トップページ>諸子百家>孟子
孟子は何故、「性善説」を唱えたのか?当ページで考察してみます。
孟子は、幼い頃に父を亡くし、母子家庭で育つ。厳格な教育方針の元、日々勉学に努めたという。
孟子は成長後、遊説家となり、梁、斉など諸国を巡る。王に家臣として仕えつつ、論客として活動。変革、救民に絶えず尽くした。
当時は、様々な国が林立し、戦国時代と呼ばれる。王朝でいえば、「周」の時代なのだが、戦国七雄(七つの藩国)が独自に為政する。互いに争いを繰り返し、世の中は安定しない。
そんな中、孟子は、あえて「性善説」を唱えた。
「孟子」という書物に、孟子の問答・逸話がまとめられている。この書物は、弟子たちにより書かれたが、孟子自身も関わったとされる。
そういう時代だからこそ、孟子は「善」について真剣に考えた。
孟子は、人の本性を善とし、その自覚を説く。例えば、弟子との対話の中で、「不忍(しのばず)」という概念を提唱。世に広めようとする。
これは、「~するのは忍びない」とか、「他人の苦しみを見過ごせない」という感情を意味する。一例として、「子供が井戸に落ちかけたら、誰もが損得抜きで助けようとする。」
こういうことを、あえて力説する必要があるほど、当時の世は荒廃していた。
孟子はまた、理想の社会形態として、相互扶助、資源共有を想定。これらは、助け合い、譲り合いの推奨、という意味だけではない。共同体の体制が整えば、人々は日常を保障され、心を内に向ける余裕が生じる。
孟子は、斉の宣王に対し、こう述べている。「恒産を持たずして、恒心を持つことができるのは、士(志が強い者)に限られる。」(恒産とは、安定した財産。恒心とは、安定した心。)
そして、「民衆は、恒産がなければ、恒心を持ちがたい」と説いた。これは、管仲の「衣食足りて礼節を知る」と同種の言葉。(管仲は春秋時代の政治家。)
あるとき、告子(墨家)が、「人の本性は、善でも悪でもない」と主張する。「人の心は水のようなもので、障害物によって流れを変える。」
それに対し、孟子は言う。「人が善を行いたいと欲するのは、水が高いところから低いところに落ちるが如し。水が跳ねたり、逆流するのは、不自然に手を加えた場合のみ。」
孟子のこの返答は、明快ではあるが、必ずしも証明になっていない。孟子の弁舌スタイルは、論理より真心と言える。「人の本性」といった実存的問題は、本来論証することができない。人それぞれが、己の内で捉える必要がある。孟子は論争の際、よく例えを駆使し、それを促した。
また、当時は、遊説家ブーム。諸王も進んで彼等と会い、その意見を聞く。
そして孟子は、遊説家の中でも、気概に溢れた人物。意欲的に各国を巡り、王や大臣と会い、政治の在り方を説いた。孟子の主張は、どこに行ってもぶれない。その根本は、「仁政を行えば、民の意気は上がり、自ずと国は盤石になる」というもの。
孟子はあるとき、梁国(元・魏国)に赴き、恵王に謁見する。恵王は口を開くと、こう言う。「わざわざ来てくれたのは、わが国に利する策(他国に勝つための策)があってのことか?」孟子は直ちに、こう答えた。「王ともあろう者が、何故、利のことを真っ先に言うのですか?私は仁、義のことしか知りません。」
孟子は、弟子との対話の中で、こう語っている。「覇道政治は、民を治めると称し、実際は抑圧する。」「王道政治の元では、民は自然に日々を満喫し、統治者を殊更に意識しない。」「国が滅びる原因は、しばしば覇道政治にある。(中略。)衰亡を避けたいと願いながら、不仁を繰り返すのは、酔いたくないと言いながら、酒を暴飲するようなものだ。」
孟子は、梁の恵王、斉の宣王に対し、王道政治を提言。その心構え、効用をじっくり説き、王たちは耳を傾ける。(容易に聞き入れることはなかったが。)
