トップページ三国志総合事典(正史)人物事典-蜀

キョセイ ブンキュウ
許靖 文休
  
~非凡な人徳~

 蜀の官僚。当初、後漢で人事を担当し、中央、地方の官界を浄化する。後に動乱を避け、苦難ののち交州に辿り着く。やがて益州に赴き、劉璋に仕え、後に蜀帝国の初代司徒となる。



朝臣時代
・豫州(よしゅう)の汝南郡出身。従弟の許劭(許子将)共々、人物評価の巧みさをもって知られる。
・許劭と仲が悪かったという。許劭が郡の功曹(人事に広く関わる)となったため、許靖は排斥され、馬磨きをして自活する。

・劉翊(りゅうよく)という人物が太守になる。許靖は計吏・孝廉に推挙される。(いずれも、官僚の候補枠。)その後、尚書郎に任じられ、主に官吏の選抜を担当。(尚書郎は、尚書台(秘書機関)で諸事に当たる。郎は若手の意。)


・董卓が朝廷を制圧する。許靖は、周毖(しゅうひつ)共々、広く天下の人事を任される。
・汚職官吏を追放し、世に知られていない人物を見出し、昇進が遅れている者を抜擢する。例えば、荀爽、韓融、陳紀らを、公、卿、郡太守に取り立てる。また、韓馥(かんふく)、劉岱、張咨(ちょうし)、孔伷、張邈(ちょうばく)を地方長官とする。
・許靖自身も、巴郡太守になる話が出る。しかし、許靖は辞退し、御史中丞(監察官)となる。




出奔
・袁紹が董卓討伐軍を起こし、韓馥、劉岱、孔伷らも参加。董卓は長安遷都を考え、伍瓊(ごけい)、周毖が反対する。董卓は怒る。「お前らが起用した奴らは、皆反乱した。今また、我の邪魔をするのか。」その後、二人を誅殺する。(すぐ後悔したという。)許靖は、従兄が孔伷に仕えていることもあり、危機を感じて出奔する。孔伷の元に避難。

・上奏して言う。「逆賊の仲間になって生を望むのは、心情からいって我慢できませんし、官職に執着して自分の身を危うくするのは、道義とは言えません。心中思いますのは、古人が危機に臨んであえて常道から外れ、非常の手段によって理想をなし遂げたことです。」


・孔伷死後、揚州刺史の陳禕(ちんい)を頼る。その死後、呉郡都尉の許貢、会稽太守の王朗を順に頼る。
・この頃、親類縁者、同郷の者などを引き取る。(結構な数に上ったと思われる。)許靖は彼等をよく慈しみ、規律を立てて生活の面倒を見る。(共同体のまとめ役として、手腕を発揮。)




交州時代
・孫策が江東に進出し、多くの者が交州に逃亡する。許靖もこれに倣う。出発時、岸辺に座り、同行者を先に船に乗せる。親類かそうでないかに関わらず、皆が出発し終わるのを待ち、ようやく自分も船出する。人々はそれを見て、溜息を付いて感嘆する。(なお、孫策は官民から人気があったが、一部の豪族、名士を迫害している。)
交州に到着する。交阯(こうし)太守の士燮(ししょう)から敬意を受け、厚遇される。


・当時、交州に袁徽(えんき)という者がいたが、荀彧(曹操の参謀で、儒家の名士)に手紙を送る。「許文休(許靖)は英才の持ち主で、優れた士でして、その知略は計を立てるに足ります。彼は故郷を離れて以来、多くの人と行動を共にしていますが、危急の事態があると、まず他人の安全を考えます。いつも九族全てと飢え、寒さを共にしてきました。仲間に対する規律もまた、仁愛に溢れたものなので、皆がよく従い、その例は列挙し切れないほどです。」




交州時代2
・朝廷(曹操の支配下)から、張翔が使者として来る。張翔は権力を振りかざし、許靖を従わせようとする。許靖は、張翔の圧力に屈せず。


・曹操に宛てて手紙を書く。まず、昔手紙を貰ったことへの感謝を述べ、次に、これまでの苦労を記す。「交州に向かう途中、飢え、異民族の反乱、風土病で多くの仲間を失いました。」また、こう述べる。「このまま亡命者として終わるのは辛いです。」

