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エンショウ ホンショ
袁紹 本初

 後漢の群雄。河北(黄河の北)の覇者。



人物像
 袁家は後漢後期において、代表的な名族。大臣の家系で、国の政治・軍事と深く関わった。
 袁紹は従弟の袁術と並び、袁家の中でも破天荒な人物。(袁術は異母弟ともいわれる。)また、袁紹は庶子(側室の子)であり、血統的には袁術の下。

 袁紹は若年の頃、多くの者から人気を集める。その中には、柄の悪い者もたくさんいた。広い社交性があったらしい。そして、内には強い意志を秘める。日々遊侠生活を送り、その中で政治活動も行った。次第に、宦官に警戒される存在になったという。

 袁紹はその後、朝廷に仕官し、文武の官を次々歴任。やがて、司隷校尉(首都圏の長官)に昇進する。あるとき、何進(大将軍)に対し、宦官誅滅を進言。何進が宦官に殺害されると、宦官達をまとめて殺戮。行動ぶりも尋常ではない。
 袁紹はまた、裏表のある人物だったという。相手を内心好まない場合も、表面上はあくまで大らかに振舞う。(つまり、内面、外面を使い分けるしたたかさを持っていた。)
 やがて、董卓討伐軍を起こし、地方長官たちを統率。影響力を増す。


 その後、冀州の牧(長官)となり、北方の地を治める。基本方針は、豪族、儒家名士の尊重。前者は農村を半ば支配し、後者は人脈を武器に政治と関わる。(また、儒家名士の多くは、豪族出身者でもある。)彼等を懐柔するか抑圧するか、当時二つの選択肢があったのだが、袁紹は前者を選択した。

 袁紹は、財政、人材いずれも充実させ、着実に地盤を固める。やがて、強敵公孫瓉を討ち滅ぼし、河北の地を全て制圧。随一の勢力を築く。袁紹は決して並の貴族ではなく、組織のボスとしての資質を備えていた。




袁紹と曹操
 袁紹は、儒教に則して為政。その政治体制は、かつての後漢王朝に似る。後漢の中期まで、朝廷の中心にいたのは、豪族出身の儒家官僚。(宦官台頭後、その体制は瓦解。)袁紹の配下も同様である。

 一方の曹操は、儒教社会への抵抗者。法治を重んじ、また、それをもって豪族を抑制する。袁紹と曹操は、やがて敵対するが、その本質は保守派・革新派の闘争であった。


 また、実際は、もう少し複雑な様相がある。曹操は漢の帝を擁しており、表面上は儒教を立てている。(漢王朝は儒教と一体。)また、曹操の元には荀彧(じゅんいく)という儒家名士がおり、中原に広く人脈を持つ。(この荀彧が、帝を奉じる利を説いた。)

 一方の袁紹は、「現皇帝(献帝)は董卓が勝手に立てた」とし、河北に独自の国家を建設。(この点では、曹操より革新的と言える。)
 また、袁紹の政治体制は、豪族の権勢を容認する。(この点が保守派。)豪族の中には、当然、貪欲な家系も存在。世俗的な豪族だけでなく、儒家を標榜している家系も、実際はそう清廉とは限らない。豪族優遇策は、いずれ、政治の破綻をもたらす可能性がある。(後漢王朝は実際、彼等を十分取り締まらず、次第に統治力が衰えた。)
 漢への忠義心が強い者や、豪族の権勢を危惧する者は、袁紹を選ばず曹操に付いた。(また、袁紹には、独善的な面あり。恐らく、その欠点を見抜いていた者も多い。)




袁紹と曹操2
 袁紹の家臣は、主に豪族出身の名士ら。各々が強い権勢、発言力を有する。曹操との対決に際し、互いに意見が衝突し、いがみ合う。袁紹は彼等をまとめ切れず、そのため行動が遅れやすい。

 それでも、官渡において、途中まで順調に戦局を進める。曹操は一時、本拠地への撤退を考える。しかし、結局踏み止まり、その後許攸(袁紹の参謀)が離反する。原因は、進言を斥けられたこと、及び同僚との不仲。後者がメインだろう。許攸の寝返りは、家臣団の分裂の表面化。

 曹操は許攸の情報に従い、烏巣の地(袁紹軍の補給地)を攻撃する。袁紹は烏巣救援に全力を傾けず、曹操の本陣にも兵を向ける。(重点は後者。敵の隙を衝く算段。)しかし、どちらも失敗に終わり、まもなく官渡から敗走。天下平定の志は頓挫する。


 袁紹は、「むやみに策を好む」と評される。(荀彧評、陳寿評。)
 袁紹は基本的に、正攻法に強い。その諸々の行動を見ると、高い計画性が窺える。河北で着実に地盤を固め、公孫瓉を追い込み、官渡では一時曹操を圧した。
 しかし、時に奇策を使おうとする。かつては、宦官に対抗するために、董卓を都に呼び寄せた。そして、官渡戦では、敵本陣の攻撃を断行。どちらも、結果は裏目に出ている。
 袁紹には、常識から外れることを好む面がある。それは、袁紹の持ち味の一つだが、失敗も目に付くのは否めない。(普段は、堅実で隙が少ない人物。)




