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ガンリョウ
顔良
  
~袁紹軍一の猛将~

 袁紹の将。武勇で知られ、先陣となって白馬県(曹操の領地)を攻撃する。やがて、曹操本軍に背後を衝かれ、自ら迎撃に向かう。しかし、関羽(当時曹操配下)に討ち取られる。



・袁紹伝には、こう記される。「袁紹は審配、逢紀に軍の事務を統括させ、田豊、許攸、荀諶を参謀とし、顔良、文醜を将帥に任じた。精兵10万を動員し、許都を衝こうとした。」顔良と文醜は、当時の袁紹軍において、武将の筆頭だったらしい。(河北平定の際、かなり活躍したのだろう。)

・孔融(曹操の参謀)は、「顔良と文醜はその勇、三軍に冠たり」と評する。三軍とは上軍、中軍、下軍を指す。(常備軍の代名詞。)
・孔融の言に対し、荀彧はこう言う。「顔良と文醜は、一勇士に過ぎない。捕らえることは容易である。」勇士だが将器なし、と認識。


・袁紹は黄河の北に駐屯し、河を挟んで曹操と対する。顔良は先鋒に任じられ、対岸の白馬城を攻撃する。(城の守将は劉延。)沮授(袁紹の参謀)が、「顔良は驍勇といえども、短気で偏狭です」と反対したが、聞き入れられず。

・城はすぐには落ちない。一方、曹操が陽動行動を取り、袁紹は本営の兵をそちらに割く。その結果、顔良を援護する余裕がなくなる。
・曹操は、張遼と関羽(当時客将)を先鋒とし、白馬城に急行する。(顔良は、城内の敵と曹操本軍、二方面から狙われる形となる。)顔良は動揺しつつ、自ら曹操迎撃に向かう。(包囲軍の一部を割く形。)しかし、不利は挽回できず、顔良の軍は突き崩される。また、関羽は顔良の指揮車を見ると、直ちに馬を駆って急襲。顔良は討ち取られる。


・後には、文醜が延津で出撃したが、奇襲に遭って討死する。武帝紀にはこう記される。「顔良、文醜は袁紹の名将だった。二度の戦いで、二人共倒した。そのため、袁紹軍は震撼した。」




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