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ショカツリョウ コウメイ
蜀の参謀、政治家、軍人。荊州時代、劉備の訪問を受け、その配下に入る。劉備が益州を制すると、広く政治を任され、法治、徳治に努める。劉禅の時代、呉との関係を整え、魏に対し度々北伐を行う。
・幼い頃に父は死に、均共々、おじ諸葛玄に引き取られる。
・あるとき、袁術(南方の群雄)が、諸葛玄を豫(よ)章太守に任じる。(豫章郡は揚州。江南(長江の南)に位置する。)恐らく、朝廷の正式な任命ではないが、諸葛玄は赴任する。(当時の徐州は不穏。恐らく、避難も兼ねていた。)諸葛亮も、均共々、これに随行。
・やがて、朝廷が朱晧(しゅこう)を太守に任命する。朱晧は、諸葛玄の討伐に向かう。諸葛玄は亮達を連れ、荊州の劉表を頼る。
・成長すると、身の丈は八尺(約185cm)に達する。農耕生活を送りつつ、学問に努める。経書(公式の儒学書)を読む際、些事にはこだわらず、常に本質を掴もうとしたという。(当時は、詳細に読み込むことが推奨されたが、諸葛亮は自分の主体性を重視。)
・梁父吟(りょうほぎん)を好んで吟じる。隠者の詩。内容は、「山野を臨みながら、古代の策士・烈士に思いを馳せる」というもの。(基本的に、人間の複雑さをテーマとしている。)
・常々、己を管仲や楽毅に例える。(管仲は春秋時代の人で、斉国の名宰相。楽毅は戦国時代の人で、燕国の名将。)学友の崔州平、徐庶は、諸葛亮に期待をかける。
・劉備は諸葛亮を二度訪ねたが、二度とも留守。三度目の訪問で、ようやく会える。(いわゆる「三顧の礼」。当時の劉備は行き詰まり気味で、新しいタイプの人材を求めていた。)
・劉備に展望を語る。荊州と益州の地の利を述べ、それぞれの領主(劉表と劉璋)の器不足を述べ、彼等に取って代わることを提言。そして、こう言う。「西と南の蛮族を手なずけ、外は孫権と結び、内は政治を充実させ、機を見て荊州・益州で同時に軍を動かせば、(曹操を退け、)漢王朝を復興させることができます。」
・以上は、一般に「天下三分の計」と呼ばれる。(三分するのは、あくまで手段。目的は漢王朝の復興・大陸の統一。)隆中(りゅうちゅう)という村で語られたため、「隆中策」とも呼ばれる。
・劉備は、兵が少ないことを案じる。諸葛亮は進言する。「荊州は人口は多いのですが、戸籍に載っている者は少数です。兵の徴用を行えば、一家当たりの負担が多くなり、反感を買うでしょう。そこで劉表殿に進言し、国中の戸籍の整備を勧めます。我々はそのあと、この地で徴用すればよいのです。」この策は成功する。
・劉備が、荊州の四郡(武陵、零陵、桂陽、長沙)を手中にする。諸葛亮は軍師中郎将に任じられ、三つの郡を統括。(武陵を除く三郡。)軍費を不足なく賄ったという。(財務官僚として、優れた計画力を発揮。あまり知られていない活躍。)
・「蜀科」(刑法)を制定する。具体的な内容は不詳だが、公正で厳格だったとされる。(なお、蜀科の制定者として名が記されるのは、諸葛亮、法正、李厳、劉巴、伊籍の5人。)
・劉備が出征する際、常に留守を守り、軍糧を万全にしておく。
・劉禅(劉備の子)の教育係を務める。
・劉備が蜀王朝を開くと、諸葛亮は、丞相に任じられる。
・丞相府において、役人たちに心構えを訓示。まず、こう述べる。「そもそも公務に携わる者は、多くの人に意見を求め、幅広く思考を巡らせ、常に国益を考えて忠勤すべし。」(実直さがよく分かる発言。)
・次に、こう述べる。「もし、小さな不満で人を遠ざけ、意見の相違を克服しないなら、重大な損失をもたらすだろう。相違を乗り越え、新しい案を生み出せたら、それは破れた草履を打ち捨て、珠玉を手に入れるようなものだ。」(不毛な言い争いより、互いに視野を広げる姿勢が大事、と説いた。)
・最後に、手本となる人物として、徐庶、董和を挙げている。
