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リカク チゼン
後漢の実力者。董卓に重用され、その死後、郭汜と共に長安を制圧。やがて郭汜と仲違いしたが、再結託し、帝を奪うために官軍を襲撃。しばらくのち、曹操が送った軍に殺害される。
・董卓討伐軍が起こり、孫堅が陽人城で戦勝する。李傕は孫堅への使者となり、講和を求めたが、拒否される。
・董卓が長安に移る。李傕は、牛輔の指揮下に入り、長安の東に駐屯。郭汜、張済と共に反乱軍に備える。あるとき、李傕らは、進軍して朱雋(しゅしゅん)と対峙。騎兵をもってこれを破る。李傕らの軍は、行く先々で殺戮を行う。
・董卓は暴君。王允(大臣)が勇将呂布を誘い、董卓を暗殺する。李傕らは、涼州で兵を集め、長安に進軍する。(参謀の賈詡(かく)の進言による。)大軍で呂布を破り、城を陥落させる。辺りで殺戮を行い、更に、王允を殺害する。
・李傕らは、兵を四方に放ち、大略奪を行う。結果、三輔(京兆、左馮翊、右扶風)は荒廃する。
・祭壇を作り、亡き董卓を祀る。また、帝が貧民に物資を施そうとすると、これらを私物化する。(いずれも、行為の主体は「李傕ら」ではなく「李傕」。)
・馬騰と韓遂が長安に進軍する。(馬騰らは、西方の軍閥。)李傕は郭汜、樊稠を遣わし、これを防がせる。李傕達は勝利。
・樊稠の実力、人望を警戒し、宴の席で殺害する。
・郭汜と仲違いし、抗争を始める。繰り返し、兵を交える。
・鬼神を派手に祀り、常に巫女を身辺に従える。鞭や剣で物々しく武装し、帝に謁見する際もそのまま。
・帝(献帝)に対し、しきりに郭汜の悪逆を述べる。帝が同意してみせると、李傕は喜び、退出後「本当に聡明な天子だ」と語る。(董卓に比べ、単純な面があったと思われる。)
・しかし、帝が(朝廷の)食糧不足を訴えたとき、李傕は「十分に差し上げている筈です」と言う。そして、腐った食べ物を与える。(献帝は、賢明で知られた人物。恐らく、食料不足は実情だった。)朝臣の一人は、李傕を評して言う。「辺境の野蛮な風土で育ち、善悪の判断が付かない。」
・賈詡を尊重し、その進言をよく聞く。しかし、時に煙たがったともいわれる。
・董承らは、白波黄巾の李楽、韓暹(かんせん)、胡才、更に南匈奴を味方に付ける。李傕らは敗れたが、後に再び襲撃し、勝利を得る。結局、帝は取り逃がす。
・黄白城に拠点を置く。(黄白城は、長安北の城塞。司隷の左馮翊(さふうよく)郡に存在。)この時期の挙動は不明。
・曹操が裴茂(はいぼう)を司令官とし、李傕を討伐させる。(時期は、李傕らが帝を取り逃がしてから二年。)裴茂は段煨(だんわい)ら諸将を従え、城を陥落させ、李傕の一族を誅殺する。(「太平御覧」によると、梁興・張横も討伐に参加。)
董卓 郭汜 張済 樊稠 賈詡
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リカク チゼン
李傕 稚然
~西涼出身の粗野な武将~
後漢の実力者。董卓に重用され、その死後、郭汜と共に長安を制圧。やがて郭汜と仲違いしたが、再結託し、帝を奪うために官軍を襲撃。しばらくのち、曹操が送った軍に殺害される。
長安制圧
・涼州の北地郡出身。(北地郡は国境地帯。北には異民族が居住。)董卓に仕え、校尉を務める。(校尉は上位の軍官。都尉の上。)・董卓討伐軍が起こり、孫堅が陽人城で戦勝する。李傕は孫堅への使者となり、講和を求めたが、拒否される。
・董卓が長安に移る。李傕は、牛輔の指揮下に入り、長安の東に駐屯。郭汜、張済と共に反乱軍に備える。あるとき、李傕らは、進軍して朱雋(しゅしゅん)と対峙。騎兵をもってこれを破る。李傕らの軍は、行く先々で殺戮を行う。
・董卓は暴君。王允(大臣)が勇将呂布を誘い、董卓を暗殺する。李傕らは、涼州で兵を集め、長安に進軍する。(参謀の賈詡(かく)の進言による。)大軍で呂布を破り、城を陥落させる。辺りで殺戮を行い、更に、王允を殺害する。
・李傕らは、兵を四方に放ち、大略奪を行う。結果、三輔(京兆、左馮翊、右扶風)は荒廃する。
・祭壇を作り、亡き董卓を祀る。また、帝が貧民に物資を施そうとすると、これらを私物化する。(いずれも、行為の主体は「李傕ら」ではなく「李傕」。)
・馬騰と韓遂が長安に進軍する。(馬騰らは、西方の軍閥。)李傕は郭汜、樊稠を遣わし、これを防がせる。李傕達は勝利。
支配・抗争
・郭汜、樊稠と共に、長安の城邑を三分割して支配。当時、盗賊が横行していたが、李傕らは取り締まることができず。また、身内の略奪行為を放置する。食糧の値段が高騰し、人々はまともに生活できない。(その結果、ますます盗賊が増加。)長安は混乱に陥る。・樊稠の実力、人望を警戒し、宴の席で殺害する。
・郭汜と仲違いし、抗争を始める。繰り返し、兵を交える。
・鬼神を派手に祀り、常に巫女を身辺に従える。鞭や剣で物々しく武装し、帝に謁見する際もそのまま。
・帝(献帝)に対し、しきりに郭汜の悪逆を述べる。帝が同意してみせると、李傕は喜び、退出後「本当に聡明な天子だ」と語る。(董卓に比べ、単純な面があったと思われる。)
・しかし、帝が(朝廷の)食糧不足を訴えたとき、李傕は「十分に差し上げている筈です」と言う。そして、腐った食べ物を与える。(献帝は、賢明で知られた人物。恐らく、食料不足は実情だった。)朝臣の一人は、李傕を評して言う。「辺境の野蛮な風土で育ち、善悪の判断が付かない。」
・賈詡を尊重し、その進言をよく聞く。しかし、時に煙たがったともいわれる。
官軍と対する
・張済に仲裁され、郭汜と和睦する。帝はほどなく、長安を脱出。李傕は、郭汜、張済と共に帝の奪還を図る。官軍を襲撃し、董承、楊奉を破る。・董承らは、白波黄巾の李楽、韓暹(かんせん)、胡才、更に南匈奴を味方に付ける。李傕らは敗れたが、後に再び襲撃し、勝利を得る。結局、帝は取り逃がす。
・黄白城に拠点を置く。(黄白城は、長安北の城塞。司隷の左馮翊(さふうよく)郡に存在。)この時期の挙動は不明。
・曹操が裴茂(はいぼう)を司令官とし、李傕を討伐させる。(時期は、李傕らが帝を取り逃がしてから二年。)裴茂は段煨(だんわい)ら諸将を従え、城を陥落させ、李傕の一族を誅殺する。(「太平御覧」によると、梁興・張横も討伐に参加。)