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荘子 ~差別への洞察~

 荘子は、老子と同じく道家ですが、視点が少し違います。
 両者合わせて、「老荘思想」と呼ばれます。



荘子の経歴
 古代中国の道家。老子同様、「史記」に伝記がある。
 荘子は、姓名は荘周で、字(あざな)は子休。宋の国の生まれで、紀元前四世紀の人(戦国時代)。故郷で役人を務めていたが、ほどなく辞し、隠遁生活に入った。
 これらは、老子同様、あくまで伝説。実在は定かではない。

 「荘子」という書物あり。荘子が己の思想を示したもの、とされており、問答と寓話から成る。
 しかし、作者の素性は、実際は明らかではない。何者かが、架空の人物・荘子になり済まし、己の思想を示した可能性がある。また、「荘子」の一部は、別人の手によるとされる。

 以下では、一人の実在の人物と見なし、話を進めていく。




基本思想
 「荘子」には、何かと寓話が多い。最初の寓話では、鵬(ほう)という架空の鳥が登場する。

 鵬は並の鳥ではなく、数千里を覆う体を持ち、地上の諸物を見下ろす。やがて翼をはためかせ、天高くに飛翔していく。あまりに高くまで飛ぶので、地上の諸物は、次第に一様に見える。

 この境地は、荘子の哲学の中心部分で、「万物斉同」(ばんぶつせいどう)と呼ばれる。鵬には最初、地上の色んな物が見えていたが、やがてあらゆる区分はなくなる。高みから見下ろしたとき、万物は全て等価となる。

 もし鵬の境地に達すれば、従来の認識を脱し、新たな実存的感覚が得られる。日常空間から一度離れ、世界を根底から捉え直すことで、自ずと価値観が変わる。今まで見ていた世界、様々に区分けされた世界が、決して絶対的なものでないと気付く。


 荘子が目指したものは、「非差別」。このテーマは、その著書「荘子」の中で、繰り返し現れる。
 荘子の生きた時代は、利を巡る争いが活発だった。(孟子と同時代。)国々は互いに抗争し、統治はまともに行われず、人心は衰退。身分や富が殊更に重んじられ、差別、迫害が横行する。生まれつき恵まれない者、諸事情で不遇に陥った者は、ますます追い込まれていった。
 そこで荘子は、差別の問題を切実に考え、価値観の再編を目指す。政治よりも、人々の日々の精神に関心を向ける。




考察
 荘子は、物事を区分けすることに対し、慎重になるべきと説いている。

 区分けとは、そもそも何か。まず、人間は他の動物と異なり、言語能力を有している。言語をもって、人・物事を様々な枠組に入れ、レッテルを貼る。
 それぞれの枠組には、価値判断が付与され、ここから差別が生じ得る。(人や物事は、本来、簡単な枠組で捉えることはできない。)

 安易な区分け・レッテル貼りは、自ずと、多くの差別をはびこらせる。現代の日本にも、これはよく当てはまるだろう。




荘子と言語
 「荘子」を読んでいくと、やはり、言葉の問題にも触れている。例えば、「飾り立てた言により、是非(良し悪しのレッテル)が作られる。」「人が言を用いることで、(不必要な)区切りが生み出される。」「言を駆使して弁じれば、かえって本質から離れていく。」(「斉物論篇」。)
 言語化には、十分慎重になる必要がある。

 一方、こう記している。「道(どう)は本来、明確な形を持たない。」「道をはっきり示そうとすれば、それは道ではなくなる。」(「斉物論篇」。)
 道(どう)という概念は、老子と共通する。万物の摂理を意味し、秩序より変転を志向している。人は言葉をもって、無理に秩序を組み立て、多くの真実が見落とされる。言語化とは、結局、物事の一つの相を切り取っているに過ぎない。


 荘子はまた、儒家が重んじる「徳」にも言及。「徳」とは、所詮言葉で構築したものに過ぎず、真実そのものではないとする。(「斉物論篇」。)古代の中国では、徳の名目の元、独善性が発揮されるケースがあった。現代の日本でも、似たようなことは多いだろう。
 基本的に、儒家は秩序を重んじ、道家は変転の機微を捉えようとする。前者は意識的思考、後者は無意識的感覚に基づく。意識性や言語性に偏れば、価値判断の固定化を招き、差別に直結する。荘子はそれを嫌った。

