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コウホスウ ギシン
後漢の政治家、軍人。霊帝の時代、朝廷に仕官。後に黄巾を討伐し、本拠地(冀州)を陥落させる。続いて、冀州の牧となり、善政に努める。董卓の時代は重用されず。
・若年の頃より、文武を志す。「詩経」、「書経」を好み、弓馬にも熟練する。
・孝廉、茂才に推挙される。(いずれも、官僚の候補枠。)
・太尉の陳蕃(ちんばん)、大将軍の竇武(とうぶ)から招聘されるも、あえて応じず。(彼等は宦官と抗争中で、理想が先走りする傾向あり。皇甫嵩は、慎重な性格。)
・霊帝から公車で迎えられ、議郎(帝の補佐官)に就任する。その後、北地郡の太守に任じられる。(北地郡は涼州に所属。辺境の地。)
・左中郎将に任じられ、長社県の県城に駐屯する。(長社県は、豫州潁川(えいせん)郡に所属。)波才(黄巾の将)が大軍でこれを囲む。皇甫嵩は、部下達に言う。「戦争では、奇略を織り交ぜることが大事だ。兵の数は問題ではない。敵は現在、草の上に軍営を築いている。風に乗せて火を放てばよい。」
・まず、兵の一部に(合図用の)たいまつを準備させ、城壁の上に上らせる。その後、精兵を城外に出し、火をかけさせ、敵は混乱に陥る。城壁の上の兵は、それを見てたいまつを掲げ、城(城邑)の中の本軍に合図。本軍が出撃し、敵を破る。
・朱儁(しゅしゅん)、曹操が官軍に合流。皇甫嵩は改めて攻撃し、大勝する。
・朱儁ら共々、汝南郡、陳国の黄巾を破る。(いずれも豫州。)潁川郡に戻り、陽翟(ようてき)県で波才を破る。続いて、汝南郡、東郡(兗州)の黄巾を破る。
・広宗では、張梁(張角の弟)が精鋭の軍を統率。皇甫嵩もすぐには勝てず、戦況は膠着する。
・守備を固め、敵の鋭気が衰えるのを待つ。機を見て夜襲をかけ、張梁(張角の弟)を討ち取る。張角は、既に病死していたという。
・下曲陽県(鉅鹿郡)に進軍し、張宝を討伐する。(張宝は張角の弟。張梁の兄。)城を陥落させ、張宝を討ち取る。
・上奏し、「冀州の一年分の田租をもって、飢民を救いたい」と申し出る。霊帝は、これに同意。百姓は皆、安穏を得て感謝する。
・常に兵をいたわり、人望を集める。軍営を置く際、将兵が陣幕を設置し終わるのを待ち、そのあとで自分の陣幕を設置する。食事の際は、将兵が食べ終わるのを待ち、自分はそのあとで食べる。
・官吏の中に収賄する者がいると、(その程度じゃ足りないだろうと、)更に金銭を与えてやる。官吏の中には恥じ入り、自殺する者もいたという。
・閻忠という者が、皇甫嵩に自立を勧める。皇甫嵩は忠を述べて断る。閻忠が更に勧めると、皇甫嵩は言う。「非常の謀というものは、(現在のような)通常の情勢に対し用いるものではない。また、大功を初めから図ること(時勢と無関係に図ること)は、私のような庸才にはできない。また、人々がまだ主(帝)を忘れていない以上、主をないがしろにするのは、道理に反することだ。天は決して、逆(道理に逆らう者)に味方しない。」(皇甫嵩の慎重さ、堅実さがよく分かる発言。)
・あるとき、宦官から賄賂を要求される。これを拒否し、左車騎将軍の位を取り上げられる。
・到着後、董卓は急戦を主張する。しかし、皇甫嵩は持久策を決める。「城はすぐには落ちない。敵は勝手に疲れる。それを待てばよい。」やがて、敵は撤退する。
・董卓は言う。「追撃してはならない。追い込まれた敵は必死になる。」しかし、皇甫嵩は言う。「敵はただ、疲れて逃げているだけだ。」その後、追撃して大勝する。
・これらにより、董卓は皇甫嵩を憎んだという。(董卓は我が強い武将で、自分のやり方で勝つつもりだった。また、性格的にも合わなかったと思われる。)