・続いて、曹操の覇業を称賛。更に、以下のように記す。「貴方様の地位は重く、言葉が口を出ればそのまま賞罰となり、その御心の存するところは、すぐさま禍福をもたらします。その行為が道義にかなっていれば、国家の安寧に繋がり、道義にかなっていなければ、四方は無秩序に陥ります。古代の興隆と滅亡の経緯、栄光と屈辱の分かれ目を、よくお学びになってください。また、人の旧悪はなるべくお忘れになり、役人を寛容に扱って下さい。種々の才能をしっかり見定められ、各々の官職に合った人物を選んで下さい。もし適任者を見出したら、仇敵であっても、その官職を与えるのです。不適任であるなら、身内でもその官職を授けてはなりません。」

・この手紙を張翔に託す。許靖以外の人々も、都への手紙を張翔に委託。張翔は許靖に恨みを持っており、許靖の手紙だけ廃棄する。(内容が後世に伝わっているのは、下書きが残っていたからだろう。あるいは、許靖自身が誰かに話したのかも知れない。)




益州時代
・劉璋(益州牧)から招聘され、巴郡の太守となる。やがて、広漢太守に転じる。
・王商という人物を推挙し、蜀郡太守とする。王商は学問を修め、農業を広め、民から喜ばれる。また、この頃宋忠(高名な儒学者)が王商に書簡を送る。「文休(許靖)はしっかりした意志を持ち、世に役立つ才能を備えています。彼を指南役にするのがよいでしょう。」
・王商の死後、許靖自身が蜀郡太守に就任。

・劉備が益州を攻略。やがて首都成都を囲む。許靖は秘かに城壁を乗り越え、降伏を試みたが、失敗する。劉璋はほどなく劉備に降伏し、公安郡(荊州)の太守とされる。


・劉備が益州で新人事を行う。劉備は当初、許靖が一人降伏しようとしたこと(忠義を尽くさなかったこと)を思い、重用したくないと考える。しかし、許靖の名声を考慮し、結局厚遇することにする。かくて許靖は、左将軍府の長史に任じられる。(当時の左将軍は劉備。長史は次官。)
・麋竺(びじく)、簡雍共々、賓客的扱いを受けたという。

・劉備が漢中王になる。許靖は、漢中国の太傅(たいふ)に任じられる。(太傅は王を側で補佐。名誉職。)
・劉備が蜀王朝を開く。許靖は、劉備から「人民の教化に努めよ」と詔勅され、司徒に任じられる。(司徒は、内政全般に関わる大臣。)




逸話
・かつて、陳紀(有名な儒家)に兄事。更に、袁渙(えんかん)、華歆(かきん)、王朗らと親交あり。

・華歆、王朗、陳紀の子陳羣(ちんぐん)は皆、魏から許靖に手紙を送り、旧交を温める。
・王朗が許靖に送った手紙の一つには、「曹操の出陣に従って襄陽城で宿泊したとき、仲間みんなで一晩中許靖の話をした」こと、「文帝(曹丕)が天下の人材について意見を集めたとき、自分(王朗)は、最も謀(はかりごと)に長けた人物として許靖を挙げた」こと、また、今子供が何人いるといった話が記される。
・王郎が送った別の手紙には、「許靖が魏に来たら、今の自分の位を譲りたい」こと、そして、「老いを忘れるほど語り合いたい」ことなどが記される。
・また、王朗の手紙の中には、曹丕の指令で書かれたものもあり。内容は魏の素晴らしさや、蜀に従順になって欲しい旨。また、「蜀が抵抗を続けるなら、今後ますます会いにくくなる」と記される。


・70歳を過ぎても、人物を愛し、後進を導き、清談に没頭する。諸葛亮以下、皆から敬意を受ける。
陳寿は許靖を評して言う。「早くから名声があり、篤実さで評判を受けていた上、優れた人物を見出すことに心を向けた。行状や行動は、全てが妥当だったとは言えないが、蒋済(魏の重臣)は『全体として見れば、国政を担う人材である』と称賛している。」




劉巴 華歆 王朗


トップページ三国志総合事典(正史)人物事典-蜀