恵王との会見時、孟子は、世の実情を切々と述べた。即ち、諸国は富国強兵を目指し、侵略戦争に明け暮れている。領地は荒れ、福祉はまともに行われず、庶民は日々の生活に窮している。
孟子の「王道政治」という考えは、そのような状況を踏まえたものであった。
儒教は、道徳心だけでなく、形式的なことを重視する。孟子もまた、そういう面は持っている。孟子は、身分に応じた儀礼に言及し、その必要性を述べたことがある。
孟子は、従来の儒家同様、「人格者による統治」が念頭にある。確かな人格を持つ者が、為政者・士大夫として、民衆を導くべきと考える。これは、「士大夫層と民衆の区別」を意味している。
その一方で、孟子は、「民は最も貴(とうと)い」としている。(ある弟子に語った言葉。)このとき、「民意に逆らう為政者は、追放されても仕方ない」とも述べた。
孟子は間違いなく、革新性をかなり持っていた。上下のけじめは大事とするが、それを治世の本質とは考えない。むしろ、民から官、下から上へと定まる治世を思い描いた。
そして士大夫層は、民の上に立つ者(もしくは将来そうなる者)として、手本となる生き方に努める。孟子は為政者や弟子に対し、絶えず心得を説いた。
孟子は、人の在り方を様々に追求する。以下、孟子の発言の中から、特徴的なものを四つ挙げる。(いずれも、弟子に説いた言葉。)
「世の中に、天下を論じる者は多い。(しかし、そもそも、)天下の根本は国であり、国の根本は家であり、家の根本は自分自身だ。(まず、自分の心に目を向ける必要がある。)」
「人には、必ず備わっている性質がある。それは、情けの心、不正を憎む心、謙譲の心、是非(良し悪し)を考える心である。それぞれ、仁、義、礼、智に繋がるもので、人が当たり前に持っている。(中略。)皆がこの四つの性質を養成すれば、(いずれ家、国、天下へと伝播し、)世の中全体が安定する。」(四つの性質は、原文では「四端」。四つの始まりの意。)
「己の心を省みる中で、同時に、人間とはどういうものか分かってくる。そして、自ずと、天の摂理(物事の道理)が分かるようになる。」(原文は「尽其心者、知其性也、知其性、則知天也」。テンポがよく明快。)
「求めれば、必ず得られる物がある。それは、我に在る物(己の心の中にある物)だ。外に在る物ばかり求めていたら、いずれ不毛をもたらす。」
孟子は儒家であり、基本的には、この立場に則していたと思われる。しかし、孟子の諸々の発言を見ると、(他の儒家に比べ)自由な思惟を重んじている。普遍的な人倫を想定しつつ、人それぞれの視点、感覚を重視する。(そして、互いに感化する社会を期待した。)
孟子は、恐らく、個人の主体的自我に価値を置いていた。この点、近代の西洋と、少し共通部分が感じられる。
しかし西洋では、自我は判断の主体として、常に合理的であることが推奨される。西洋的自我は、形がない物、不確かなものを排し、世界を外面的に捉える傾向がある。(現代の日本も、これに準ずる。)
一方、孟子は、何より内省に重点を置いた。自我は主に、内省の主体であることが求められる。まず、心の諸事象を実存的に捉え、それを元に人間観を構築。そして、物事は全て、人の内的価値との関連で考える。
また、一人一人がそれを行う中で、自然に社会倫理が形成される。つまり、個から全体へと秩序ができる。(孔子も恐らく、そういう社会が念頭にあったが、孟子はより明確に思い描いた。)
また、内省や研鑽の中で、人格を十分完成させた者は、為政者の資格を得る。一方、現在の為政者が不適格者なら、立場を剥奪されても文句を言えない。
孟子は、遊説家として、為政者たちに弁舌。内省を促し、仁や義の体得を説き、彼等が民の手本となることを望んだ。