・劉備死後、益州牧となり、丞相と兼任する。(丞相として国事を決定し、州牧として諸郡を統括。)細事に至るまで、政治を監督する。
・塩、鉄の専売を推進する。(劉備の時代に開始。)
・兵法を探究し、「八陣の図」を考案する。また、連射できる弩(ど)、運搬用の木牛、流馬を自ら創作。(諸葛亮は、儒学や政務だけでなく、理系分野にも長けていた。)
・南方で諸郡が反乱する。首謀者は、建寧郡の豪族雍闓(ようがい)、越巂(えつすい)郡の部族長高定、牂牁(しょうか)郡の丞の朱褒。(その後、朱褒は太守を名乗る。)彼等はやがて内紛を起こし、雍闓を殺害し、代わりに孟獲を主君とする。(この孟獲は、漢人・異民族の混血とされる。)諸葛亮は、軍を率いて南征する。全て平定し、孟穫を懐柔。
・平定した地域では、異民族の自治を重んじる。それをもって経費を削減し、同時に漢人への不信感を解く。一方で、産出物を取り立て、財政を充実させる。
・馬謖が命令違反し、山上に布陣する。しかし、結局敗れ、潰走する。諸葛亮は軍法に照らし、馬謖を誅殺する。一方、三郡は再び魏に帰順。
・第二次北伐。陳倉城に進軍する。曹真が事前に郝昭(かくしょう)を遣わし、城の防備を固めさせる。諸葛亮は兵糧が尽き撤退。その途中、敵将王双の追撃を受けたが、迎撃して討ち取る。(戦術レベルでの勝利。)
・第三次北伐。配下の陳式を遣わし、武都郡、陰平郡を攻撃する。魏将郭淮が救援に赴くと、諸葛亮は上手く牽制し、これを撤退させる。かくて、二郡の制圧は完了する。(この北伐は成功。)
・曹真が司馬懿らを従え、蜀領に侵攻する。諸葛亮は、成固に駐屯。(漢中郡に属する県。首都南鄭県の北東。)蜀軍は、夏侯覇(敵の先鋒)を破る。しばらくして、長雨が発生し、魏軍は撤退。(この戦役は、魏が仕掛けたものなので、北伐には含まれない。)
・続いて、司馬懿と対峙する。司馬懿は持久戦を望んだが、部下達が反対したため、あえて出撃する。諸葛亮は魏延、高翔、呉班らを率い、迎撃して破る。(あくまで、戦術レベルでの勝利。)
・一方、木牛で輸送を行っていたが、長雨のため頓挫する。諸葛亮は撤退し、張郃がこれを追撃。諸葛亮の伏兵が張郃を射殺する。(王双のときと、同様の結果。諸葛亮は、撤退戦に長けていたらしい。)
・最後の北伐(第五次)。渭水(いすい)の南岸に進軍し、五丈原に駐屯する。屯田しながら、司馬懿と対峙。時々攻撃を仕掛けるも、敵は防備に徹する。
・自ら、諸々の事務を取り仕切る。また、軍に規律を守らせ、現地の民から信頼を得る。
・やがて病死し、蜀軍は撤退する。司馬懿は、諸葛亮の陣の跡を見て、「天下の奇才」と評したという。
・陳寿は諸葛亮を評して言う。「民を慰撫して道を示し、無駄な官職を減らし、公正な政治を行った。忠義を尽くし、私情を棄てて賞罰を徹底し、悪人でも改心すれば許した。諸事に通じ、根源から物事を捉え、偽りは許さなかった。厳格でありながら、人々から敬愛されていたのは、公正で賞罰が明確だったからである。古代の名宰相管仲や蕭何(しょうか)に匹敵する。」(陳寿は基本的に、諸葛亮を絶賛。)
・陳寿はこうも評する。「度々軍を動かしながら、成功はしなかった。応変の将略は、得手ではなかったのだろうか。」
劉備 劉禅 龐統 馬謖 司馬懿
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ショカツリョウ コウメイ
諸葛亮 孔明
~時代を代表する名宰相~
蜀の参謀、政治家、軍人。荊州時代、劉備の訪問を受け、その配下に入る。劉備が益州を制すると、広く政治を任され、法治、徳治に努める。劉禅の時代、呉との関係を整え、魏に対し度々北伐を行う。
雌伏時代
・徐州の琅邪(ろうや)郡出身。郡丞の諸葛珪の子。(郡丞とは郡の次官。太守の補佐官の筆頭。)兄に諸葛瑾、弟に諸葛均がいる。・幼い頃に父は死に、均共々、おじ諸葛玄に引き取られる。
