部の三郡。)董卓は中郎将となり、張温の元で討伐する。「後漢書」によると、韓遂らはあるとき撤退を開始。董卓はこれを追撃し、大勝を得たという。
・韓遂らは粘り、戦況は膠着。董卓は撤退を決める。川をせき止め、通路を作り、追撃をかわす。(優れた統率力。)




朝廷制圧
・何進(大将軍)の召し出しを受け、軍を率いて洛陽に向かう。近辺に駐屯。
・何進は宦官に殺害され、袁紹(名門貴族)が宦官を討ち滅ぼす。董卓は、洛陽に入城し、朝廷を制圧する。(長年の辺境生活ののち、遂に中央に進出。)

・王允、蔡邕(さいよう)を信任する。(いずれも儒者。前者は官僚、後者は学者として名声があった。)また、韓馥(かんふく)、張邈(ちょうばく)ら士大夫層を起用し、地方長官に任じる。(この頃の董卓は、権力欲だけでなく、真面目に為政する気もあった。)


・当時、帝(少帝)の母の何太后は権勢あり。董卓は少帝の廃立を目論み、袁紹に話す。(漢王朝の恩徳は、辺境には行き届いておらず、董卓は尊重の気持ちを持っていなかった。)袁紹はこれに反発し、冀州に出奔する。(袁紹は型破りな人物だが、基本的に、道理を重んじる中原人。董卓には付いて行けず。)

少帝廃立を強行し、新しく献帝を立てる。また、(脅しをもって)太尉(三公の一つ)に就任し、軍権を一手に掌握する。続いて、最高位の相国(しょうこく)に昇進する。(董卓は恐らく、中原の空気が合わず、その反発から暴走を強めた。)
・厳しい刑罰で人々を威圧し、恨みには必ず報復する。また、祭りを行っている農民達を殺戮し、賊を討って勝利したと称する。
・曹操を厚遇し、味方に付けようとする。しかし、曹操は都を脱出する。




長安遷都
・袁紹、曹操が董卓討伐軍を起こす。韓馥、張邈らもこれに応じ、南方では袁術、孫堅が行動を開始。董卓は少帝、何太后を殺害し、更に、長安遷都を強行する。自身はしばらく、洛陽に留まる。
・反董卓軍の王匡が、北から洛陽に進軍する。董卓は陽動作戦を用い、背後から急襲して大勝する。

・陵墓(皇室の墳墓)を暴き、財宝を収奪する。富豪達を罪に陥れ誅殺し、その財産を没収する。更に、洛陽の町を焼いて回る。(稀代の暴虐。)
・「後漢書」によると、孫堅を迎撃して敗北。(決戦ではなく、その後も勢力は衰えず。)


洛陽を去り、長安に移る。また、郿(び)に巨大な城塞を構築。この城塞は、郿塢(びう)と呼ばれる。(なお、長安は、京兆尹に属する県。郿は、右扶風郡に属する県で、長安の西に位置する。)
・感情により刑罰が濫用される。また、質の悪い貨幣を鋳造し、都の経済が機能しなくなる。

・王允が勇将呂布を味方に付け、董卓暗殺計画を立てる。呂布が自ら、董卓を殺害する。領民達は互いに喜び合う。しかし、その後、残党が長安を制圧する。


陳寿は董卓を評して言う。「心がねじけ残忍。暴虐で仁なし。史上において他に比類がない。」また、范曄(後漢書の著者)による評も、陳寿と同様。




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