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ヒイ ブンイ
蜀の官僚。呉との外交で活躍。やがて蒋琬(しょうえん)の後継者となり、国政、軍事で活躍する。しかし人の良さが災いし、魏の刺客に殺害される。
・伯父は、劉璋(益州牧)の遠縁。あるとき、劉璋に招かれて益州に行き、費禕も同行する。
・劉備が劉璋に代わり、益州を支配する。劉璋は荊州に移転となったが、費禕と伯父は益州に留まる。費禕は、董允共々、評判を得る。(董允は董和の子。董和は元劉璋の部下で、その後劉備に仕えた。)
・董允共々、許靖の子の葬儀に行く。董和が安物の馬車をあてがうと、董允は乗るのを渋る。費禕はためらわず乗り込む。諸葛亮らの馬車は皆立派であり、董允は居心地が悪そうにする。費禕は意に介さない。(内面、本質を重んじるタイプ。)
・董和は、帰宅した董允からその話を聞き、こう述べる。「私は日頃、お前と費禕の優劣を測りかねていたが、今日はっきり分かったぞ。」
・劉備が劉禅を太子に立てる。費禕は董允共々、舎人(太子の世話係)となる。
・後に劉禅が即位すると、費禕は黄門侍郎(側仕え)となる。
・諸葛亮が南征から帰還した際、百官がそれを出迎える。諸葛亮はその中から、費禕のみを名指しし、自分の馬車に同乗させる。(諸葛亮は、基本的に人物眼がある。)
・侍中(政治顧問)に任じられる。引き続き、呉への使者も任される。
・「費禕別伝」によると、孫権はあるとき費禕を酔わせ、その上で次々難問を出題。費禕は質問を一通り覚えた上で、「酔っているので、今は無理です」と述べ、一度退出する。酔いを覚ましつつ、考えを整理し、席に戻ると一つ一つに返答。遺漏は一切なかったという。(実直なだけでなく、柔軟に状況に対応できる人物。)
・「費禕別伝」によると、孫権はあるとき、愛用の宝刀を費禕に授与。費禕は言う。「私は不才でして、恩寵に耐えることはできません。しかし、刀とは王命に従わない者を討伐し、暴虐の者を制する道具であります。(これを賜った以上、)もし大王様(孫権)が功業に励まれ、共に漢室の補佐に尽力なさるなら、私は東方(呉)の恩に背くことはありません。」
・中護軍に任じられる。(首都の軍を統括。)その後、司馬となる。(将軍の元で軍をまとめる。)
・魏延(武将)と楊儀(軍政家)が度々衝突。いずれも逸材だったため、諸葛亮は悩む。そこで、費禕はいつも彼等に割って入り、両者の間を調停する。おかげで、大きなトラブルは起こらず。(北伐の陰の功労者。)
・諸葛亮は北伐中、陣没する。費禕は、(丞相府の)後軍師となる。(楊儀が中軍師。)
・蒋琬(しょうえん)が涪(ふ)に駐屯し、対魏の作戦に当たる。費禕は、大将軍、録尚書事に任じられる。(録尚書事は尚書令の上。)
・曹爽(魏の皇族)が漢中に進軍。王平(蜀の将)がこれを防ぐ。費禕は軍を統率し、救援に赴く。出征の直前、来敏(朝廷の高官)の訪問を受け、囲碁の勝負を申し込まれる。費禕は嫌な顔一つせず、共に対局を楽しんだという。来敏は言う。「私は貴方を試してみたのです。貴方は(司令官として)まさに適任者です。」その後、費禕が現地に到着すると、曹爽は撤退する。(費禕は、手際よく諸軍を行軍させ、素早く要地を占めたのだろう。)
・蒋琬の後任として、益州刺史に就任する。
・蒋琬が死去してのち、漢中に駐屯する。
・成都に帰還し、ほどなく、漢寿県(元葭萌県)に駐屯する。(漢寿県は、梓潼(しとう)郡所属。この郡は、元は広漢郡北部。)
・常に心のままに仁愛を示す。しかし、張嶷(南方の郡の太守)は書簡を送り、「人を疑うことも必要です」と説く。この心配は、やがて的中する。費禕はあるとき宴会を行い、その際中、郭循(魏からの降伏者)に刺殺される。
・陳寿は費禕を評して言う。「寛容で人を差別なく愛した。」また、蒋琬、費禕をまとめて称賛。「諸葛亮の方針を受け継ぎ、国内と国境をしっかりまとめた。」
諸葛亮 楊儀 蒋琬 譙周
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ヒイ ブンイ
費禕 文偉
~実直な能臣~
蜀の官僚。呉との外交で活躍。やがて蒋琬(しょうえん)の後継者となり、国政、軍事で活躍する。しかし人の良さが災いし、魏の刺客に殺害される。
育ち・出仕
・荊州の江夏郡出身。幼少の頃父を失い、伯父の元へ身を寄せる。・伯父は、劉璋(益州牧)の遠縁。あるとき、劉璋に招かれて益州に行き、費禕も同行する。