・朝廷では、宦官が何進(大将軍)を殺害し、袁紹(名門貴族)が報復する。董卓が混乱に乗じ、朝廷を制圧。皇甫嵩は、董卓から招聘される。
・部下の一人が皇甫嵩に言う。「危険です。袁氏と協力し、董卓を討ちましょう。」皇甫嵩は従わず、董卓に拘束される。皇甫嵩の二人の子は、董卓と仲が良く、共に酒宴する。彼等は義によって董卓を責め、叩頭して涙を流す。董卓は皇甫嵩を釈放。
・議郎に任じられ、更に御史中丞(監察官)に昇進する。(いずれも高級官僚だが、権限はそれほど大きくない。)
・李傕、郭汜が長安を制圧。皇甫嵩は、太尉(防衛大臣)、光禄大夫(帝の側仕え)、太常(国の儀礼を司る)を歴任する。(李傕らは、皇甫嵩の名声を利用しようとした。)
・李傕、郭汜が争いを始めた頃、発病して死去する。後に、一族は朝廷から厚遇される。
・常々、愛情と慎みを持ち、全力で職務に当たる。しばしば、政治的に有益なことを上奏し、その数は五百以上に及ぶ。
・あえて身を低くして士にへり下り、門の前で長く待たされる客はいない。皆から称賛され、慕われたという。
・皇甫嵩の伝記は、陳寿「三国志」にはない。「後漢書」に立伝されている。
・范曄(後漢書の著者)は皇甫嵩を評して言う。「黄巾が湧き起こったとき、武を振るった。しかし、戦果を言い広めず、得た地位に安穏とせず、功を誇らなかった。」
董卓 朱儁 盧植
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コウホスウ ギシン
皇甫嵩 義真
~有徳の異才~
後漢の政治家、軍人。霊帝の時代、朝廷に仕官。後に黄巾を討伐し、本拠地(冀州)を陥落させる。続いて、冀州の牧となり、善政に努める。董卓の時代は重用されず。
育ち・仕官
・涼州の安定郡出身。皇甫節の子、皇甫規の甥。両者とも、朝廷の重臣。
・若年の頃より、文武を志す。「詩経」、「書経」を好み、弓馬にも熟練する。
・孝廉、茂才に推挙される。(いずれも、官僚の候補枠。)
・太尉の陳蕃(ちんばん)、大将軍の竇武(とうぶ)から招聘されるも、あえて応じず。(彼等は宦官と抗争中で、理想が先走りする傾向あり。皇甫嵩は、慎重な性格。)
・霊帝から公車で迎えられ、議郎(帝の補佐官)に就任する。その後、北地郡の太守に任じられる。(北地郡は涼州に所属。辺境の地。)
黄巾討伐
・張角が黄巾の乱を起こす。皇甫嵩は朝廷の会議に加わり、霊帝に進言する。「まず党錮を解きましょう。また、宮廷の財・馬を用い、軍に供給しましょう。」霊帝は同意する。(党錮は「党人の追放」の意。党人とは、徒党を組んだ儒家勢力。)
・左中郎将に任じられ、長社県の県城に駐屯する。(長社県は、豫州潁川(えいせん)郡に所属。)波才(黄巾の将)が大軍でこれを囲む。皇甫嵩は、部下達に言う。「戦争では、奇略を織り交ぜることが大事だ。兵の数は問題ではない。敵は現在、草の上に軍営を築いている。風に乗せて火を放てばよい。」
・まず、兵の一部に(合図用の)たいまつを準備させ、城壁の上に上らせる。その後、精兵を城外に出し、火をかけさせ、敵は混乱に陥る。城壁の上の兵は、それを見てたいまつを掲げ、城(城邑)の中の本軍に合図。本軍が出撃し、敵を破る。
・朱儁(しゅしゅん)、曹操が官軍に合流。皇甫嵩は改めて攻撃し、大勝する。
・朱儁ら共々、汝南郡、陳国の黄巾を破る。(いずれも豫州。)潁川郡に戻り、陽翟(ようてき)県で波才を破る。続いて、汝南郡、東郡(兗州)の黄巾を破る。
黄巾討伐2
・冀州に進軍し、広宗県(張角の本拠地)に向かう。(広宗県は、鉅鹿(きょろく)郡に所属。)なお、朱儁は荊州に進軍。曹操は済南国(青州)の相に就任。・広宗では、張梁(張角の弟)が精鋭の軍を統率。皇甫嵩もすぐには勝てず、戦況は膠着する。