 勿論、自分の考えを述べる際、言語は用いざるを得ない。荘子は、明快に論理付けを行うより、寓話や例示を多用。絶えず曖昧さを残し、認識が限定されるのを避けている。(そのため、書物「荘子」は、掴みどころのなさを特徴とする。)




人の在り方
 荘子は、人の本来的価値を説く。例えば、以下のような寓話を描いている。(「人間世篇」。)

 ある職人が山に入り、一本の大樹を指差し、弟子にこう言う。「この大樹は、いい材質にならないから、ここまで生長したのだ。無用な木だ。」
 その夜、大樹が職人の夢に現れ、こう述べる。「私は無用だからこそ、誰にも刈られることなく、今のようになれたのだ。」また、こう述べる。「私もお前も万物の一つだ。どうして、自分だけに価値があると思うのか。」

 この寓話において、大樹は伐採されることなく、自然界の一部で在り続けている。つまり、木の本来の姿を貫いている。
 この大樹は勿論、人の一つの在り方を象徴する。


 万物は全て、道(どう)によって、何らかの本分を与えられている。それは、他者との関係より根本にある。もし他者との関係にこだわり、むやみに自分をひけらかせば、いずれ本分を見失う。

 特に、荘子の時代は、即物主義・利己主義が蔓延。世の中は荒廃している。下手に世間に飛び込めば、必ず不毛な争いに巻き込まれる。(現代の日本でも、無縁な話ではない。)荘子は、そういう現況を見据え、この寓話を作り出したと思われる。
 また、荘子の時代は、(現代以上の)差別社会。否応なしに、世間から排された者も多い。荘子のいくつかの寓話には、畸形の者たちが登場し、差別を嘲って自信を示す。

 人はそれぞれ、独自の本分を持ち、そこに本来的な価値がある。世間との関係など、二次的なものに過ぎない。(また、本分に従えば、世間とも自然な形で関われるだろう。)




役割の話
 荘子は、あらゆる物事には役割がある、と考える。例えば、以下のような逸話を記している。(「外物篇」。)

 あるとき、荘子と恵子(論理学者)が路上で対話する。恵子が言う。「君の諸々の言は、現実の役には立たないな。」
 それに対し、荘子は言う。「例えば、君が今立っている地面は、明確な形で君の役に立っている。一方、その周りに広がる地面は、一見役に立っていない。しかし、もし周りの地面がなくなり、黄泉まで続く穴になったらどうだろう。君は平静でいられるだろうか。」

 このように、荘子は絶妙な例えで、視野の狭さを指摘した。実用主義だけでは、世の中は成り立たない。人にとって、物事の考え方を確立し、精神的基盤を得ることは、本来重要性を持っている。


 なお、荘子は役人を辞してのち、細々と自給自足の生活をしていた。再仕官はしようとしない。(諸侯から招聘されたこともあるが、応じなかった。)恵子は恐らく、それらに疑問を呈したのだが、荘子は巧みに返答してみせた。
 荘子は、あえて世俗を捨て、地道な表現活動に生きる。政治に関わるより、人々の精神を変えることを目指した。世の中の状況を見て、それがベストだと思ったのだろう。




荘子の特徴
 当時は、人心が軽んじられ、身分や外面が偏重される社会。争いも多く、不安定、流動的な時代。人々は自ずと、立場の確立に苦心した。自分がいつ、差別を受ける側になるか分からない。

 そんな中、荘子は世の真理を問い直し、人間の普遍的価値を考えた。どんな社会環境に陥っても、明るさや、前向きな心を失わない。その境地を、様々な寓話をもって提示した。


 なお、書物「荘子」は、文学としても名作に類する。荘子は柔軟な感性を持ち、修辞にも長け、摩訶不思議な世界を展開させる。(当サイトでは、分かりやすい部分のみ取り上げた。)他の思想家たちとは、一味違う人物。




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