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リュウハ シショ
蜀の官僚。曹操、劉璋に仕えてのち、劉備に帰服する。適切な経済政策を施し、物資不足を解消させる。日々策謀、政務で活躍し、劉備から厚遇を受けたが、質素な生活を貫く。
・学才をもって広く知られ、茂才に推挙される。(茂才とは、官僚の候補枠。)
・劉表(荊州の長官)に招聘されたが、応じない。代わりに、郡の役所で主簿を務める。(つまり、劉表の直属の部下になるのを避けた。慎重に行動を選択。)
・あるとき、劉先(劉表の重臣)が、子息を劉巴に師事させようとする。劉巴は断って言う。「私には、楊朱(戦国時代の個人主義者)のような消極的処世術もなければ、墨家(戦国時代の博愛主義者・活動集団)のような気概もありません。私などに師事させてどうするのですか。」(古代中国らしい、勿体ぶった言い回し。実際は、政治性のある人物(劉先)と繋がりができるのを避けた。)
・劉表死後、曹操の軍が荊州に来る。荊州の多くの住民は、劉備(当時荊州に滞在)を頼り、行動を共にする。しかし劉巴は、曹操の元に赴く。任用を受け、(丞相府の)掾(えん)となる。(掾とは府の属官で、一つの部局をまとめる。)
・戻る前に、諸葛亮に書簡を送る。「私は苦難に遭いましたが、信義を重んじる民や、自ら味方になってくれる者は、私の前に現れませんでした。これは天の心、事の道理に関することでして、個人の策謀ではどうにもなりません。」(儒家らしい考え方。)諸葛亮は返書し、「何故、劉備様に仕えないのですか?」と尋ねる。劉巴は、こう返書。「それは全く、道理に合いません。私は曹操様の指令を受け、荊州に来たのです。」
・北への道は、既に関門だらけ。戻ることはできず、交州(南方の僻地)に赴く。(その際、身元を隠すため、姓を張と変更。)劉備は、劉巴が来なかったことを残念がる。
・交州には、交阯(こうし)という郡があり、太守の士燮(ししょう)が州を実質治める。劉巴はひとまず、身を落ち着けたが、士燮と考えが合わない。やがて、出奔を決める。(士燮は、優れた統治者だったが、栄華も志向。その辺が、不協和の原因かも知れない。)
・益州の郡で止められ、劉璋(益州牧)と面会する。劉璋の父・劉焉は、劉巴の父・劉祥と交流あり。かくて、腹心とされる(官職は不明)。
・劉璋は、劉備を北に向かわせ、防備を任せる。劉巴は、「虎を山に放つようなものです」と諌めたが、これも聞き入れられず。劉巴はその後、病気と称して出仕せず。
・劉備は反逆し、益州を攻略する。劉璋は降伏し、荊州に移住させられる。劉巴は、劉備から礼遇を受ける。
・劉備が成都を制した際、将兵は争って財物を奪略。この結果、公の物資が不足を来す。そこで、劉巴は経済策を述べる。「まず、百銭の貨幣のみを鋳造することとし、諸物価を安定させましょう。また、役人に命じ、官が管理する市を立てさせます。」(要するに、国営政策、計画経済を小規模な範囲で実行。)数か月後、大いに成果が得られる。
・諸葛亮の元で、蜀科(刑法)の制定に関わる。(蜀科の制定者として名が記されるのは、諸葛亮、法正、李厳、劉巴、伊籍の5人。)
・劉備(当時左将軍)の府で、西曹掾(えん)となる。(西曹は、府内の人事を司る部局。)
・劉備が漢中王になる。法正が尚書令(秘書機関の長)となり、劉巴はその元で尚書(実務官)を務める。法正の死後、代わって尚書令に任じられる。
・劉備に仕えるまでの経緯を考え、異心を疑われることを案じる。そこで、人々との私的な交際をなるべく避ける。また、公の場以外では、政治的な発言を控える。
・諸葛亮はあるとき、劉巴の策謀能力を称賛。「帷幕(いばく)の中で策を練ることにおいて、私は子初(劉巴)に遠く及ばない。軍の指揮に関しては、私もそれなりに自負があるのだが。」(具体的にどんな策を立てたのか、記録にあまり残っていないが、恐らく国家の機密に関わる部分で活躍。また、諸葛亮のこの言は、勿論謙遜も入っているだろう。)
・あるとき、張飛が劉巴の家に泊まる。劉巴は何も話そうとせず、張飛は怒る。後に、劉巴は諸葛亮にこう言う。「志ある者は当然、天下の人士たちと交わるべきです。武辺者と話すようなことはありません。」
・一方、呉の張昭はこの話を聞き、狭量さを非難する。孫権は言う。「劉巴はそれでこそ、高尚さを保つことができるのだ。」(なお、劉巴が呉臣だったら、孫権は疎んじていたかも知れない。劉巴は、虞翻と似た部分がある。)
・劉備が蜀王朝を開く。劉巴は、祭祀、任命書の文を起草する。
・劉巴が死去してのち、魏の陳羣(ちんぐん)が蜀に書簡を送り、劉巴の様子を尋ねる。その際、劉巴を「劉君子初」と呼び、大きな敬意を払っていたという。
・陳寿は劉巴を評して言う。「清潔、高尚な生き方をした。」
李厳 黄権 許靖 楊儀
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リュウハ シショ
劉巴 子初
~才知と高潔の士~
