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年表(230年~249年)

 西暦、元号、月、出来事。



230年(魏・太和四年/呉・黄龍二年/蜀・建興八年)

二月曹真が大司馬、司馬懿が大将軍となる。(大司馬が上位。)
八月曹真が蜀に侵攻し、諸葛亮がこれを防ぐ。
九月魏軍は長雨で輸送が続かず、曹真は撤退を決める。
魏延(蜀将)が郭淮(魏将)と対戦し、これを破る。



231年(魏・太和五年/呉・黄龍三年/蜀・建興九年)


二月第四次北伐。諸葛亮が司馬懿と対峙する。
六月蜀軍は長雨で輸送が続かず、諸葛亮は撤退を開始。追撃してきた張郃を討ち取る。



232年(魏・大和六年/呉・嘉禾元年/蜀・建興十年)


一月孫権が軍馬を欲し、公孫淵に使者を出す。
十月孫権が公孫淵を侯に封じる。



233年(魏・青龍元年/呉・嘉禾二年/蜀・建興十一年)


三月公孫淵が孫権の使者を殺害する。
十二月孫権が合肥新城(魏領)を攻撃したが、満寵が堅守する。



234年(魏・青龍二年/呉・嘉禾三年/蜀・建興十二年)


四月第五次北伐。諸葛亮が五丈原に進出し、屯田しながら司馬懿と対する。
五月孫権が合肥新城、陸遜・諸葛瑾が襄陽に進軍する。
七月孫権側の機密が漏れ、全軍撤退となる。
八月諸葛亮が死去する。蒋琬が尚書令となり、諸事をまとめる。



235年(魏・青龍三年/呉・嘉禾四年/蜀・建興十三年)


四月蜀で、蒋琬が大将軍・録尚書事となる。費禕(ひい)が尚書令となる。



237年(魏・景初元年/呉・嘉禾六年/蜀・建興十五年)


六月公孫淵が魏に反逆し、燕王を名乗る。



238年(魏・景初二年/呉・赤烏元年/蜀・延煕元年)


一月司馬懿が公孫淵の征伐に赴く。
六月司馬懿が襄平を落とし、公孫淵を殺害する。
十二月曹叡が卑弥呼を「親魏倭王」とする。(239年説あり。この場合曹芳。)
この年孫権が呂壱の横暴を知って誅殺。



239年(魏・景初三年/呉・赤烏二年/蜀・延煕二年)


この頃曹爽が大将軍となる。次第に司馬懿を軽視。
一月曹叡が死去し、曹芳が即位する。
三月蜀で、蒋琬が大司馬となる。



240年(魏・正始元年/呉・赤烏三年/蜀・延煕三年)


この年蜀の張嶷(ちょうぎょく)が、越巂(えつすい)郡の太守となる。(南方の郡。異民族が多い。)



241年(魏・正始二年/呉・赤烏四年/蜀・延煕四年)


四月朱然(呉の将)が樊城を包囲する。 
五月太子の孫登が死去し、弟の孫和が太子となる。
六月司馬懿が朱然を撤退させる。
八月孫覇(孫和の弟)が魯王となり、孫和との抗争が始まる。(二宮事件と呼ばれる。)



243年(魏・正始四年/呉・赤烏六年/蜀・延煕六年)


十一月蜀で、費禕が大将軍・録尚書事となる。
十二月倭の卑弥呼の使者が、再び魏を訪問。(このときの帝は曹芳。)



244年(魏・正始五年/呉・赤烏七年/蜀・延煕七年)


一月陸遜が顧雍の後を継ぎ、丞相となる。
三月曹爽が漢中に進軍し、王平(蜀の将)が堅守する。
この年毌(かん)丘倹が高句麗を討伐し、大勝を収める。



245年(魏・正始六年/呉・赤烏八年/蜀・延煕八年)


二月呉の王宮の乱れにより、陸遜が憤死する。
この年蜀で、陳祗(ちんし)が侍中となる。



247年(魏・正始八年/呉・赤烏十年/蜀・延煕十年)


一月蜀の姜維が隴西郡に進軍し、魏の郭淮・夏侯覇を圧する。



249年(魏・嘉平元年/呉・赤烏十二年/蜀・延煕十二年)


一月司馬懿が曹爽を殺害する。夏侯覇(曹氏の一族)が蜀に亡命する。





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