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トウガイ シサイ
魏の官僚、軍人。農事と用兵に長け、多様な活躍をする。姜維の侵攻を度々防ぎ、やがて成都を奇襲し、蜀帝劉禅を降伏させる。しかし、鍾会から反逆の罪を着せられ、魏軍に殺害される。
・幼少の頃に父を亡くす。やがて曹操が荊州に進出。鄧艾は家族共々、豫州(よしゅう)汝南郡に移る。(屯田のための強制移住、とされる。)子牛を育てながら、年少期を過ごす。
・あるとき、一つの石碑に出くわす。それは、古代の名士を称えたもので、以下の碑文が刻まれる。「文は世の範となり、行(行い)は士の則となった。」鄧艾はこれを気に入り、名を「範」、字(あざな)を「士則」とする。(元の名は不明。)
・後に、同名の親類との重複を避け、「艾」と改名する。字(あざな)の方も、「士載」に変える。
・郡に出仕する。農政の官を歴任。吃音のため、当初は不遇だったという。
・しばしば、山や沼地を訪れ、陣営の置き方を考える。そのために測量し、地図を描く。周りの人々は、それを笑う。(いわゆる、理解されない天才。)
・上計吏(会計係)となる。あるとき、使者として都に行き、司馬懿に会う。大いに評価され、掾(えん)に任じられる。(司馬懿は当時太尉。掾とは府の属官。)
・司馬懿は、以上の意見を採用。蓄えは豊かになり、水運は得られ、水害も減る。
・郭淮と共に、蜀の姜維の北伐と対する。白水の北岸に駐屯。(雍州武都郡。)姜維が陽動作戦を取ると、鄧艾はこれを見抜き、東にある城塞に急行する。ここを守り通し、敵は侵攻を諦める。
・城陽郡(徐州)の太守に任じられる。
・あるとき、司馬師に(書簡で)意見具申。国策に関して考えを述べる。「蛮族たち(主に遊牧民族を指す)は、野獣のような心を持っています。己に勢いがあれば逆らおうとし、衰えれば従順になります。現在の単于(匈奴の指導者)は魏の国内におりますが、その権威が弱まった結果、国外の匈奴は増長しています。(いずれ、魏に逆らうかも知れません。)彼等は現在、互いに争っていますので、これに付け込んで、領土を分断すべきです。」
・更に、こう提案。「国内の羌族を一箇所に集め、教化するのがよいでしょう。」(羌族は匈奴に比べ、やや穏健。)
・司馬師は、これらの意見を採用する。結果は特に記されないが、有効な策だったと思われる。(以後の時代、匈奴・羌族は基本的に恭順。)
・汝南は、鄧艾が育った地。当時、ある者から多大な援助を受けたが、鄧艾はあえて礼をせず。(複雑な思いがあったのだろう。)鄧艾は太守として着任すると、礼をすることを考え、その者を捜索させる。しかし、既に死去していたため、遺族を厚遇する。
・司馬師に(書簡で)意見具申。呉の情勢に関し、見解を述べる。「呉の名家・豪族は私兵を抱え、それぞれ独立できる力を持っています。諸葛恪(呉の大臣)は権力を掌握して間もないのに、主君を補佐する姿勢を見せず、国の人々(名家・豪族を中核とする)を慰撫することもせず、己の立場を固めません。対外政策に躍起になり、出征して失敗しました。滅亡は時間の問題です。」その言葉通り、諸葛恪はほどなく謀殺される。
・兗(えん)州刺史に任じられる。
・あるとき、上奏して述べる。「国の基本は、農事と軍事です。取り分け、農事は重要です。穀物の蓄積を増やし、民を豊かにした者にこそ、恩賞を与えるべきであります。恩賞が人間関係に左右される風潮は、改めるべきかと思います。」(鄧艾の発言は、基本的に正論が多い。実直、生真面目な性格が窺える。)