跡目問題
 袁紹の欠点の一つとして、決断の遅さが挙げられる。中でも、跡継ぎをなかなか決めなかったことは、その代表例と思われる。
 袁紹陣営は、元々派閥構造が複雑。跡目問題は、それに拍車をかけた。

 一般的にいって、即断が常に正しいとは、勿論限らない。下手に決断して後悔するより、先延ばしにした方がいい場合もある。(そもそも、人それぞれ流儀がある。)しかし、時機を逸すれば、厄介な状況が生じる。家臣団の派閥対立は、いつの間にか決定的になっていた。
 袁紹はやがて、事態を収拾しないまま病死し、一部の参謀が強引に袁尚(三子)を跡継ぎにする。結果、袁譚(長子)との間で争いが起こり、袁家衰亡の要因となった。

 なお、跡目問題に関しては、曹操も長い期間迷っている。(泥沼化する直前に決断。)




河北統治
 袁紹の特徴として、善政が挙げられる。鄭玄を礼遇し、儒教の規範に則して為政。(鄭玄は、高名な儒学者。)かなり民心を得ていたという。
 また、郭嘉(曹操の参謀)の袁紹評には、「袁紹は貧者、困窮者を見ると心を痛める」とある。(それに続けて、「しかし、領土の隅々まで注意が行かない」と述べているが、これは貶める意図もある。)袁紹は基本的に、常識的な感覚を備えていたらしい。


 袁紹の統治は、豪族の協力を拠り所とする。また、家臣団は主に、豪族出身の儒家名士で構成される。つまり、豪族の中でも、儒家を志向する家系を優遇。これをもって、徳治を実現した。一方、名士層の利害を絶えず調整し、巧みに政権を維持。彼等各々の人脈、実力を存分に活用した。

 しかし、問題も当然存在する。この方法だと、中央集権は損なわれ、君主権力に不安が生じる。
 まず、官と一般民の間に、豪族が介在している。(豪族とは、特別な民。)中央集権とは、(法などによる)民の直接支配を意味するが、豪族がこれを妨げる。また、名士層の権勢も、時が経つにつれ強固になる。

 袁紹は当初、豪族・名士を上手く利用した。しかし、勢力を広げるにつれ、彼等の統御が難しくなった。そこで粛清という手段を取り、功臣や忠臣も殺害している。河北の支配だけで、もう限界だったのかも知れない。許攸の裏切りも官渡の敗北も、必然性があってのことだった。
 曹操は河北を制圧後、まず豪族達を締め付ける。


 それでも、袁紹に広く人望があったのは確からしい。袁紹死後、曹操の参謀達はしきりに言っている。「袁紹は常々、人々に恩徳を施していた。河北の領民は依然、袁氏を慕っている。まだまだ、袁氏を甘く見ることはできない。」
 袁紹の統治は長い間、順調にいっていたのだろう。(実際は内部に、問題を孕んでいたのだが。)




袁紹と曹操3
 袁紹は形式、様式にこだわり、曹操は本質を見たとされる。(郭嘉による比較論。)本来、後者の態度が正しいという訳ではない。一般的にいって、形式に従って行動するのが無難と思われる。

 袁紹は儒教の規範を重んじ、常識的に為政した。大きな反乱を起こされたこともない。一方の曹操は、度を越した殺戮を行ったことがある。また、重大な反乱を時々起こされている。
 一般に、本質を見ようとする態度は、ある程度危険を伴う。例えば本質の一部だけ見て、それを絶対とした場合、物事の認識が偏ることになる。袁紹と曹操を比べた場合、バランス感覚では袁紹が上回る。

 しかし形式を重んじる者は、人を捉える際も、何らかの型に当てはめる。また、基本的に柔軟さがなく、人の意見に耳を貸さない傾向を持つ。(しかも袁紹の性格は、元々が我を通したがる。)
 一方、本質を見ようとするタイプは、人それぞれの本分に目を向ける。また、人の意見も積極的に聞こうとし、良い部分は躊躇なく取り入れる。だから、曹操には、本当の忠臣が何人もいた。


 郭嘉はかつて、「袁紹は昔の周公を真似し、あえて謙虚に振舞うが、人の使い方を心得ていない」と評している。袁紹は、外在的な規範に則し、方向性、倫理観を定める。これは、長所でも短所でもあり、郭嘉は後者を強調した。
 実際、袁紹の部下は、各々権勢欲を発揮し、必ずしも袁紹に恭順はせず。そして土壇場では、重臣の許攸が離反した。袁紹は、十分な人徳は得られていない。

 勿論、袁紹と曹操どちらが(君主や為政者として)上か、一概には言えない。また、袁紹が中原を制していたら、その後改めて体制を整備し、政権を盤石にした可能性はある。




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