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経歴まとめ ~成功と挫折~

 なるべく簡潔に要約。  



名前、出自など
 孔子は、魯国(山東地方)の生まれ。生年は前552年、没年は前479年。時は春秋時代(王朝でいえば「周」)。
 孔子の「子」は、先生という意味。本名は、孔丘と言う。姓が「孔」、名が「丘」である。

 また、古代の中国では、実名とは別に字(あざな)がある。これは、気軽な呼び名のことで、成人男子は誰もが有した。(自分で命名。)
 孔子の字(あざな)は、仲尼(ちゅうじ)。仲は「次男」の意で、尼は「尼山」に由来する。(孔子の両親は、かつて尼山に登り、子ができる祈願をした。その後、孔子が誕生。)

 孔子は、魯の武官・孔紇(こうこつ)の子。孔紇は、字(あざな)を叔梁(しゅくりょう)と言い、豪傑として知られた。
 孔子の生後、孔紇はほどなく死去。孔子は母子家庭で育つ。この頃の孔子について、詳しい記述は残っていない。




魯国時代1
 時は春秋時代。周王朝の権威は衰え、配下の諸国は実質独立。各々自国の利を求め、互いに争いを繰り広げる。
 魯もその一つなのだが、小国のため、自国の保全に重点を置いていた。文化的な国でもあったという。孔子が生まれ育ったのは、そういう地。

 孔子は青年期、役人として生計を立てる。何度か配置変えがあり、例えば倉庫、牧場などを担当。その過程で、様々な手際を身に付けた。(学者として大成後も、時々それらを披露し、感心されたという。)
 孔子はその一方で、日々勉学に励み、儒学の基礎を身に付ける。特定の師はなく、優れた学者に出会う度、存分に質問。主体性の高さが窺える。
 前523年、自ら塾を開校。門下には、随一の秀才顔回、腕力自慢の子路ら。


 当時は、徳行が廃れた時代。利己主義が蔓延し、争いが絶えない。権勢者は私欲に走り、民は苦境にあった。
 そんな中、孔子は日々、「仁」を説く。また、それを実践する手段として、「礼」を提唱する。更に、周の全盛期を、徳の時代と捉え、それへの回帰を理想とした。
 孔子はまた、「天」への信仰を持つ。それは、言わば摂理への崇拝。擬人的なものではない。




斉国時代
 当時、魯国の君主は昭公。しかし、三つの豪族が権勢を誇り、中でも季孫氏が力を持つ。
 前517年、昭公は斉(せい)国に亡命。(当時、斉国は景公の時代。)以後の魯国は、王公不在のため、三豪族が治めた。(七年後、昭公は死去し、翌年定公が(魯国で)即位。定公は昭公の弟。)
 昭公亡命後、孔子も門下生を連れ、斉国を目指す。(前517年。)その心境に関し、特に記述はない。

 昭公は、斉国の名族・高氏と繋がりあり。孔子もこの高氏を頼り、家臣となる。孔子は(儒教の)儀礼の知識があり、まず、それを売りにできた。また、学者として、既にある程度の評判があった。


 斉は大国。孔子はしばらくの間、この地に身を落ち着ける。見聞と視野を広げ、世界観、人間観を深めた。
 孔子はあるとき、斉伝統の音楽を聴き、その感銘を語る。孔子は堅苦しい人物ではなく、感性的なことも重視した。




魯国時代2
 帰郷してのち、日々、向学、教授に励む。門下生も次第に増える。(その数は、計三千人に達したという。)

 前501年、魯国の定公が、孔子を招聘する。孔子は、中都の宰(長官)に任じられる。(これらは、季孫氏の肩入れによる。)
 前500年、孔子は司空に昇進し、続いて大司寇(だいしこう)となる。(前者は民政、後者は法務を統括。)
 同年、魯、斉が同盟することになる。孔子は、外交の場に同席する。斉の景公は、異民族の踊り手(全員武装)を呼び、力を誇示。孔子はこれを一喝し、結果、定公は付け込まれず。


 この頃、魯国の三豪族は依然強力。各々、私有地を城壁で囲み、その勢力を保っていた。
 魯国を改革するには、まず、三豪族の力を削ぐ必要がある。(また、魯国でいい治世が実現されたら、他国への感化を期待できる。)
 そこで孔子は、彼等の城壁の撤廃を提言。季孫氏、叔孫氏の二家は、言う通りにする。しかし、残りの一家(孟孫氏)は反発。二家も結局後悔し、孔子の立場は悪くなった。(以上、前497年。)

 これは、孔子の失策と捉えられる。事を急ぎすぎたのだろう。元来が学者であり、政治経験は浅い。(それでも、一時は、二家を納得させた。)




諸国放浪~帰郷
 前496年、孔子は宰相代行に昇進。しかし、豪族達とは不仲。孔子はその年、魯国を立ち去る。(政治的には、既に挫折。)
 以後十年余り、孔子は諸国(衛、陳など)を遊説する。弟子たちと苦労を共にし、迫害にも屈せず、信条を貫く。(孔子が迫害を受けたのは、当時、利己主義が流行っていたため。仁の思想は、世の空気に逆らう部分があった。)

 前484年、孔子は、魯国に帰国する。前482年、弟子の顔回が病死。(後継者と目されていた。)一方、子路(力自慢の弟子)は、しばらく前に衛国で仕官。前480年、反乱軍と対し、討死する。

 孔子は悲嘆の中、前向きな気持ちを保つ。日々、理想を追求し、後進の指導に力を注ぐ。前479年死去(七十四歳)。
 後世、弟子たちが孔子の言をまとめ、「論語」という書物にする。孔子はやがて、「聖人」と呼ばれるに至る。


 なお、孔子の子供は一人。姓名は孔鯉(こうり)で、字(あざな)を伯魚と言う。孔子はこの孔鯉に対し、直接の教授はせず。(考えが衝突したら、関係が壊れるという理由。)孔鯉は、前483年に死去。孔子が帰郷した翌年に当たる。
 孔鯉に関し、記録はあまり残っておらず、人物像はよく分からない。




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