・呉の孫峻が十万の軍を率い、長江を渡ろうとする。鄧艾は独断で拠点を変え、孫峻迎撃の態勢を整える。孫峻は、諦めて撤退する。(孫峻は粗暴な野心家。軍略では、鄧艾の敵ではない。)
・姜維が北伐し、王経(魏の将)を破る。続いて狄道(てきどう)城に進軍したが、陳泰(魏の将)が来ると撤退。鄧艾は、「姜維は再び来て、祁(き)山を狙う」と予測し、防備を固める。案の定、姜維は祁山に進軍し、鄧艾の備えを見て撤退。(鄧艾は、敵の動きを読み、事前に防備を固めるというパターンが多い。)
・姜維は、胡済(味方の将)と合流する手筈を決める。しかし、胡済が期日に現れない。(理由は不明。)鄧艾はこれに乗じ、姜維に攻撃をかけ、段谷において大敗させる。
・蜀軍と対峙する一方、駐屯地で屯田を行う。凶作、日照りの年には、様々な植物を植えさせる。その際、自ら鍬(くわ)を振るって模範を示し、人々は全力で労務に励む。
・寿春で諸葛誕が反乱する。姜維はこれと同期し、長城に進軍する。鄧艾は、長城に赴き、姜維と対する。ひたすら防備に徹し、敵の挑発にも乗らず。(司馬懿同様、持久策をもって北伐と対した。)半年後、諸葛誕は敗死し、姜維は撤退。
・姜維が侯和県(雍州隴西郡)に進軍。鄧艾は迎撃して破り、姜維は沓中(とうちゅう)という地に撤退する。(沓中は陰平郡(益州北部)の一帯。)
・鍾会が、剣閣で姜維と対峙する。鄧艾はその間に、剣閣の西に出て、陰平郡の山地に入る。険阻な山の中を進み、穴を掘って道を開通させ、谷に橋を架ける。自ら毛布に身を包み、谷を転がって降り、木に掴まって崖を登る。(稀代の大作戦。曹操でも真似できないと思われる。)
・やがて、江由という地に出る。蜀将馬邈(ばばく)は降伏。
・諸葛亮の子諸葛瞻(しょかつせん)が綿竹県を守る。鄧艾は最初敗れたが、再戦して諸葛瞻を討ち取る。その後、成都の劉禅(蜀の皇帝)は降伏。
・成都にあって、戦後処理を行う。略奪を禁じ、蜀の官民から信用を得る。また、蜀の官吏たちに、魏の官位を(仮に)授ける。
・司馬昭が衛瓘(えいかん)を送り、鄧艾を監視させる。また、鍾会が盛んに、鄧艾の罪を言上する。鄧艾は剛情で性急、協調性がなかったため、弁護する者が少なかったという。(孤高の奇才。)鄧艾は護送車に乗せられ、本国に召還されることになる。鄧艾は嘆いて言う。「私は常に忠臣であった。それが結局、こういう事態になるのか。」
・鄧艾の親衛隊が護送車を追い、鄧艾を救出する。衛瓘はこれを襲撃し、鄧艾を殺害する。
・晋の司馬炎の時代、鄧艾を弁護する者が現れ、鄧艾の疑いは晴れる。
・陳寿は鄧艾を評して言う。「意志の力をもって功業をなした。しかし、災禍への配慮が足らなかった。諸葛恪の失敗を教訓にしなかったのだろうか。」
司馬懿 鍾会 姜維
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トウガイ シサイ
鄧艾 士載
~時代屈指の奇才~
魏の官僚、軍人。農事と用兵に長け、多様な活躍をする。姜維の侵攻を度々防ぎ、やがて成都を奇襲し、蜀帝劉禅を降伏させる。しかし、鍾会から反逆の罪を着せられ、魏軍に殺害される。
初期
・荊州の義陽郡出身。(義陽郡は、元は南陽郡の南部。)・幼少の頃に父を亡くす。やがて曹操が荊州に進出。鄧艾は家族共々、豫州(よしゅう)汝南郡に移る。(屯田のための強制移住、とされる。)子牛を育てながら、年少期を過ごす。
