トップページ>前漢から新へ>
王莽の政策と失敗についてまとめます。
王莽は紀元前45年、外戚の家に生まれる。(外戚とは、皇后・太后の一族。)本来なら、恵まれた生活を送れた筈。しかし、年少の頃、父が早世する。
以後の王莽は、親戚たちが栄華を誇る中、慎ましい生活を送った。日々儒学を学び、常に義と孝を重んじ、成長後もその態度は変わらず。
当時、世の中は即物主義に流れており、権勢者は日々横暴を振るう。そんな中、精神主義を貫く王莽は、大いに人気を得る。
また、伯父の王鳳(大将軍)が発病すると、日々これを看病し、信頼を得る。やがて王鳳から後を託され、その死後、次第に地位を高める。遂には、大司馬(国防長官)にまで昇進した。
紀元後6年、平帝が死去すると、皇帝は空位となる。(皇太子のみ存在。)そして、王莽は「仮皇帝」を名乗る。世間もそれに対し、文句はなかったという。
紀元後8年、王莽は、皇太子から帝位を譲り受ける。(書物の預言が根拠。)漢王朝を引き継ぎ、「新」という王朝を開いた。(首都は長安のまま。)
王莽はまず、祭祀・儀礼の制度を整える。それらは、(儒教上の)理念や精神世界を表すもので、政権の正統性・方向性を示す。
王莽の定めた祭祀・儀礼は、後に後漢王朝が始まったとき、その多くが採用されたという。王莽の儒学の素養は、それだけ優れていた。勤勉な人物だったことは間違いない。
王莽は即位の翌年、土地制度の改革を図る。即ち、「王田制」の実施。これは、周代の「井田(せいでん)制」を模したもの。(井田制は、あくまで伝説上の制度。実際には、どこまで施行されたか不明。)
井田制では、一定面積の田を、九つに等分する。中央に一つ、その周りに八つ。前者は公田であり、共同で耕作し、収穫物を租税とする。後者はそれぞれ、一家族に与える。(田地の面積は平等で、あとは努力次第。)
一方、王田制では、八等分する。当面、公田の設置はしない。(そこまでするのは、急過ぎると思ったのだろう。)
儒教の理念では、「人は身分ごと、平等であるべき」とされる。王莽は豪族と、一般農民の格差を減らそうとした。豪族も民の一種であり、身分的には、普通の農民と変わらない。(また、豪族の強大化は、実際過度な状態であり、前漢の後期から社会問題であった。)
豪族は多数の家族を含有し、王田制施行後も、自ずと多くの土地を有する。しかし、上限は設定される。
王莽は更に、奴婢の解放令を出す。(奴婢は主に、豪族が私有。)また、人身売買により(新たに)奴婢を作ることも禁じた。
その過程で、部分的には、豪族の抑制に成功したかも知れない。土地を削られた者は、そこそこ存在する筈。しかし、全体的には、王田制は軌道に乗らず。
施行から三年後、王莽は妥協する。まず、王田の売買を許可。(つまり、豪族の自由な活動を、ある程度許した。)更に、人身売買を許可。(奴婢の存在を容認した。)
失敗の原因は、第一に豪族の反発。地方官は彼等を制御できず、時に癒着し、改革は上手く進まず。
また、他にも、重要な原因が存在する。王莽は王田制以外にも、多くの変革を同時に実行。王莽が即位して以来、官は次第に政務を処理し切れず、行政全体が乱れていったという。王莽は、理想の制度を思い描く反面、運営面を軽視していた。
更に、運悪く、天災(黄河の氾濫)が発生。(王田制施行から二年後。)恐らく、これにより、農政の混乱は決定的となった。
地方長官クラスには、公、侯、伯などの爵位を付ける。その爵位に応じ、県、郷などを、封土(私的な領地)として与える。結果、彼等は統治するだけでなく、その地方と強く繋がる。