・あるとき、袁術(南方の群雄)が、諸葛玄を豫(よ)章太守に任じる。(豫章郡は揚州。江南(長江の南)に位置する。)恐らく、朝廷の正式な任命ではないが、諸葛玄は赴任する。(当時の徐州は不穏。恐らく、避難も兼ねていた。)諸葛亮も、均共々、これに随行。
・やがて、朝廷が朱晧(しゅこう)を太守に任命する。朱晧は、諸葛玄の討伐に向かう。諸葛玄は亮達を連れ、荊州の劉表を頼る。
・成長すると、身の丈は八尺(約185cm)に達する。農耕生活を送りつつ、学問に努める。経書(公式の儒学書)を読む際、些事にはこだわらず、常に本質を掴もうとしたという。(当時は、詳細に読み込むことが推奨されたが、諸葛亮は自分の主体性を重視。)
・梁父吟(りょうほぎん)を好んで吟じる。隠者の詩。内容は、「山野を臨みながら、古代の策士・烈士に思いを馳せる」というもの。(基本的に、人間の複雑さをテーマとしている。)
・常々、己を管仲や楽毅に例える。(管仲は春秋時代の人で、斉国の名宰相。楽毅は戦国時代の人で、燕国の名将。)学友の崔州平、徐庶は、諸葛亮に期待をかける。
三顧の礼
・劉備が荊州に来て、見識者の司馬徽(しばき)を訪ねる。司馬徽は、「臥龍」諸葛亮と、「鳳雛」龐統を推薦する。
・劉備は諸葛亮を二度訪ねたが、二度とも留守。三度目の訪問で、ようやく会える。(いわゆる「三顧の礼」。当時の劉備は行き詰まり気味で、新しいタイプの人材を求めていた。)
・劉備に展望を語る。荊州と益州の地の利を述べ、それぞれの領主(劉表と劉璋)の器不足を述べ、彼等に取って代わることを提言。そして、こう言う。「西と南の蛮族を手なずけ、外は孫権と結び、内は政治を充実させ、機を見て荊州・益州で同時に軍を動かせば、(曹操を退け、)漢王朝を復興させることができます。」
・以上は、一般に「天下三分の計」と呼ばれる。(三分するのは、あくまで手段。目的は漢王朝の復興・大陸の統一。)隆中(りゅうちゅう)という村で語られたため、「隆中策」とも呼ばれる。
・劉備は、兵が少ないことを案じる。諸葛亮は進言する。「荊州は人口は多いのですが、戸籍に載っている者は少数です。兵の徴用を行えば、一家当たりの負担が多くなり、反感を買うでしょう。そこで劉表殿に進言し、国中の戸籍の整備を勧めます。我々はそのあと、この地で徴用すればよいのです。」この策は成功する。
赤壁戦
・曹操が荊州に進軍し、孫権に帰順を求める。諸葛亮は、劉備の指令を受け、孫権への使者となる。まず、情勢に関して直言し、孫権の志気を煽る。更に、曹操軍の疲労、水戦の利を説く。孫権は曹操迎撃を決め、周瑜を司令官に任じ、赤壁で曹操を破る(劉備も助力)。
・劉備が、荊州の四郡(武陵、零陵、桂陽、長沙)を手中にする。諸葛亮は軍師中郎将に任じられ、三つの郡を統括。(武陵を除く三郡。)軍費を不足なく賄ったという。(財務官僚として、優れた計画力を発揮。あまり知られていない活躍。)
益州統治
・劉備が益州を攻略する。諸葛亮は当初、荊州に残ったが、やがて援軍として益州に赴く。趙雲と共に行軍し、各地を平定しながら進む。(諸葛亮が兵を率いたのは、史実ではこれが初。)到着後、劉璋(益州牧)は降伏。
・「蜀科」(刑法)を制定する。具体的な内容は不詳だが、公正で厳格だったとされる。(なお、蜀科の制定者として名が記されるのは、諸葛亮、法正、李厳、劉巴、伊籍の5人。)
・劉備が出征する際、常に留守を守り、軍糧を万全にしておく。
・劉禅(劉備の子)の教育係を務める。
・劉備が蜀王朝を開くと、諸葛亮は、丞相に任じられる。
・丞相府において、役人たちに心構えを訓示。まず、こう述べる。「そもそも公務に携わる者は、多くの人に意見を求め、幅広く思考を巡らせ、常に国益を考えて忠勤すべし。」(実直さがよく分かる発言。)
・次に、こう述べる。「もし、小さな不満で人を遠ざけ、意見の相違を克服しないなら、重大な損失をもたらすだろう。相違を乗り越え、新しい案を生み出せたら、それは破れた草履を打ち捨て、珠玉を手に入れるようなものだ。」(不毛な言い争いより、互いに視野を広げる姿勢が大事、と説いた。)