・あるとき、一つの石碑に出くわす。それは、古代の名士を称えたもので、以下の碑文が刻まれる。「文は世の範となり、行(行い)は士の則となった。」鄧艾はこれを気に入り、名を「範」、字(あざな)を「士則」とする。(元の名は不明。)
・後に、同名の親類との重複を避け、「艾」と改名する。字(あざな)の方も、「士載」に変える。
・郡に出仕する。農政の官を歴任。吃音のため、当初は不遇だったという。
・しばしば、山や沼地を訪れ、陣営の置き方を考える。そのために測量し、地図を描く。周りの人々は、それを笑う。(いわゆる、理解されない天才。)
・上計吏(会計係)となる。あるとき、使者として都に行き、司馬懿に会う。大いに評価され、掾(えん)に任じられる。(司馬懿は当時太尉。掾とは府の属官。)
国土計画
・あるとき、運河、灌漑の計画を立てる。「斉河論」を著述し、司馬懿に献上。同時に、こう述べる。「現在、許昌の周りは平穏ですので、兵糧はさほど必要ありません。そこで、許昌一帯の屯田を廃止し、その用水を淮水の南北に回し、国境地帯の備蓄を万全にします。また、屯田兵を五万人配置し、十分の二ずつ交代で休ませ、常時四万人を配備します。」(許昌は県名で、元は許県と呼ばれており、後漢の国都が設置。曹操がこの地から屯田を始めたが、鄧艾は当時との情勢の違いを考え、大胆な改革案を出した。)・司馬懿は、以上の意見を採用。蓄えは豊かになり、水運は得られ、水害も減る。
対姜維・対異民族
・南安郡(雍州)の太守に任じられる。・郭淮と共に、蜀の姜維の北伐と対する。白水の北岸に駐屯。(雍州武都郡。)姜維が陽動作戦を取ると、鄧艾はこれを見抜き、東にある城塞に急行する。ここを守り通し、敵は侵攻を諦める。
・城陽郡(徐州)の太守に任じられる。
・あるとき、司馬師に(書簡で)意見具申。国策に関して考えを述べる。「蛮族たち(主に遊牧民族を指す)は、野獣のような心を持っています。己に勢いがあれば逆らおうとし、衰えれば従順になります。現在の単于(匈奴の指導者)は魏の国内におりますが、その権威が弱まった結果、国外の匈奴は増長しています。(いずれ、魏に逆らうかも知れません。)彼等は現在、互いに争っていますので、これに付け込んで、領土を分断すべきです。」
・更に、こう提案。「国内の羌族を一箇所に集め、教化するのがよいでしょう。」(羌族は匈奴に比べ、やや穏健。)
・司馬師は、これらの意見を採用する。結果は特に記されないが、有効な策だったと思われる。(以後の時代、匈奴・羌族は基本的に恭順。)
汝南統治・兗州統治
・汝南太守に任じられる。赴任後、あちこちの荒地を整備し、軍も民も豊かになる。(魏には名地方官が多いが、鄧艾もその一人と言える。)・汝南は、鄧艾が育った地。当時、ある者から多大な援助を受けたが、鄧艾はあえて礼をせず。(複雑な思いがあったのだろう。)鄧艾は太守として着任すると、礼をすることを考え、その者を捜索させる。しかし、既に死去していたため、遺族を厚遇する。
・司馬師に(書簡で)意見具申。呉の情勢に関し、見解を述べる。「呉の名家・豪族は私兵を抱え、それぞれ独立できる力を持っています。諸葛恪(呉の大臣)は権力を掌握して間もないのに、主君を補佐する姿勢を見せず、国の人々(名家・豪族を中核とする)を慰撫することもせず、己の立場を固めません。対外政策に躍起になり、出征して失敗しました。滅亡は時間の問題です。」その言葉通り、諸葛恪はほどなく謀殺される。
・兗(えん)州刺史に任じられる。