また、爵位は世襲される。官職・爵位が結合していれば、爵位の後継者は、自ずと官職も引き継ぐ。(実際、漢書「王莽伝」には、地方長官の世襲が記される。)
以上により、地方長官たちは、封建領主化する。王莽の考えた制度は、周代の封建制度にアレンジを加えたもの。
周のある時期、理想の世が現出していた、と伝えられる。地方領主の統治の元、しっかりした共同体が存在し、民は自ら善行したという。王莽は、その時代への回帰を目標とした。(これは、孔子の理想でもある。)
この新制度は、郡県制の要素を残しつつ、封建制をメインに置くというもの。画期的な制度ではある。しかし、軌道に乗る前に、行き詰まる。王莽は改革を行うに当たり、官名を大幅に変更。(同時期に、地名も頻繁に変える。)結果、事務も人心も混乱した。
封建制自体は、正しい制度とも、誤った制度とも言えない。封建制を取らず、朝廷が随時地方長官を任じる場合、悪徳者が就任する可能性が常にある。
しかし封建制では、支配者層が、代々徳を保っていればよい。教育を怠らなければ、知性、教養、そして徳は継承されていく。しかし、逸脱する者は、いずれ出てくるだろう。
当時、農民は税の一部を、貨幣で納めていた。彼等は、現物を貨幣に変える際、苦心を強いられた。現物納税によって、農民の苦労は軽くなる。
しかし、国家財政においては、貨幣による歳入が減る。(元々、前漢時代から、朝廷は財政の問題を抱えている。)
王莽はまず、六筦(りくかん)という政策を行う。即ち、塩、鉄、酒、諸産物、貨幣鋳造、金融を全て政府が管理。(塩、鉄に関しては、前漢時代からの継続。)
金融関連では、「五均」という政策を施行。これは、首都(長安)の他、五都市に担当官を置き、価格を統制させるというもの。(五都市とは、洛陽、臨淄(りんし)、邯鄲(かんたん)、宛(えん)、成都。)基本は、武帝の「平準法」と同じだが、武帝は首都(長安)にのみ担当官を置いた。
これらの政策は、次第に破綻する。原因として、官吏の不正がある。例えば、五均官が商人と癒着。偽りの帳簿を作り、形の上だけ、民間への売却を行ったことにした。結果、物価は下がらず、高利貸しが横行した。
この時代の商人は、基本的に貪欲。加えて、国家に商売を邪魔され、不満が溜まっている。一方、行政は当時、(諸改革の同時実行により)混乱状態。そのため、官吏はまともに俸禄が得られず、悪徳商人と結託した。
王莽はやがて、経済状況を立て直すため、むやみに貨幣を再編。これは逆効果となる。
他には、賒貸(しゃたい)という制度を作る。これは、官が農民に低利で貸付し、貧富の差を埋めるというもの。しかし、貨幣経済が崩れていたら、効果は得られない。
これは、儒教の世界観に基づく。即ち、「中国の王朝は天命を受けており、他の諸国は格下でなければならない」というもの。(「王」自体、「皇帝」の下なのだが、王莽は更に下げた。)
その世界観の背後には、勿論、「徳の尊重と、その具現としての王朝」という思想がある。そこには、膨張的野心はなく、ただ理念がある。しかし、外交においては、常に相手の心情を慮る必要がある筈。
匈奴は格下げにより、民族の誇りに傷がつく。やがて、匈奴は反乱し、侵略を繰り返す。王莽はこれに対し、討伐軍を差し向けたが、成果は出ない。そして、国力は更に衰えた。
紀元後23年、反乱軍は、首都長安に到達。王莽の軍は善戦したが、結局敗れる。王莽は宮中で、商人の男に殺害される。こうして、新王朝は滅亡。建国から15年で終わった。
紀元後25年、劉秀(反乱軍の将)が、漢王朝を復興させる。(劉秀とは、即ち光武帝。)これが、後漢時代の始まり。
