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リュウゼン コウシ
劉禅 公嗣
  
~無難な性格の二代目~

 蜀の二代目皇帝。諸葛亮を信任し、後に自ら為政。朝臣たちをよくまとめ、大きな騒乱は起こらず。一方、将軍姜維の外征を制御せず、国力は次第に衰える。魏軍が来ると降伏し、洛陽に移住。



蜀帝時代1
・劉備の長子。荊州の南陽郡出身。(劉備が新野県に駐在していた頃。)
・益州時代、諸葛亮から教育を受ける。あるとき、諸葛亮は劉備に書簡を送り、劉禅の聡明さを述べている。(恐らく、事実無根ではない。)
・即位後、諸葛亮を信任し、諸事を任せる。諸葛亮は当時丞相だったが、加えて益州牧にも任じる。
・諸葛亮死後、蒋琬(しょうえん)、費禕(ひい)ら名臣を重用し、信任する。

・あるとき、李邈(りばく)という人物が言う。「諸葛亮は凶悪な臣でした。彼の死は喜ぶべきことです。」劉禅は大いに怒り、李邈を誅殺する。
・宿将張嶷(ちょうぎょく)が劉禅に目通りする。張嶷は足に故障を抱えながら、あえて姜維(きょうい)の北伐に加わろうとする。劉禅は涙を流し彼を送り出す。張嶷は奮戦して討死する。


・あるとき、群臣から、「成都に諸葛亮の廟を立てるべき」という意見が出される。劉禅は、これを却下する。(恐らく、諸葛亮を尊敬しつつ、その存在から自由になりたいという思いがあった。)かくて、別の地に廟を建立。
・蒋琬死後、自ら国政に当たる。(「魏略」)




蜀帝時代2
・董允が側近として、劉禅を補佐。劉禅はあるとき、後宮の宮女を増やそうと欲する。(劉禅は諸葛亮の時代、厳しく躾けられた。その反動かも知れない。)しかし、董允に諫められる。
・董允死後、しばしば遊覧に出る。また、宮中の歌手・演奏者を増やす。(恐らく、諸葛亮、董允の時代の反動。)譙周(しょうしゅう)は書状をもって、劉禅に忠言する。「陛下は孝心厚く、人を使うことにも長けておられますが、天子として身を慎むことも大事です。」


陳祗(ちんし)を侍中(政治顧問)とする。(出身は豫(よ)州。)多芸で、天文、暦、占いに通じた人物。また、日々、劉禅の心情によく配慮する。(柔軟な性格で、いわゆる「儒家官僚」とは一味違う。)劉禅は、この陳祗をいたく気に入る。陳祗が死去すると深く悲しみ、言葉を発する度に涙を流す。

宦官の黄皓(こうこう)の台頭を許す。(黄皓は、基本的に権勢欲が強い。但し、「三国志演義」で描かれるほど横暴ではない。)一方、軍事は姜維に一任する。姜維は魏軍相手に活躍したが、国力は徐々に削られる。


・司馬昭(魏の重臣)が蜀攻略に取り掛かり、鍾会、鄧艾らを侵攻させる。一方、黄皓は占いを好み、劉禅に対し「魏軍は来ない」と告げる。そのため、援軍を出すのが遅れたという。
・鄧艾が成都に接近する。譙周が降伏の利を説き、劉禅はそれに従う。魏の臣となり、安楽公に封じられる。(幽州の安楽県(漁陽郡)を、封土として保有。封土は税の取り立て対象だが、自らその地に住む必要はない。)




魏での日々
・あるとき、司馬昭が劉禅を宴会に招き、蜀の音楽を聴かせる。司馬昭が「蜀が懐かしくないか」と尋ねる。劉禅は「今が楽しいので、思い出すことはありません」と答える。司馬昭は周りの者に言う。「これほど無感動な人間がいるとは。諸葛亮でも、彼を盛り立てるのは難しい。まして、姜維では無理だっただろう。」

・このあと、蜀の旧臣郤正(げきせい)が劉禅に言う。「再び同じことを聞かれたら、涙を流して、蜀のことを思い出すと言うのです。」劉禅がその通りにすると、司馬昭は言う。「郤正の言葉の通りですな。」劉禅は目を見開く。「まさにその通りです。」周りの者はどっと笑う。(以上、「漢晋春秋」の記事。劉禅の内心は不明。)


陳寿は劉禅を評して言う。「賢明な宰相がいた頃は、彼等をよく信任し、道理に従う君主であった。宦官に惑わされたあとは、暗愚な君主であった。白い糸のようなものであり、周囲の色に染められる。」(この評は、恐らく、劉禅の一面を衝いている。しかし、全体的な人物像は、もっと複雑だと思われる。)




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