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理想と現実 ~様々な側面~

 孔子は中国史上、「聖人」として扱われます。
 その一方で、孔子の理想に反した歴史が、中国において繰り返されました。
 理想は、どこまで実現したのか?当ページで、ちょっと考えてみます。




礼教と法治
 孔子の思想は次第に普及し、広く認知された。しかし、理想がそのまま実現することは、世の中でなかなかない。

 孔子の想定する治世では、「礼制」が最も基本に置かれる。また、それに則した政治は、「礼教政治」と呼ばれる。この政治形態は、前漢の途中に採用され、後漢時代に定着した。
 礼とは、仁を規範化したもので、「取るべき態度」を意味する。そして、仁とは内面的なもので、人の本質の一部をなしている。(例えば、他者への配慮、思いやりなどは、実際誰もが有するだろう。)しかし、物欲も人の本質であり、仁と相克関係にある。

 特に、豪族の強欲を制することは、為政者にとって重要だった。彼等が農村で横暴を振るえば、一般の民も、仁や礼どころではなくなる。世の中全体に利己主義が広がり、礼教体制は瓦解する。
 豪族たちが仁、礼に目覚めなければ、自ずと法も必要になる。儒教が国教となっていた時代、一方では酷吏(法に厳格な官吏)が起用されることがあった。





礼教と法治2
 礼教を法で補っても、なお上手くいくとは限らない。古代の漢人には、精神主義、即物主義が両方存在する。(得てして、後者が上回る。)為政者たちは、豪族などを治める際、物事のバランスをよく捉える必要があった。それが何より困難だったと思われる。

 為政者が彼等に取る方針は、一つは礼教。布告などを出し、教化をもって自覚を促すというもの。この場合、通常、実利も与えて懐柔する。(礼制に従うことを条件に、優遇、恩恵を与える。)もう一つは、厳格な法をもって、締め付けを行う方針。直接的に権勢を抑制する。
 これらを全て念頭に置き、匙加減を考える必要が存在。情勢に応じて熟慮しなければ、増長か反発が起こる。

 中国大陸において、王朝の統治が崩れる事態は、実際何度も到来した。古代の漢人は複雑な性質を持ち、また、地域ごとの差異も小さくない。(加えて、天災、異民族の問題あり。)そして、一たび混迷の時代になると、争いはなかなか収まらず。




国政と礼教
 孔子が創出した礼教は、時々に、抑止力として機能した。これは、疑いのない事実だろう。例えば、後漢の前期から中期、そして魏王朝。これらの時代は、短くない期間、十分な治世が存在していた。

 世の中が一度乱れたあと、秩序がある程度戻ったら、為政者は礼教をもって基礎を固める。それは、後漢以後、一つの定番のやり方だった。礼教は重厚な倫理体系から成り、説得力のある建前を提供できる。(ここでの建前とは、「一応目指すべき理想」といったもの。)


 なお、礼教政治とは、合理主義の一形態(一つのシステム)でもある。現実の様々な事象を、倫理面から抽象化し、規範の体系に当てはめる。そうして是非を判断する。当然、規範の構築、事象の抽象化の際、恣意性・強引さを伴うことがあり得る。

 システムとしての儒教は、時に、権力層の思惑に左右された。孔子自身の教えと、後の時代の礼教は、必ずしも同じではない。




君子による統治
 世の秩序は、二つのベクトルから作られる。一つは「上から下へ」(官から民へ)。もう一つは「下から上へ」(個から全体へ)。礼教政治も、どちらに重点を置くかで実態が変わる。

 儒教には、「君子による統治」という概念がある。君子とは、人格者、精神主義者を意味。清、仁、義、教養などの内的価値を重んじる。
 君子が政治を主導すれば、私欲のために暴政、外征を行ったりしない。必ず民を思いやり、道義に沿った統治を試みる。また、規範をしっかり定め、それを民に教示し、「上から下へ」と秩序が作られる。

