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シュシュン コウイ
後漢の政治家、軍人。朝廷と地方で官職を歴任。一方、南越、黄巾などの討伐で活躍する。後には董卓に抵抗し、反乱を起こす。李傕の時代、再び朝臣となったが、騒乱の中で憤死する。
・義を好み、財を軽んじ、評判を得る。
・あるとき、同郷の周規が、朝廷から招聘される。周規は郡の公金を借り、旅費に当てたが、後に返済に困る。朱儁は売り物の絹をもって、この周規を救う。
・その後、母から責められると、朱儁は言う。「小さい損は大きな益に繋がるもの。初め貧しくなっても、後には富むのが道理。」(当時の漢人社会は、人と人の関係を重んじる。他人に恩恵を施せば、いずれ自分に返ってくる。)
・この行為に、県長の度尚が感嘆。朱儁を、郡太守の韋毅に推薦する。かくて朱儁は、郡の役人となる。
・尹端(いんたん)が太守となる。朱儁は、主簿に任じられる。
・尹端は、許昌(反乱者)の討伐に失敗。州の役所は、尹端の誅殺を考え、朝廷に上奏しようとする。(元々、何らかの因縁があったと思われる。)朱儁は朝廷に赴き、大金を贈賄し、事前に上奏文を改変して貰う。結果、尹端は労役刑で済む。朱儁は、自分の行為を誰にも言わず。
・蘭陵県の令に任じられる。(徐州東海国の県。)非凡な治績を挙げ、東海国の相から表彰される。
・交州(南の辺境)で反乱が起こる。朱儁は、交州刺史に任じられ、反乱鎮圧に当たる。反乱したのは、主に越族(南方の異民族の総称)。
・まず、会稽郡(揚州)で兵を集め、五千人を手に入れる。その後、交州との境に進み、防備を固める。敵を威圧する一方、降伏を呼びかけ、動揺を誘う。その内に、交州七郡から、朱儁への援軍が集まる。その後、朱儁は総攻撃をかけ、大いに敵軍を破る。(以上は、「三国志演義」に描かれない大功。)
・諌義大夫(帝を諌める)に任じられ、朝廷に入る。
・南陽郡(荊州)で黄巾が反乱し、朱儁は討伐に赴く。敵は宛(えん)城を中心に抵抗。朱儁は一時苦戦したが、首領の趙弘を討ち取る。(なお、「三国志演義」では、劉備が朱儁の元で活躍。反面、朱儁の活躍はしばしば削られる。)
・残党の韓忠らが籠城を開始し、朱儁はこれを討伐する。土山をもって城内を狙い、その南西に攻撃をかけさせる。敵はそこを守るために殺到。朱儁自身はその隙に、精兵五千で北東の城壁を登り、韓忠らを敗走させる。
・韓忠らは小城に籠り、降伏を願う。朱儁は、これを許さない。部下達にこう述べる。「秦の時代の末期、民には拠り所がなく、彼等を受け入れることで、人々に道を示した。現在、漢王朝は四方を統治し、黄巾のみが天下を乱す。これを受け入れることは、善を勧めることにはならず、懲らしめる以外の手立てはない。」(実際は、漢の政治は(宦官が原因で)混乱状態にあり、農民は困窮して「黄巾の乱」を起こした。しかし、朱儁は漢の復興を信じ、常にそのために尽力。)
・城に攻撃をかけたが、勝利を得られない。そこで、囲いの一角を解き、出てきた敵を撃破する。これにより、南陽の黄巾軍は瓦解。
・光禄大夫(帝の側仕え)となってのち、将作大匠(宮殿を造営)、少府(内務全般)、太僕(行幸に随行)を歴任する。
・河内太守に任じられる。(河内郡は、司隷に所属。洛陽の北に位置する。)着任後、張燕(黒山賊の首領)の進軍に対処する。(黒山は、河内郡の北部の山。)迎撃して敗走させ、張燕は黒山に戻る。(なお、しばらくのち、袁紹が黒山賊を討伐。打撃を与える。)
・再び光禄大夫に任じられる。その後、屯騎校尉(騎兵を率い、宮殿を守る)、城門校尉(洛陽の城門を守る)を歴任。
・河南尹に任じられる。洛陽周辺を統治。
