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用語まとめ

 後漢・三国時代のキーワードです。


1、制度


郡国制
 漢王朝の地方行政制度。「郡県制」と「封建制」の混合。

 郡県制では、全土を郡で区分けし、郡の下に県を置く。(郡の上には州。)州、郡、県の長官は朝廷が任じ、世襲されない。
 封建制では、全土を国(藩国)で区分けし、王(または公)を任じる。代々世襲。(なお、王や公は爵位で、皇族や功臣が対象。)

 郡国制では、郡と国が両方存在する。通常、同等の行政単位で、国の下は県。
 また、前漢の途中、国ごとに相(しょう)を置き、長官とした。(以後、王や公は形だけ。)



孝廉、茂才
 いずれも、官僚の候補枠。「郷挙里選」の科目で、推挙制。
 前者は郡単位で、後者は州単位。



郷挙里選
 漢王朝の官僚登用制度。郡太守がその地の人材を抽出し、朝廷に推挙する。
 評価基準は、儒の素養。科目として、「孝廉」「賢良」「文学」「秀才」を設置。(「秀才」は、後漢時代「茂才」と改称。)
 基本的に、豪族が優先された。

 この制度は、前漢の武帝が施行。董仲舒(とうちゅうじょ)の発案による。



郷、里
 「郷」は県の下の行政単位で、三老がまとめる。「里」は最小の行政単位で、里正がまとめる。
 他に「亭」という単位があり、「郷」と「里」の間とされる。(異説あり。)



九品官人法
 魏王朝の官僚登用制度。曹丕(そうひ)が、陳羣(ちんぐん)の発案を受けて施行した。(別名「九品中正法」。)
 この制度では、中央政府が人事官(中正官)を任命し、郡の人材を推挙・評価させる。
 評価基準は「郷挙里選」同様、儒の素養が基本。郷挙里選に比べると、才の比重が多い。
 一番の特徴は、評点の存在(九段階評価)。推挙時の評点により、官界での昇進が規定された。

 後に、司馬懿(魏の重臣)がこの制度を改新。「中正官」(郡単位)の上に、「州大中正」(州単位)を置き、中央集権を強化する。
 やがて、中央官僚が地方と癒着し、推挙される家系が固定化。貴族層が形成された。  



屯田
 民屯と軍屯がある。
 民屯では、民に募集をかけ、荒地を耕作させる。軍屯では、辺境などで、兵が平時に耕作する。

 曹操は民屯、諸葛亮は軍屯を行った。









2、地理


司隷
 洛陽、長安を含む州。7郡から成る。

 まず、河南尹(かなんいん)、京兆尹(けいちょういん)。そして河内郡、河東郡、弘農郡、馮翊(ふうよく)郡、扶風郡。(「尹」は「郡」と同じ。)

 洛陽は、河南尹に属する県。長安は、京兆尹に属する県。



河南尹
 司隷に属する郡。「郡」の代わりに「尹」が付いている。
 また、そこを治める長官も「河南尹」と呼ばれた。(太守の代わり。)
 京兆尹も同様である。



三輔
 司隷の三地区、「京兆尹」「左馮翊郡」「右扶風郡」を指す。京兆尹には、長安県がある。



中原
 黄河を中心とする広い地域。中国大陸の中央部分。



関中
 函谷関の西の一帯。長安以西。
 渭水盆地を中心とし、中原に連なる。

 なお、函谷関の東は「関東」、西は「関西」と呼ばれた。



渭水(いすい)
 黄河の支流。長安の北を東西に流れる。



漢中
 益州の郡の名前、または、その一帯を指す土地名。
 山に囲まれた険阻な地で、中心には漢中盆地がある。

 劉邦はかつて、「漢王」としてこの地を統治。王朝設立の際、「漢」の字を用いた。



河北
 黄河の北の地域。華北の大きな部分を占める。



江南
 長江の南東の地域。江東とほぼ同義。



南中
 益州の南部。高原地帯で、異民族が多く住んでいた。









3、その他


清流派
 後漢の後期、宦官と対立した儒者たち。政治の矯正と、官界での立場回復を目指した。
 宦官とその手下は、「濁流派」。



豪族
 農村にあって、大土地を所有。小作人や食客を抱える。
 また、豪族の一部は、(郷挙里選により)官界に進出し、官僚の家系となった。



宦官(かんがん)
 皇帝の身の回りの世話をする。去勢された男子。
 有力な者は中常侍(官職名)などに任じられ、大きな権力を持った。



外戚
 皇后・太后の一族。朝廷において、しばしば優遇された。

 特に、皇后の子が幼くして即位すると、皇后は太后となり、(一族共々)実権を掌握した。
 そして、皇帝成人後も、権力を手離さないことが多かった。

 宦官とは、基本的に対立関係。



山越
 江南の山地の異民族。(特定の民族ではなく、総称。)原住民。





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