・あるとき、上奏して述べる。「国の基本は、農事と軍事です。取り分け、農事は重要です。穀物の蓄積を増やし、民を豊かにした者にこそ、恩賞を与えるべきであります。恩賞が人間関係に左右される風潮は、改めるべきかと思います。」(鄧艾の発言は、基本的に正論が多い。実直、生真面目な性格が窺える。)
対毌丘倹・対孫峻
・寿春(揚州)で、毌丘倹(かんきゅうけん)が反乱。(文欽という武将が、これに従う。)鄧艾は楽嘉城(軍事要塞)に入り、川に橋を架け、前準備を整える。やがて司馬師が到着し、毌丘倹らを撃破する。鄧艾は文欽に攻撃をかけ、呉に敗走させる。(文欽は勇将だったが、鄧艾は準備万端。)・呉の孫峻が十万の軍を率い、長江を渡ろうとする。鄧艾は独断で拠点を変え、孫峻迎撃の態勢を整える。孫峻は、諦めて撤退する。(孫峻は粗暴な野心家。軍略では、鄧艾の敵ではない。)
対姜維
・行(こう)安西将軍となり、西方に駐屯する。(行は「代行、臨時」の意。後に、正式に安西将軍に就任。)・姜維が北伐し、王経(魏の将)を破る。続いて狄道(てきどう)城に進軍したが、陳泰(魏の将)が来ると撤退。鄧艾は、「姜維は再び来て、祁(き)山を狙う」と予測し、防備を固める。案の定、姜維は祁山に進軍し、鄧艾の備えを見て撤退。(鄧艾は、敵の動きを読み、事前に防備を固めるというパターンが多い。)
・姜維は、胡済(味方の将)と合流する手筈を決める。しかし、胡済が期日に現れない。(理由は不明。)鄧艾はこれに乗じ、姜維に攻撃をかけ、段谷において大敗させる。
・蜀軍と対峙する一方、駐屯地で屯田を行う。凶作、日照りの年には、様々な植物を植えさせる。その際、自ら鍬(くわ)を振るって模範を示し、人々は全力で労務に励む。
・寿春で諸葛誕が反乱する。姜維はこれと同期し、長城に進軍する。鄧艾は、長城に赴き、姜維と対する。ひたすら防備に徹し、敵の挑発にも乗らず。(司馬懿同様、持久策をもって北伐と対した。)半年後、諸葛誕は敗死し、姜維は撤退。
・姜維が侯和県(雍州隴西郡)に進軍。鄧艾は迎撃して破り、姜維は沓中(とうちゅう)という地に撤退する。(沓中は陰平郡(益州北部)の一帯。)
蜀攻略
・司馬昭が蜀の攻略に乗り出し、鍾会、鄧艾らを侵攻させる。姜維が、国境の沓中を守っていたが、援軍が来ず兵力不足。鄧艾はこれに乗じ、姜維を敗走させる。・鍾会が、剣閣で姜維と対峙する。鄧艾はその間に、剣閣の西に出て、陰平郡の山地に入る。険阻な山の中を進み、穴を掘って道を開通させ、谷に橋を架ける。自ら毛布に身を包み、谷を転がって降り、木に掴まって崖を登る。(稀代の大作戦。曹操でも真似できないと思われる。)
・やがて、江由という地に出る。蜀将馬邈(ばばく)は降伏。
・諸葛亮の子諸葛瞻(しょかつせん)が綿竹県を守る。鄧艾は最初敗れたが、再戦して諸葛瞻を討ち取る。その後、成都の劉禅(蜀の皇帝)は降伏。
・成都にあって、戦後処理を行う。略奪を禁じ、蜀の官民から信用を得る。また、蜀の官吏たちに、魏の官位を(仮に)授ける。
・司馬昭が衛瓘(えいかん)を送り、鄧艾を監視させる。また、鍾会が盛んに、鄧艾の罪を言上する。鄧艾は剛情で性急、協調性がなかったため、弁護する者が少なかったという。(孤高の奇才。)鄧艾は護送車に乗せられ、本国に召還されることになる。鄧艾は嘆いて言う。「私は常に忠臣であった。それが結局、こういう事態になるのか。」
・鄧艾の親衛隊が護送車を追い、鄧艾を救出する。衛瓘はこれを襲撃し、鄧艾を殺害する。
・晋の司馬炎の時代、鄧艾を弁護する者が現れ、鄧艾の疑いは晴れる。
・陳寿は鄧艾を評して言う。「意志の力をもって功業をなした。しかし、災禍への配慮が足らなかった。諸葛恪の失敗を教訓にしなかったのだろうか。」