⇐前へ 次へ⇒
劉邦の活躍 ~漢王朝開始~
文帝と景帝 ~変革期~
武帝登場 ~最盛期~
派閥抗争 ~騒乱期~
王莽の時代 ~「新」王朝成立~
王莽の人格性 ~善人か悪人か~
トップページ>前漢から新へ>
王莽の時代 ~「新」王朝成立~
王莽の政策と失敗についてまとめます。
王莽の台頭
漢(前漢)が衰退した頃、王莽(おうもう)という人物あり。王莽は紀元前45年、外戚の家に生まれる。(外戚とは、皇后・太后の一族。)本来なら、恵まれた生活を送れた筈。しかし、年少の頃、父が早世する。
以後の王莽は、親戚たちが栄華を誇る中、慎ましい生活を送った。日々儒学を学び、常に義と孝を重んじ、成長後もその態度は変わらず。
当時、世の中は即物主義に流れており、権勢者は日々横暴を振るう。そんな中、精神主義を貫く王莽は、大いに人気を得る。
また、伯父の王鳳(大将軍)が発病すると、日々これを看病し、信頼を得る。やがて王鳳から後を託され、その死後、次第に地位を高める。遂には、大司馬(国防長官)にまで昇進した。
即位
王莽には、儒家としての信念あり。基本的に、徳行を重んじる。しかし、朝廷においては、政敵排除に余念がなかったという。権力志向も、かなり強かったと思われる。(なお、「漢書」の註釈には、平帝を毒殺したと記される。これに関しては、信憑性は高くないとされる。)紀元後6年、平帝が死去すると、皇帝は空位となる。(皇太子のみ存在。)そして、王莽は「仮皇帝」を名乗る。世間もそれに対し、文句はなかったという。
紀元後8年、王莽は、皇太子から帝位を譲り受ける。(書物の預言が根拠。)漢王朝を引き継ぎ、「新」という王朝を開いた。(首都は長安のまま。)
王莽はまず、祭祀・儀礼の制度を整える。それらは、(儒教上の)理念や精神世界を表すもので、政権の正統性・方向性を示す。
王莽の定めた祭祀・儀礼は、後に後漢王朝が始まったとき、その多くが採用されたという。王莽の儒学の素養は、それだけ優れていた。勤勉な人物だったことは間違いない。
農政改革
当時、地方豪族が台頭し、独自に権勢を持つ。彼等は、多くの小作人を抱え、しばしば搾取した。貧富の差、社会的不平等は拡大。王莽は即位の翌年、土地制度の改革を図る。即ち、「王田制」の実施。これは、周代の「井田(せいでん)制」を模したもの。(井田制は、あくまで伝説上の制度。実際には、どこまで施行されたか不明。)
井田制では、一定面積の田を、九つに等分する。中央に一つ、その周りに八つ。前者は公田であり、共同で耕作し、収穫物を租税とする。後者はそれぞれ、一家族に与える。(田地の面積は平等で、あとは努力次第。)
一方、王田制では、八等分する。当面、公田の設置はしない。(そこまでするのは、急過ぎると思ったのだろう。)
儒教の理念では、「人は身分ごと、平等であるべき」とされる。王莽は豪族と、一般農民の格差を減らそうとした。豪族も民の一種であり、身分的には、普通の農民と変わらない。(また、豪族の強大化は、実際過度な状態であり、前漢の後期から社会問題であった。)
豪族は多数の家族を含有し、王田制施行後も、自ずと多くの土地を有する。しかし、上限は設定される。
王莽は更に、奴婢の解放令を出す。(奴婢は主に、豪族が私有。)また、人身売買により(新たに)奴婢を作ることも禁じた。
結果
この王田制は、どこまで実施できたのか、詳しくは記されない。しかし、豪族の反発の多さから、王莽の本気度は分かる。罰則を細かく定めた、とも記される。その過程で、部分的には、豪族の抑制に成功したかも知れない。土地を削られた者は、そこそこ存在する筈。しかし、全体的には、王田制は軌道に乗らず。