蜀の官僚。曹操、劉璋に仕えてのち、劉備に帰服する。適切な経済政策を施し、物資不足を解消させる。日々策謀、政務で活躍し、劉備から厚遇を受けたが、質素な生活を貫く。
荊州時代
・荊州の零陵郡出身。劉祥(江夏太守)の子。
・学才をもって広く知られ、茂才に推挙される。(茂才とは、官僚の候補枠。)
・劉表(荊州の長官)に招聘されたが、応じない。代わりに、郡の役所で主簿を務める。(つまり、劉表の直属の部下になるのを避けた。慎重に行動を選択。)
・あるとき、劉先(劉表の重臣)が、子息を劉巴に師事させようとする。劉巴は断って言う。「私には、楊朱(戦国時代の個人主義者)のような消極的処世術もなければ、墨家(戦国時代の博愛主義者・活動集団)のような気概もありません。私などに師事させてどうするのですか。」(古代中国らしい、勿体ぶった言い回し。実際は、政治性のある人物(劉先)と繋がりができるのを避けた。)
・劉表死後、曹操の軍が荊州に来る。荊州の多くの住民は、劉備(当時荊州に滞在)を頼り、行動を共にする。しかし劉巴は、曹操の元に赴く。任用を受け、(丞相府の)掾(えん)となる。(掾とは府の属官で、一つの部局をまとめる。)
交州へ
・荊州の慰撫を命じられる。劉巴は、「既に劉備の手の内にあるので、無理でしょう」と述べたが、聞き入れられず。結果は、やはり不首尾。
・戻る前に、諸葛亮に書簡を送る。「私は苦難に遭いましたが、信義を重んじる民や、自ら味方になってくれる者は、私の前に現れませんでした。これは天の心、事の道理に関することでして、個人の策謀ではどうにもなりません。」(儒家らしい考え方。)諸葛亮は返書し、「何故、劉備様に仕えないのですか?」と尋ねる。劉巴は、こう返書。「それは全く、道理に合いません。私は曹操様の指令を受け、荊州に来たのです。」
・北への道は、既に関門だらけ。戻ることはできず、交州(南方の僻地)に赴く。(その際、身元を隠すため、姓を張と変更。)劉備は、劉巴が来なかったことを残念がる。
・交州には、交阯(こうし)という郡があり、太守の士燮(ししょう)が州を実質治める。劉巴はひとまず、身を落ち着けたが、士燮と考えが合わない。やがて、出奔を決める。(士燮は、優れた統治者だったが、栄華も志向。その辺が、不協和の原因かも知れない。)
・益州の郡で止められ、劉璋(益州牧)と面会する。劉璋の父・劉焉は、劉巴の父・劉祥と交流あり。かくて、腹心とされる(官職は不明)。
劉備を補佐
・劉璋が劉備を客将とする。劉巴は、「劉備は必ず反逆します」と諌めたが、聞き入れられず。
・劉璋は、劉備を北に向かわせ、防備を任せる。劉巴は、「虎を山に放つようなものです」と諌めたが、これも聞き入れられず。劉巴はその後、病気と称して出仕せず。
・劉備は反逆し、益州を攻略する。劉璋は降伏し、荊州に移住させられる。劉巴は、劉備から礼遇を受ける。
・劉備が成都を制した際、将兵は争って財物を奪略。この結果、公の物資が不足を来す。そこで、劉巴は経済策を述べる。「まず、百銭の貨幣のみを鋳造することとし、諸物価を安定させましょう。また、役人に命じ、官が管理する市を立てさせます。」(要するに、国営政策、計画経済を小規模な範囲で実行。)数か月後、大いに成果が得られる。
・諸葛亮の元で、蜀科(刑法)の制定に関わる。(蜀科の制定者として名が記されるのは、諸葛亮、法正、李厳、劉巴、伊籍の5人。)
・劉備(当時左将軍)の府で、西曹掾(えん)となる。(西曹は、府内の人事を司る部局。)
・劉備が漢中王になる。法正が尚書令(秘書機関の長)となり、劉巴はその元で尚書(実務官)を務める。法正の死後、代わって尚書令に任じられる。
逸話など
・清貧の生活を貫く。少量の田畑を所有し、それだけで十分とし、利殖は一切行わない。(古代中国らしい精神主義。)
・劉備に仕えるまでの経緯を考え、異心を疑われることを案じる。そこで、人々との私的な交際をなるべく避ける。また、公の場以外では、政治的な発言を控える。
・諸葛亮はあるとき、劉巴の策謀能力を称賛。「帷幕(いばく)の中で策を練ることにおいて、私は子初(劉巴)に遠く及ばない。軍の指揮に関しては、私もそれなりに自負があるのだが。」(具体的にどんな策を立てたのか、記録にあまり残っていないが、恐らく国家の機密に関わる部分で活躍。また、諸葛亮のこの言は、勿論謙遜も入っているだろう。)
・あるとき、張飛が劉巴の家に泊まる。劉巴は何も話そうとせず、張飛は怒る。後に、劉巴は諸葛亮にこう言う。「志ある者は当然、天下の人士たちと交わるべきです。武辺者と話すようなことはありません。」
・一方、呉の張昭はこの話を聞き、狭量さを非難する。孫権は言う。「劉巴はそれでこそ、高尚さを保つことができるのだ。」(なお、劉巴が呉臣だったら、孫権は疎んじていたかも知れない。劉巴は、虞翻と似た部分がある。)
・劉備が蜀王朝を開く。劉巴は、祭祀、任命書の文を起草する。
・劉巴が死去してのち、魏の陳羣(ちんぐん)が蜀に書簡を送り、劉巴の様子を尋ねる。その際、劉巴を「劉君子初」と呼び、大きな敬意を払っていたという。
・陳寿は劉巴を評して言う。「清潔、高尚な生き方をした。」