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蜀4


劉備のモチベーション
 小説「三国志演義」では、「劉備は正義、曹操は宿敵」と位置付けられる。
 即ち、「漢王朝を私物化する曹操、その成敗を考える劉備」という構図。

 現代人の感覚だと、「再興困難な王朝が滅びるのは、そんなにまずいことなのか」とか、「王朝自体にそんなに価値があるのか」と思ってしまうが。
 漢王朝は、基本的に、儒教と一体。(「天の意思」と関連。)一種の信仰対象になっていた。


 しかし、正史の劉備は、それほど儒家色は強くない。普通に考えて、漢王朝をそう重んじていたとも思えない。
 劉備の本当のモチベーションはどこにあったのか、というと、やはり野心が基本と思われる。故郷時代は、地元の顔役達と、積極的に交流したという。
 また、劉備は平原国の相になったとき、治安と福祉に尽力。領民から、大いに信望を得たという。劉備の野心の中身は、権勢欲だけではなく、自分が思う政治を現出させることにあった。




袁紹と劉備
 劉備が陶謙の後継者となり、徐州を領したとき、陳登が袁紹に使者を送った。袁紹は、「劉備は立派な人物だ」と述べ、賛同の意を示した。この逸話は、「献帝春秋」に記される。(「三国志」先主伝の註に引用。)
 袁紹はエリート意識が強く、他人を容易に認めない傾向があったが、劉備に対してはちょっと違った。

 後に、劉備は袁紹を頼り、直接の面識を持つ。袁紹は絶えず、礼を尽くしたという。




劉備の人徳
 劉備は、人徳エピソードに事欠かない。
 新野・葭萌に駐在時、一帯で広く人心を集め、陶謙・袁紹・袁譚・劉表からは、いずれも敬愛され、荊州で曹操から逃れる際は、多くの官民が望んで従った。

 赤壁戦後も、曹操支配下の荊州人が、多数逃亡。劉備の駐在地(油江口)に集まったという。




劉備と宴
 呉には宴に関する逸話が多いが、蜀にもこういうのがある。

 蜀臣の許慈と胡潜は、互いに不仲で、会う度に罵り合った。
 劉備は役者を二人、宴の場に呼び、許慈らの前で喧嘩の様を演じさせ、愚かさを悟らせた。

 劉備の人物性が分かる、貴重な逸話と言える。




費禕と揚儀
 最後の北伐が終わると、費禕は後軍師、楊儀は中軍師に任じられた。
 いずれも、丞相府の官職だが、(諸葛亮の死により)丞相は空席。府とは名ばかり、という状況。

 楊儀は名誉職にあって、日々鬱屈を抱く。費禕も勿論、立場的には同じ。(また、費禕が在任する後軍師は、楊儀の中軍師より下。)しかし、費禕は楊儀と異なり、朝廷との距離が近い。何らかの形で、朝政に参画していたと思われる。

 楊儀は費禕に対し、朝廷への愚痴を述べる。費禕は、これを朝廷に報告。(無情な行為にも思える。)公を何より優先したのか、それとも、邪魔な存在だったからか。(費禕は実直な儒者だが、政治家である以上、したたかな面もあった筈。)ともかく、楊儀は流刑にされ、その後自殺。
 まもなく、費禕は尚書令に就任する。それまで後軍師に留まっていたのは、楊儀への遠慮と思われる。




徐庶の伝記
 徐庶は庶民の家に生まれ、武侠生活を送り、後に向学。
 劉備に仕えてのち、(混乱の中で)中原に去り、魏で高級官僚となる。

 徐庶の伝は、「魏略」の列伝にある。(「徐福」という名で立伝。)
 徐庶とまとめて立伝されているのは、厳幹・李義・張既・游楚・梁習・趙儼・裴潜・韓宣の八名。
 厳幹らは、いずれも魏の臣で、独特の個性で活躍した人物。(中でも、張既辺りは有名と思われる。)




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