・董卓は長安遷都を考え、朱儁は反対する。董卓は朱儁を邪魔に思うも、その名声を慮る。そこで、太僕に任じると同時に、己の副官にしようとする。(太僕とは、帝の行幸に随行する官。)かくて、朱儁に使者を送る。
・使者が朱儁に任命を告げると、朱儁は断る。「副官の任には耐えられない。また、遷都は今すぐすべきではない。荷が重い官を辞退するのも、情勢について具申するのも、臣として当然だ。」使者が言う。「遷都のことなど知らない。一体、誰に聞いたのか?」朱儁は言う。「董卓から直々に聞いたのだ。」
・董卓が長安に去ると、朱儁は洛陽の守備を命じられる。まもなく、関東(函谷関の東)の諸将と連合し、反乱に踏み切る。荊州に出奔してのち、洛陽の東に駐屯する。
・牛輔(董卓の将)が大軍を率い、朱儁討伐に向かう。(牛輔の元には、歴戦の李傕、郭汜らがいる。)朱儁は敗れて撤退し、函谷関で守りを固める。
・驃騎(ひょうき)将軍に任じられ、東方の鎮圧を命じられる。まもなく、李傕らが互いに争い、朝廷は乱れる。結果、朱儁は都に留まることとなり、大司農に任じられる。
・郭汜によって拘束される。朱儁は元来、剛毅な性格。大いに憤慨し、発病して死去する。
・朱儁の伝記は、陳寿「三国志」にはない。「後漢書」に立伝されている。
・范曄(後漢書の著者)は朱儁を評して言う。「陳国・潁川の黄巾を倒し、南方では越族を制した。常に王命を慎んで受けた。」
皇甫嵩 盧植
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シュシュン コウイ
朱儁 公偉
~漢に尽くした異才~
後漢の政治家、軍人。朝廷と地方で官職を歴任。一方、南越、黄巾などの討伐で活躍する。後には董卓に抵抗し、反乱を起こす。李傕の時代、再び朝臣となったが、騒乱の中で憤死する。
初期
・揚州の会稽郡出身。幼くして父を失くし、母は絹を売って生活する。朱儁は、孝行をもって知られる。やがて、県に仕官し、門下書佐となる。
・義を好み、財を軽んじ、評判を得る。
・あるとき、同郷の周規が、朝廷から招聘される。周規は郡の公金を借り、旅費に当てたが、後に返済に困る。朱儁は売り物の絹をもって、この周規を救う。
・その後、母から責められると、朱儁は言う。「小さい損は大きな益に繋がるもの。初め貧しくなっても、後には富むのが道理。」(当時の漢人社会は、人と人の関係を重んじる。他人に恩恵を施せば、いずれ自分に返ってくる。)
・この行為に、県長の度尚が感嘆。朱儁を、郡太守の韋毅に推薦する。かくて朱儁は、郡の役人となる。
・尹端(いんたん)が太守となる。朱儁は、主簿に任じられる。
・尹端は、許昌(反乱者)の討伐に失敗。州の役所は、尹端の誅殺を考え、朝廷に上奏しようとする。(元々、何らかの因縁があったと思われる。)朱儁は朝廷に赴き、大金を贈賄し、事前に上奏文を改変して貰う。結果、尹端は労役刑で済む。朱儁は、自分の行為を誰にも言わず。
地方で活躍
・孝廉に推挙される。(孝廉とは、官僚の候補枠。)
・蘭陵県の令に任じられる。(徐州東海国の県。)非凡な治績を挙げ、東海国の相から表彰される。
・交州(南の辺境)で反乱が起こる。朱儁は、交州刺史に任じられ、反乱鎮圧に当たる。反乱したのは、主に越族(南方の異民族の総称)。
・まず、会稽郡(揚州)で兵を集め、五千人を手に入れる。その後、交州との境に進み、防備を固める。敵を威圧する一方、降伏を呼びかけ、動揺を誘う。その内に、交州七郡から、朱儁への援軍が集まる。その後、朱儁は総攻撃をかけ、大いに敵軍を破る。(以上は、「三国志演義」に描かれない大功。)
・諌義大夫(帝を諌める)に任じられ、朝廷に入る。
黄巾討伐
