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サクユウ
笮融
  
~悪徳の野心家~

 後漢の地方領主。当初、陶謙の輸送官となったが、手段を選ばず私財を蓄える。後に仏教を広め、寺院を立てて人を集め、勢力を作る。劉繇の傘下に入ったが、離反して劉繇に撃破され、民に殺害される。



仏教布教
・揚州の丹陽郡出身。家系は不明。
・数百人を集め、陶謙(徐州の長官)に仕える。(恐らく豪族出身。)広陵郡、彭城国などで輸送を担当。好き勝手に人々を殺害し、略奪を行う。更に、朝廷への貢物を私物化する。(陶謙は恐らく、笮融の所業を放置。)

下邳(かひ)国の相に任じられる。
・寺院を建立し、内部を豪奢に飾る。収容人数は三千人。また、集まった人々には、仏典を読むことを義務付ける。更に、領内に命令を発し、人々に出家を奨励。出家すれば賦役を免除することとし、五千戸が集まる。(本人の信仰心は不明。外面だけ見ると、改心した印象も受ける。)


・曹操が陶謙を討伐すると、笮融は広陵に避難し、太守趙昱の賓客となる。(この趙昱は、清廉潔白な能吏。)宴の最中、笮融は趙昱を殺害し、領内で大略奪を行う。(本性は、何も変わっていなかった。)




孫策を防ぐ
・薛礼(彭城国の相)共々、劉繇を盟主とする。(劉繇は揚州の長官。)薛礼は秣陵県の県城に駐屯し、笮融はその南に砦を構築。


・孫策(袁術傘下)の軍が到来する。笮融は迎撃したが敗れ、砦の守備に徹する。孫策は、取り合えず放置。

・孫策は薛礼を敗走させ、再び笮融を討伐する。孫策は矢傷を受けると、自分が討死したという情報を流す。笮融はそれを信じ、部下に出撃を命じたが、伏兵によって大敗。以後塹壕を深くし、砦の壁を高くし、守りに徹する。孫策は諦めて退去。(結果を見れば、笮融は砦を守り切った。才腕があったのは間違いない。)




豫章での行動
・朝廷が朱晧(しゅこう)を豫章太守に任じる。しかし、豫章郡の治所(南昌県)には、袁術が任じた豫章太守・諸葛玄が駐在。(諸葛玄は、劉表派だったという説あり。なお、諸葛亮のおじでもある。)笮融は劉繇の指令を受け、朱晧と合流し、共に諸葛玄の討伐に赴く。
・許子将が劉繇に言う。「笮融は大義名分など気にかけぬ男。朱晧に使者を出し、注意をうながすべきです。」


・南昌に向かう途中、薛礼を殺害し、その軍を奪い取る。諸葛玄は諸葛亮を連れ、荊州に逃亡。笮融は郡庁を占拠すると、朱晧を殺害し、独立の姿勢を取る。(なお、諸葛玄は戦死説もある。)
・劉繇は笮融を討伐する。笮融はこれを撃退したが、劉繇は改めて兵を集め、再び笮融を討伐する。笮融は敗れ、山の中に逃げ込んだが、既に信頼はない。現地の民によって殺害される。(まさに自業自得。)
・独立した伝記はない。




陶謙 劉繇


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