また、統治形態として、共同体体制の整備を提言。これの目的は、民の生活の保障だけでなく、民に内省の余裕を与えるためでもある。
現実には、そう誰もが内省的になれる訳ではない。また、生来、欲望が過多な人間もいる。どんなに教化を行っても、また、共同体体制が万全になっても、世に徳が定着するとは限らない。(取り分け、権力欲は、他の心性を圧しやすい。)
孟子の考えは、あくまで理想の域を出ない。強権政治は、必然として、また、必要もあって存在し続けた。
しかし孟子の考えは、一つの道理として、次第に世に広まった。これは、重大な事実だろう。書物「孟子」は、経書(公式の儒学書)の一つとなり、為政者たちにも広く読まれた。
漢人は即物的な性質が強いが、(古代においては、)精神主義の文化も根付いている。孟子の諸々の言葉は、真理の一面として受容。貪欲や横暴に対し、ある程度は抑止力になり得た。
また、孟子の言葉は、小国においては、十分聞き入れられた例がある。滕(とう)国の文公は、孟子の案に則し、目立った治績を挙げたという。
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孟子 ~性善説の真意~
荀子 ~性悪説の真意~
老子 ~宇宙の真理~
荘子 ~差別への洞察~
墨子 ~理想と変容~
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孟子 ~性善説の真髄~
孟子は何故、「性善説」を唱えたのか?当ページで考察してみます。
孟子の経歴
古代中国の儒家。本名は孟軻(もうか)、字(あざな)は子輿(しよ)と言う。出身は鄒(すう)の国。生年は前372年、没年は前289年。孟子は、幼い頃に父を亡くし、母子家庭で育つ。厳格な教育方針の元、日々勉学に努めたという。
孟子は成長後、遊説家となり、梁、斉など諸国を巡る。王に家臣として仕えつつ、論客として活動。変革、救民に絶えず尽くした。
当時は、様々な国が林立し、戦国時代と呼ばれる。王朝でいえば、「周」の時代なのだが、戦国七雄(七つの藩国)が独自に為政する。互いに争いを繰り返し、世の中は安定しない。
そんな中、孟子は、あえて「性善説」を唱えた。
「孟子」という書物に、孟子の問答・逸話がまとめられている。この書物は、弟子たちにより書かれたが、孟子自身も関わったとされる。
基本思想
当時は、道徳が廃れた時代。官も民も利己的になり、世の中全体で争い・迫害が絶えない。(また、孔子の時代に比べ、貨幣経済が発達。利を巡る争いは、より峻烈になっている。)国々は当たり前のように、侵略戦争を繰り返す。そういう時代だからこそ、孟子は「善」について真剣に考えた。
孟子は、人の本性を善とし、その自覚を説く。例えば、弟子との対話の中で、「不忍(しのばず)」という概念を提唱。世に広めようとする。
これは、「~するのは忍びない」とか、「他人の苦しみを見過ごせない」という感情を意味する。一例として、「子供が井戸に落ちかけたら、誰もが損得抜きで助けようとする。」
こういうことを、あえて力説する必要があるほど、当時の世は荒廃していた。
孟子はまた、理想の社会形態として、相互扶助、資源共有を想定。これらは、助け合い、譲り合いの推奨、という意味だけではない。共同体の体制が整えば、人々は日常を保障され、心を内に向ける余裕が生じる。
孟子は、斉の宣王に対し、こう述べている。「恒産を持たずして、恒心を持つことができるのは、士(志が強い者)に限られる。」(恒産とは、安定した財産。恒心とは、安定した心。)
そして、「民衆は、恒産がなければ、恒心を持ちがたい」と説いた。これは、管仲の「衣食足りて礼節を知る」と同種の言葉。(管仲は春秋時代の政治家。)