・最後に、手本となる人物として、徐庶、董和を挙げている。
益州統治2
・劉備は呉に遠征し、諸葛亮は蜀に留まる。やがて劉備は敗れ、白帝城に駐在する。病床に伏すと、諸葛亮を成都から呼ぶ。「君は曹丕に十倍する才を持つ。劉禅が補佐するに足るなら、これを補佐してくれ。そうでなければ、君自身が国を奪ってくれ。」諸葛亮は涙を流し、忠義を誓う。
・劉備死後、益州牧となり、丞相と兼任する。(丞相として国事を決定し、州牧として諸郡を統括。)細事に至るまで、政治を監督する。
・塩、鉄の専売を推進する。(劉備の時代に開始。)
・兵法を探究し、「八陣の図」を考案する。また、連射できる弩(ど)、運搬用の木牛、流馬を自ら創作。(諸葛亮は、儒学や政務だけでなく、理系分野にも長けていた。)
・南方で諸郡が反乱する。首謀者は、建寧郡の豪族雍闓(ようがい)、越巂(えつすい)郡の部族長高定、牂牁(しょうか)郡の丞の朱褒。(その後、朱褒は太守を名乗る。)彼等はやがて内紛を起こし、雍闓を殺害し、代わりに孟獲を主君とする。(この孟獲は、漢人・異民族の混血とされる。)諸葛亮は、軍を率いて南征する。全て平定し、孟穫を懐柔。
・平定した地域では、異民族の自治を重んじる。それをもって経費を削減し、同時に漢人への不信感を解く。一方で、産出物を取り立て、財政を充実させる。
北伐(第一次~第三次)
・「出師の表」を奉り、魏に対し北伐を行う。漢中に本営を設置。まず、馬謖を先陣とし、街亭に進軍させる。自身は、陽動作戦をもって三郡(南安・天水・安定)を孤立させ、降伏に追い込む。
・馬謖が命令違反し、山上に布陣する。しかし、結局敗れ、潰走する。諸葛亮は軍法に照らし、馬謖を誅殺する。一方、三郡は再び魏に帰順。
・第二次北伐。陳倉城に進軍する。曹真が事前に郝昭(かくしょう)を遣わし、城の防備を固めさせる。諸葛亮は兵糧が尽き撤退。その途中、敵将王双の追撃を受けたが、迎撃して討ち取る。(戦術レベルでの勝利。)
・第三次北伐。配下の陳式を遣わし、武都郡、陰平郡を攻撃する。魏将郭淮が救援に赴くと、諸葛亮は上手く牽制し、これを撤退させる。かくて、二郡の制圧は完了する。(この北伐は成功。)
・曹真が司馬懿らを従え、蜀領に侵攻する。諸葛亮は、成固に駐屯。(漢中郡に属する県。首都南鄭県の北東。)蜀軍は、夏侯覇(敵の先鋒)を破る。しばらくして、長雨が発生し、魏軍は撤退。(この戦役は、魏が仕掛けたものなので、北伐には含まれない。)
北伐(第四次、第五次)
・第四次北伐。北上して祁山(きざん)に向かう。魏将郭淮(かくわい)を撃破し、一帯の麦を収穫する。
・続いて、司馬懿と対峙する。司馬懿は持久戦を望んだが、部下達が反対したため、あえて出撃する。諸葛亮は魏延、高翔、呉班らを率い、迎撃して破る。(あくまで、戦術レベルでの勝利。)
・一方、木牛で輸送を行っていたが、長雨のため頓挫する。諸葛亮は撤退し、張郃がこれを追撃。諸葛亮の伏兵が張郃を射殺する。(王双のときと、同様の結果。諸葛亮は、撤退戦に長けていたらしい。)
・最後の北伐(第五次)。渭水(いすい)の南岸に進軍し、五丈原に駐屯する。屯田しながら、司馬懿と対峙。時々攻撃を仕掛けるも、敵は防備に徹する。
・自ら、諸々の事務を取り仕切る。また、軍に規律を守らせ、現地の民から信頼を得る。
・やがて病死し、蜀軍は撤退する。司馬懿は、諸葛亮の陣の跡を見て、「天下の奇才」と評したという。
・陳寿は諸葛亮を評して言う。「民を慰撫して道を示し、無駄な官職を減らし、公正な政治を行った。忠義を尽くし、私情を棄てて賞罰を徹底し、悪人でも改心すれば許した。諸事に通じ、根源から物事を捉え、偽りは許さなかった。厳格でありながら、人々から敬愛されていたのは、公正で賞罰が明確だったからである。古代の名宰相管仲や蕭何(しょうか)に匹敵する。」(陳寿は基本的に、諸葛亮を絶賛。)
・陳寿はこうも評する。「度々軍を動かしながら、成功はしなかった。応変の将略は、得手ではなかったのだろうか。」