 古代の漢人社会には、精神主義が根付いており、この「君子による統治」という考えは(理念・建前として)受容された。(以後、君子という言葉自体が、しばしば「いい統治者」の代名詞として使われた。)


 現実には、勿論、君子以外の者が為政者になり得る。利己主義者が、時々に権力を握ることは、基本的に避けられない。(また、権力基盤が不安定な場合、人格より策謀が重要になる。)

 そもそも、古代の漢人は、精神主義、即物主義を共に持つ。人格性、利己性、両方の性質を有する場合が多かった。そして、しばしば後者が上回る。
 為政者の一部は、美辞麗句をもって、私欲、権力欲を粉飾。彼等において、礼教は、支配の手段という面も強かった。
 それが度を過ぎると、民は表向き儒教に従い、実際は他の宗教(道教など)に傾倒する。孔子の考えた礼教から、自ずと離れていく。




農村共同体
 孔子は、「君子による統治」だけでなく、個人の自覚を重視。民が自主的に正道を歩む、という社会を想定した。
 孔子が理想とするのは、民の一人一人が人道を知り、調和の中で生きる共同体。世の空気は、個から全体へと浄化される。そこでは、豪族として横暴を振るおうとする者、その手先になろうとする者は、自ずと減る。
 古代の中国は農村社会で、灌漑も伴う。互いの協力を必要とするため、共同体体制は、基本的に根付きやすい。孔子の理想は、そう現実離れしたものではなかった。


 後漢時代の前期、孔子が理想とする世は、ある程度実現した。
 当初は豪族に権勢があったが、漢王朝は、これをそこそこに抑制。多くの地方で、共同体社会がしっかり形成され、礼教は十分行き渡る。(豪族たちも、共同体の枠に収まる。)また、共同体の支持を得た者が、「郷挙里選」(官僚登用制度)で推挙を受け、官界に入った。

 しばらく安定期が続いたが、後漢の中期になると、やはり豪族の台頭は起こる。それでも、儒家官僚が力を持ち、郷挙里選を司っている限り、多くの豪族は慎む態度を見せる。
 これらの豪族は、礼教体制を尊重することで、郷挙里選で優遇を受けた。そうして、官界に送り出された者は、勿論儒家官僚となる。(循環体制が存在。)
 しかし、後漢の後期は、横暴な外戚、宦官が力を得る。多くの豪族はこれに伴い、貪欲になっていった。


 混乱の時代ののち、魏王朝が成立する。(漢王朝の後継。)その初期、各地方には、(儒教の教えに基づき)農村の再建に尽くした人士が存在。彼等は民間の支持を元に、「九品官人法」(郷挙里選の強化版)で推挙を受けた。
 しかし、魏の後期になると、中央の権勢者が「九品官人法」を支配。推挙を実質統括する。(つまり、上から下というベクトル。)




血縁主義
 漢人社会には、古来、血縁主義が根付く。(個人のアイデンティティの根幹をなしている。)
 これは勿論、儒教に基づく部分が多い。儒教は基本的に、祖先から続く生命の流れを崇める。それは、「天の摂理」の中心部分であり、己はその中に位置付けられる。(孝の精神も、そこから自ずと発生した。)


 他に、社会的な要因も存在。まず、漢人社会には、即物性が根差している。そのため、物を取り合い、互いに争う性質が強い。
 勿論、古代の漢人は農耕民族であり、共同体体制が重視された。しかし、気質的なものは、それとは別に存在する。特に、一定の権勢を得た者は、他者と調和する必要が減り、しばしば貪欲さを発揮した。
 そんな中、人々の間で、「一族の者だけは、常に信頼する」というスタンスが培われる。これが、漢人の血縁主義の、一つの面とされる。

 儒教共々、血縁主義は世に普及。人々に拠り所を与えると同時に、贔屓(ひいき)や独占などの弊害をもたらした。これは勿論、孔子の本意ではない。




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