弁舌
当時は、迷走の時代で、価値観の再編期。例えば、人の本性を問う議論が、世の中で流行っていた。あるとき、告子(墨家)が、「人の本性は、善でも悪でもない」と主張する。「人の心は水のようなもので、障害物によって流れを変える。」
それに対し、孟子は言う。「人が善を行いたいと欲するのは、水が高いところから低いところに落ちるが如し。水が跳ねたり、逆流するのは、不自然に手を加えた場合のみ。」
孟子のこの返答は、明快ではあるが、必ずしも証明になっていない。孟子の弁舌スタイルは、論理より真心と言える。「人の本性」といった実存的問題は、本来論証することができない。人それぞれが、己の内で捉える必要がある。孟子は論争の際、よく例えを駆使し、それを促した。
また、当時は、遊説家ブーム。諸王も進んで彼等と会い、その意見を聞く。
そして孟子は、遊説家の中でも、気概に溢れた人物。意欲的に各国を巡り、王や大臣と会い、政治の在り方を説いた。孟子の主張は、どこに行ってもぶれない。その根本は、「仁政を行えば、民の意気は上がり、自ずと国は盤石になる」というもの。
孟子はあるとき、梁国(元・魏国)に赴き、恵王に謁見する。恵王は口を開くと、こう言う。「わざわざ来てくれたのは、わが国に利する策(他国に勝つための策)があってのことか?」孟子は直ちに、こう答えた。「王ともあろう者が、何故、利のことを真っ先に言うのですか?私は仁、義のことしか知りません。」
政治理念
孟子は、「覇道政治」「王道政治」という概念を考える。前者は、強権による統制。後者は、徳による統治。孟子は、弟子との対話の中で、こう語っている。「覇道政治は、民を治めると称し、実際は抑圧する。」「王道政治の元では、民は自然に日々を満喫し、統治者を殊更に意識しない。」「国が滅びる原因は、しばしば覇道政治にある。(中略。)衰亡を避けたいと願いながら、不仁を繰り返すのは、酔いたくないと言いながら、酒を暴飲するようなものだ。」
孟子は、梁の恵王、斉の宣王に対し、王道政治を提言。その心構え、効用をじっくり説き、王たちは耳を傾ける。(容易に聞き入れることはなかったが。)
恵王との会見時、孟子は、世の実情を切々と述べた。即ち、諸国は富国強兵を目指し、侵略戦争に明け暮れている。領地は荒れ、福祉はまともに行われず、庶民は日々の生活に窮している。
孟子の「王道政治」という考えは、そのような状況を踏まえたものであった。
孟子の革新性
孟子の思想について、更に詳しく見ていく。儒教は、道徳心だけでなく、形式的なことを重視する。孟子もまた、そういう面は持っている。孟子は、身分に応じた儀礼に言及し、その必要性を述べたことがある。
孟子は、従来の儒家同様、「人格者による統治」が念頭にある。確かな人格を持つ者が、為政者・士大夫として、民衆を導くべきと考える。これは、「士大夫層と民衆の区別」を意味している。
その一方で、孟子は、「民は最も貴(とうと)い」としている。(ある弟子に語った言葉。)このとき、「民意に逆らう為政者は、追放されても仕方ない」とも述べた。
孟子は間違いなく、革新性をかなり持っていた。上下のけじめは大事とするが、それを治世の本質とは考えない。むしろ、民から官、下から上へと定まる治世を思い描いた。
そして士大夫層は、民の上に立つ者(もしくは将来そうなる者)として、手本となる生き方に努める。孟子は為政者や弟子に対し、絶えず心得を説いた。
孟子は、人の在り方を様々に追求する。以下、孟子の発言の中から、特徴的なものを四つ挙げる。(いずれも、弟子に説いた言葉。)
「世の中に、天下を論じる者は多い。(しかし、そもそも、)天下の根本は国であり、国の根本は家であり、家の根本は自分自身だ。(まず、自分の心に目を向ける必要がある。)」