・劉備が劉璋に代わり、益州を支配する。劉璋は荊州に移転となったが、費禕と伯父は益州に留まる。費禕は、董允共々、評判を得る。(董允は董和の子。董和は元劉璋の部下で、その後劉備に仕えた。)
・董允共々、許靖の子の葬儀に行く。董和が安物の馬車をあてがうと、董允は乗るのを渋る。費禕はためらわず乗り込む。諸葛亮らの馬車は皆立派であり、董允は居心地が悪そうにする。費禕は意に介さない。(内面、本質を重んじるタイプ。)
・董和は、帰宅した董允からその話を聞き、こう述べる。「私は日頃、お前と費禕の優劣を測りかねていたが、今日はっきり分かったぞ。」
・劉備が劉禅を太子に立てる。費禕は董允共々、舎人(太子の世話係)となる。
・後に劉禅が即位すると、費禕は黄門侍郎(側仕え)となる。
・諸葛亮が南征から帰還した際、百官がそれを出迎える。諸葛亮はその中から、費禕のみを名指しし、自分の馬車に同乗させる。(諸葛亮は、基本的に人物眼がある。)
国交に尽力
・呉への使者を任される。孫権は外交の使者が来ると、いつも家臣と共に議論を吹っかけ、時に揶揄的な言を浴びせる。費禕に対しても、同様の態度を取る。(このとき、諸葛恪(呉の有名な才子)もその場におり、弁舌を振るう。)費禕は丁寧な言葉使い、篤実な態度を崩さず、ただ道理に沿って返答する。結果、誰も費禕を屈服させられず、孫権も「君は天下の善徳の士である」と述べる。
・侍中(政治顧問)に任じられる。引き続き、呉への使者も任される。
・「費禕別伝」によると、孫権はあるとき費禕を酔わせ、その上で次々難問を出題。費禕は質問を一通り覚えた上で、「酔っているので、今は無理です」と述べ、一度退出する。酔いを覚ましつつ、考えを整理し、席に戻ると一つ一つに返答。遺漏は一切なかったという。(実直なだけでなく、柔軟に状況に対応できる人物。)
・「費禕別伝」によると、孫権はあるとき、愛用の宝刀を費禕に授与。費禕は言う。「私は不才でして、恩寵に耐えることはできません。しかし、刀とは王命に従わない者を討伐し、暴虐の者を制する道具であります。(これを賜った以上、)もし大王様(孫権)が功業に励まれ、共に漢室の補佐に尽力なさるなら、私は東方(呉)の恩に背くことはありません。」
諸葛亮を補佐
・諸葛亮が北伐を開始し、漢中に進出する。費禕は諸葛亮により、丞相府の参軍に任じられる。(丞相は諸葛亮。参軍とは軍事参謀。)・中護軍に任じられる。(首都の軍を統括。)その後、司馬となる。(将軍の元で軍をまとめる。)
・魏延(武将)と楊儀(軍政家)が度々衝突。いずれも逸材だったため、諸葛亮は悩む。そこで、費禕はいつも彼等に割って入り、両者の間を調停する。おかげで、大きなトラブルは起こらず。(北伐の陰の功労者。)
・諸葛亮は北伐中、陣没する。費禕は、(丞相府の)後軍師となる。(楊儀が中軍師。)
重鎮として活躍
・尚書令に任じられる。(尚書令とは、帝の秘書機関の長。)
・蒋琬(しょうえん)が涪(ふ)に駐屯し、対魏の作戦に当たる。費禕は、大将軍、録尚書事に任じられる。(録尚書事は尚書令の上。)
・曹爽(魏の皇族)が漢中に進軍。王平(蜀の将)がこれを防ぐ。費禕は軍を統率し、救援に赴く。出征の直前、来敏(朝廷の高官)の訪問を受け、囲碁の勝負を申し込まれる。費禕は嫌な顔一つせず、共に対局を楽しんだという。来敏は言う。「私は貴方を試してみたのです。貴方は(司令官として)まさに適任者です。」その後、費禕が現地に到着すると、曹爽は撤退する。(費禕は、手際よく諸軍を行軍させ、素早く要地を占めたのだろう。)
・蒋琬の後任として、益州刺史に就任する。
・蒋琬が死去してのち、漢中に駐屯する。
・成都に帰還し、ほどなく、漢寿県(元葭萌県)に駐屯する。(漢寿県は、梓潼(しとう)郡所属。この郡は、元は広漢郡北部。)
才能と性格
・「費禕別伝」によると、日々政務を的確にこなし、朝から晩まで尽力。その合間に、賓客に会い、時に宴会を楽しみ、博打遊びもする。人としての楽しみと、職務を常に両立させたという。(恐らく、事務能力は楊儀に匹敵。加えて、人間的魅力を備えていた。)董允は後に尚書令になり、費禕の真似をしようとする。しかし上手くいかず、慨嘆したという。
・常に心のままに仁愛を示す。しかし、張嶷(南方の郡の太守)は書簡を送り、「人を疑うことも必要です」と説く。この心配は、やがて的中する。費禕はあるとき宴会を行い、その際中、郭循(魏からの降伏者)に刺殺される。
・陳寿は費禕を評して言う。「寛容で人を差別なく愛した。」また、蒋琬、費禕をまとめて称賛。「諸葛亮の方針を受け継ぎ、国内と国境をしっかりまとめた。」