・黄巾の乱が起こる。朱儁は皇甫嵩共々、豫州の黄巾を討伐する。戦勝を重ね、潁川郡、汝南郡、陳国を全て平定する。
・南陽郡(荊州)で黄巾が反乱し、朱儁は討伐に赴く。敵は宛(えん)城を中心に抵抗。朱儁は一時苦戦したが、首領の趙弘を討ち取る。(なお、「三国志演義」では、劉備が朱儁の元で活躍。反面、朱儁の活躍はしばしば削られる。)
・残党の韓忠らが籠城を開始し、朱儁はこれを討伐する。土山をもって城内を狙い、その南西に攻撃をかけさせる。敵はそこを守るために殺到。朱儁自身はその隙に、精兵五千で北東の城壁を登り、韓忠らを敗走させる。
・韓忠らは小城に籠り、降伏を願う。朱儁は、これを許さない。部下達にこう述べる。「秦の時代の末期、民には拠り所がなく、彼等を受け入れることで、人々に道を示した。現在、漢王朝は四方を統治し、黄巾のみが天下を乱す。これを受け入れることは、善を勧めることにはならず、懲らしめる以外の手立てはない。」(実際は、漢の政治は(宦官が原因で)混乱状態にあり、農民は困窮して「黄巾の乱」を起こした。しかし、朱儁は漢の復興を信じ、常にそのために尽力。)
・城に攻撃をかけたが、勝利を得られない。そこで、囲いの一角を解き、出てきた敵を撃破する。これにより、南陽の黄巾軍は瓦解。
司隷で活躍
・右車騎将軍に任じられ、朝廷に戻る。
・光禄大夫(帝の側仕え)となってのち、将作大匠(宮殿を造営)、少府(内務全般)、太僕(行幸に随行)を歴任する。
・河内太守に任じられる。(河内郡は、司隷に所属。洛陽の北に位置する。)着任後、張燕(黒山賊の首領)の進軍に対処する。(黒山は、河内郡の北部の山。)迎撃して敗走させ、張燕は黒山に戻る。(なお、しばらくのち、袁紹が黒山賊を討伐。打撃を与える。)
・再び光禄大夫に任じられる。その後、屯騎校尉(騎兵を率い、宮殿を守る)、城門校尉(洛陽の城門を守る)を歴任。
・河南尹に任じられる。洛陽周辺を統治。
董卓の時代
・董卓が朝廷で実権を握る。朱儁は従う振りをし、内心では良く思わず。・董卓は長安遷都を考え、朱儁は反対する。董卓は朱儁を邪魔に思うも、その名声を慮る。そこで、太僕に任じると同時に、己の副官にしようとする。(太僕とは、帝の行幸に随行する官。)かくて、朱儁に使者を送る。
・使者が朱儁に任命を告げると、朱儁は断る。「副官の任には耐えられない。また、遷都は今すぐすべきではない。荷が重い官を辞退するのも、情勢について具申するのも、臣として当然だ。」使者が言う。「遷都のことなど知らない。一体、誰に聞いたのか?」朱儁は言う。「董卓から直々に聞いたのだ。」
・董卓が長安に去ると、朱儁は洛陽の守備を命じられる。まもなく、関東(函谷関の東)の諸将と連合し、反乱に踏み切る。荊州に出奔してのち、洛陽の東に駐屯する。
・牛輔(董卓の将)が大軍を率い、朱儁討伐に向かう。(牛輔の元には、歴戦の李傕、郭汜らがいる。)朱儁は敗れて撤退し、函谷関で守りを固める。
李傕の時代
・董卓は長安で殺害され、李傕、郭汜らが朝廷を制する。朱儁は、太僕(行幸に随行する)に任じられる。その後、太尉に任じられ、録尚書事も兼ねる。(太尉は防衛大臣、録尚書事は尚書台(帝の秘書機関)を監督。李傕らは朱儁の名声を利用。)
・驃騎(ひょうき)将軍に任じられ、東方の鎮圧を命じられる。まもなく、李傕らが互いに争い、朝廷は乱れる。結果、朱儁は都に留まることとなり、大司農に任じられる。
・郭汜によって拘束される。朱儁は元来、剛毅な性格。大いに憤慨し、発病して死去する。
・朱儁の伝記は、陳寿「三国志」にはない。「後漢書」に立伝されている。
・范曄(後漢書の著者)は朱儁を評して言う。「陳国・潁川の黄巾を倒し、南方では越族を制した。常に王命を慎んで受けた。」