「人には、必ず備わっている性質がある。それは、情けの心、不正を憎む心、謙譲の心、是非(良し悪し)を考える心である。それぞれ、仁、義、礼、智に繋がるもので、人が当たり前に持っている。(中略。)皆がこの四つの性質を養成すれば、(いずれ家、国、天下へと伝播し、)世の中全体が安定する。」(四つの性質は、原文では「四端」。四つの始まりの意。)
「己の心を省みる中で、同時に、人間とはどういうものか分かってくる。そして、自ずと、天の摂理(物事の道理)が分かるようになる。」(原文は「尽其心者、知其性也、知其性、則知天也」。テンポがよく明快。)
「求めれば、必ず得られる物がある。それは、我に在る物(己の心の中にある物)だ。外に在る物ばかり求めていたら、いずれ不毛をもたらす。」
孟子の革新性2
儒家は一般に、種々の人倫を説く。それらは、大きな摂理・全体の調和の中にあり、普遍性を有する。人は日々、そのような人倫を捉えることに努めるべき、と彼等は考える。だから、個々人が独自の価値観を作ることは、決して推奨しない。孟子は儒家であり、基本的には、この立場に則していたと思われる。しかし、孟子の諸々の発言を見ると、(他の儒家に比べ)自由な思惟を重んじている。普遍的な人倫を想定しつつ、人それぞれの視点、感覚を重視する。(そして、互いに感化する社会を期待した。)
孟子は、恐らく、個人の主体的自我に価値を置いていた。この点、近代の西洋と、少し共通部分が感じられる。
しかし西洋では、自我は判断の主体として、常に合理的であることが推奨される。西洋的自我は、形がない物、不確かなものを排し、世界を外面的に捉える傾向がある。(現代の日本も、これに準ずる。)
一方、孟子は、何より内省に重点を置いた。自我は主に、内省の主体であることが求められる。まず、心の諸事象を実存的に捉え、それを元に人間観を構築。そして、物事は全て、人の内的価値との関連で考える。
理想と現実
孟子の性善説は、つまりは内省の促し。己の認識を日々見直し、人間の本質を十分に捉え、正しい生き方を自覚する。また、一人一人がそれを行う中で、自然に社会倫理が形成される。つまり、個から全体へと秩序ができる。(孔子も恐らく、そういう社会が念頭にあったが、孟子はより明確に思い描いた。)
また、内省や研鑽の中で、人格を十分完成させた者は、為政者の資格を得る。一方、現在の為政者が不適格者なら、立場を剥奪されても文句を言えない。
孟子は、遊説家として、為政者たちに弁舌。内省を促し、仁や義の体得を説き、彼等が民の手本となることを望んだ。
また、統治形態として、共同体体制の整備を提言。これの目的は、民の生活の保障だけでなく、民に内省の余裕を与えるためでもある。
現実には、そう誰もが内省的になれる訳ではない。また、生来、欲望が過多な人間もいる。どんなに教化を行っても、また、共同体体制が万全になっても、世に徳が定着するとは限らない。(取り分け、権力欲は、他の心性を圧しやすい。)
孟子の考えは、あくまで理想の域を出ない。強権政治は、必然として、また、必要もあって存在し続けた。
しかし孟子の考えは、一つの道理として、次第に世に広まった。これは、重大な事実だろう。書物「孟子」は、経書(公式の儒学書)の一つとなり、為政者たちにも広く読まれた。
漢人は即物的な性質が強いが、(古代においては、)精神主義の文化も根付いている。孟子の諸々の言葉は、真理の一面として受容。貪欲や横暴に対し、ある程度は抑止力になり得た。
また、孟子の言葉は、小国においては、十分聞き入れられた例がある。滕(とう)国の文公は、孟子の案に則し、目立った治績を挙げたという。
孟子 ~性善説の真意~