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トウシ ハクビョウ
鄧芝 伯苗
  
~飾り気なき能臣~

 蜀の臣。劉備の時代、地方長官として活躍。諸葛亮の時代、呉への使者となり、孫権に気に入られる。後に将軍となり、反乱を平定する。



劉備の時代
・荊州の義陽郡出身。(義陽郡は、元は「章陵郡」。大元は、南陽郡の南部。)
・益州に移住する。(時期は、劉焉か劉璋の時代。)
・劉璋の時代、龐義(ほうぎ)が巴西太守となる。龐義には、義を好むという評判あり。鄧芝はそれを聞き、龐義の元に身を寄せる。


・劉備が益州を制圧する。鄧芝は、食糧庫の監督官に任じられる。
・あるとき、劉備は鄧芝と話し、大いに気に入る。鄧芝は、ある県(蜀郡)の令に任じられる。その後、広漢太守に昇進する。いずれにおいても、清廉、厳正な態度を取り、治績を挙げる。
・中央に招聘され、尚書(秘書機関の実務官)に任じられる。




国交に尽力
・劉備は、夷陵で呉軍に敗北。諸葛亮に後を託し、死去する。諸葛亮は、孫権の動向を案じ、早めに関係を修復したいと考える。しかし、誰を派遣するかなかなか決まらず。そんな折、鄧芝は諸葛亮と対面。その場で、呉への使者に抜擢される。(諸葛亮は、基本的に人物眼がある。)
・到着後、孫権はなかなか会おうとしない。鄧芝は、孫権に上表する。「私が今回参りましたのは、我が国のためだけでなく、呉のためでもあるのです。」孫権は鄧芝に会う。

・孫権は言う。「私も本心では、蜀と協力したいと思っているが、蜀の君主(劉禅)は幼少で、国は小さく貧しい。魏に付け込まれ、国を保てないことを案じている。」鄧芝は言う。「呉と蜀は、合わせて四州(揚州、荊州、交州、益州)を支配し、大王(孫権)は一世を覆う英雄でして、諸葛亮もまた一代の傑人です。蜀には山岳の守りがあり、呉には三江の隔てがあります。この二つの長所を合わせ、互いに唇と歯の如く助け合えば、進んでは天下の併呑、退いては三国の並立が可能です。これは自然の理です。」(まず、周到に状況を論述。諸葛亮が「天下三分の計」を説いたときを思わせる。)
・続けて言う。「もし大王が魏に臣従なさるなら、魏は必ず、大王の入朝、太子の宮仕えを要求します。これに従わなければ、反逆者となり、討伐を受けることになります。そして、蜀もこれに付け込み、呉に進軍するでしょう。そうなれば、江南の地は、二度と大王の物ではなくなります。」(孫権の自尊心と聡明さを見越し、この発言。)孫権は少し沈黙してから、「その通りだ」と答える。かくて、魏との関係を断ち、蜀と同盟することを決める。


・孫権は張温を蜀に派遣し、諸事を整える。その後、鄧芝が、再び呉を訪問。
・孫権は言う。「もし天下が泰平になれば(魏が滅びれば)、二人の君主が国を分けて治める。これも愉快ではないか。」鄧芝は言う。「そもそも天に二つの太陽はなく、地に二つの王はいないものです。君主がそれぞれの徳を盛んにし、臣下が各々の忠節を尽くし、将軍が撥(ばち)と陣太鼓を引っさげて出陣すれば、戦争が始まるだけです。」孫権は大笑いし、「君の誠実さからいって、当然の答えだ」と言う。(孫権は豪放な性格。)かくて、同盟が完成する。




軍事
・諸葛亮が魏への北伐を開始し、漢中に駐屯する。鄧芝は、中護軍(首都の軍を統括)に任じられる。将軍位も加えられる。(具体的な活躍は不明。)
・諸葛亮死後、前軍師、続いて前将軍となる。兗(えん)州刺史を兼任。(兗州は実際は魏の内部。建前上の任命。)

江州(巴郡の首都)の都督となる。後には、車騎将軍に任じられる。
・孫権は度々、蜀に書簡を送付。鄧芝の安否を尋ね、贈り物をする。
・涪(ふ)陵国で領民が反乱を起こす。(益州の東端。)鄧芝はこれを討伐し、一帯を平定する。


・将軍となって二十年以上、賞罰を明確にし、兵卒をよくいたわる。質素倹約には努めず、一方で利殖も図らない。家は次第に貧しくなる。
・性格は剛毅で、細事に気を配らない。また、常に感情をそのまま出し、(慎みを重んじる)士大夫たちとは相性が合わず。一方、姜維を高く評価していたという。
・陳寿は鄧芝を評する。「堅実貞正、簡潔明瞭。常に職務に励み、私事を忘れた。」




諸葛亮 姜維


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