・守備を固め、敵の鋭気が衰えるのを待つ。機を見て夜襲をかけ、張梁(張角の弟)を討ち取る。張角は、既に病死していたという。
・下曲陽県(鉅鹿郡)に進軍し、張宝を討伐する。(張宝は張角の弟。張梁の兄。)城を陥落させ、張宝を討ち取る。
冀州牧時代
・左車騎将軍、冀州牧に任じられる。(冀州は、黄巾の乱の中心地。)
・上奏し、「冀州の一年分の田租をもって、飢民を救いたい」と申し出る。霊帝は、これに同意。百姓は皆、安穏を得て感謝する。
・常に兵をいたわり、人望を集める。軍営を置く際、将兵が陣幕を設置し終わるのを待ち、そのあとで自分の陣幕を設置する。食事の際は、将兵が食べ終わるのを待ち、自分はそのあとで食べる。
・官吏の中に収賄する者がいると、(その程度じゃ足りないだろうと、)更に金銭を与えてやる。官吏の中には恥じ入り、自殺する者もいたという。
・閻忠という者が、皇甫嵩に自立を勧める。皇甫嵩は忠を述べて断る。閻忠が更に勧めると、皇甫嵩は言う。「非常の謀というものは、(現在のような)通常の情勢に対し用いるものではない。また、大功を初めから図ること(時勢と無関係に図ること)は、私のような庸才にはできない。また、人々がまだ主(帝)を忘れていない以上、主をないがしろにするのは、道理に反することだ。天は決して、逆(道理に逆らう者)に味方しない。」(皇甫嵩の慎重さ、堅実さがよく分かる発言。)
・あるとき、宦官から賄賂を要求される。これを拒否し、左車騎将軍の位を取り上げられる。
董卓との関わり
・王国(人名)が反乱し、陳倉県に進軍する。(陳倉県は、司隷の右扶風郡に所属。)皇甫嵩は董卓共々、陳倉の救援に向かう。
・到着後、董卓は急戦を主張する。しかし、皇甫嵩は持久策を決める。「城はすぐには落ちない。敵は勝手に疲れる。それを待てばよい。」やがて、敵は撤退する。
・董卓は言う。「追撃してはならない。追い込まれた敵は必死になる。」しかし、皇甫嵩は言う。「敵はただ、疲れて逃げているだけだ。」その後、追撃して大勝する。
・これらにより、董卓は皇甫嵩を憎んだという。(董卓は我が強い武将で、自分のやり方で勝つつもりだった。また、性格的にも合わなかったと思われる。)
・朝廷では、宦官が何進(大将軍)を殺害し、袁紹(名門貴族)が報復する。董卓が混乱に乗じ、朝廷を制圧。皇甫嵩は、董卓から招聘される。
・部下の一人が皇甫嵩に言う。「危険です。袁氏と協力し、董卓を討ちましょう。」皇甫嵩は従わず、董卓に拘束される。皇甫嵩の二人の子は、董卓と仲が良く、共に酒宴する。彼等は義によって董卓を責め、叩頭して涙を流す。董卓は皇甫嵩を釈放。
・議郎に任じられ、更に御史中丞(監察官)に昇進する。(いずれも高級官僚だが、権限はそれほど大きくない。)
その後
・董卓は暴虐を繰り返し、部下に殺害される。皇甫嵩は、征西将軍、続いて車騎将軍に任じられる。(いずれも、高位の将軍職。董卓の死をきっかけに、朝廷は皇甫嵩を大いに厚遇した。)・李傕、郭汜が長安を制圧。皇甫嵩は、太尉(防衛大臣)、光禄大夫(帝の側仕え)、太常(国の儀礼を司る)を歴任する。(李傕らは、皇甫嵩の名声を利用しようとした。)
・李傕、郭汜が争いを始めた頃、発病して死去する。後に、一族は朝廷から厚遇される。
・常々、愛情と慎みを持ち、全力で職務に当たる。しばしば、政治的に有益なことを上奏し、その数は五百以上に及ぶ。
・あえて身を低くして士にへり下り、門の前で長く待たされる客はいない。皆から称賛され、慕われたという。
・皇甫嵩の伝記は、陳寿「三国志」にはない。「後漢書」に立伝されている。
・范曄(後漢書の著者)は皇甫嵩を評して言う。「黄巾が湧き起こったとき、武を振るった。しかし、戦果を言い広めず、得た地位に安穏とせず、功を誇らなかった。」