施行から三年後、王莽は妥協する。まず、王田の売買を許可。(つまり、豪族の自由な活動を、ある程度許した。)更に、人身売買を許可。(奴婢の存在を容認した。)
失敗の原因は、第一に豪族の反発。地方官は彼等を制御できず、時に癒着し、改革は上手く進まず。
また、他にも、重要な原因が存在する。王莽は王田制以外にも、多くの変革を同時に実行。王莽が即位して以来、官は次第に政務を処理し切れず、行政全体が乱れていったという。王莽は、理想の制度を思い描く反面、運営面を軽視していた。
更に、運悪く、天災(黄河の氾濫)が発生。(王田制施行から二年後。)恐らく、これにより、農政の混乱は決定的となった。
官制改革
王莽は、官制を一新させる。まず、重要な官職を、爵位に関連付ける。爵位は徳に比例(という建前)。地方長官クラスには、公、侯、伯などの爵位を付ける。その爵位に応じ、県、郷などを、封土(私的な領地)として与える。結果、彼等は統治するだけでなく、その地方と強く繋がる。
また、爵位は世襲される。官職・爵位が結合していれば、爵位の後継者は、自ずと官職も引き継ぐ。(実際、漢書「王莽伝」には、地方長官の世襲が記される。)
以上により、地方長官たちは、封建領主化する。王莽の考えた制度は、周代の封建制度にアレンジを加えたもの。
周のある時期、理想の世が現出していた、と伝えられる。地方領主の統治の元、しっかりした共同体が存在し、民は自ら善行したという。王莽は、その時代への回帰を目標とした。(これは、孔子の理想でもある。)
この新制度は、郡県制の要素を残しつつ、封建制をメインに置くというもの。画期的な制度ではある。しかし、軌道に乗る前に、行き詰まる。王莽は改革を行うに当たり、官名を大幅に変更。(同時期に、地名も頻繁に変える。)結果、事務も人心も混乱した。
封建制自体は、正しい制度とも、誤った制度とも言えない。封建制を取らず、朝廷が随時地方長官を任じる場合、悪徳者が就任する可能性が常にある。
しかし封建制では、支配者層が、代々徳を保っていればよい。教育を怠らなければ、知性、教養、そして徳は継承されていく。しかし、逸脱する者は、いずれ出てくるだろう。
経済政策
王莽は古代の制度に則し、現物による納税を基本とする。これには、現実的な理由が存在する。当時、農民は税の一部を、貨幣で納めていた。彼等は、現物を貨幣に変える際、苦心を強いられた。現物納税によって、農民の苦労は軽くなる。
しかし、国家財政においては、貨幣による歳入が減る。(元々、前漢時代から、朝廷は財政の問題を抱えている。)
王莽はまず、六筦(りくかん)という政策を行う。即ち、塩、鉄、酒、諸産物、貨幣鋳造、金融を全て政府が管理。(塩、鉄に関しては、前漢時代からの継続。)
金融関連では、「五均」という政策を施行。これは、首都(長安)の他、五都市に担当官を置き、価格を統制させるというもの。(五都市とは、洛陽、臨淄(りんし)、邯鄲(かんたん)、宛(えん)、成都。)基本は、武帝の「平準法」と同じだが、武帝は首都(長安)にのみ担当官を置いた。
これらの政策は、次第に破綻する。原因として、官吏の不正がある。例えば、五均官が商人と癒着。偽りの帳簿を作り、形の上だけ、民間への売却を行ったことにした。結果、物価は下がらず、高利貸しが横行した。
この時代の商人は、基本的に貪欲。加えて、国家に商売を邪魔され、不満が溜まっている。一方、行政は当時、(諸改革の同時実行により)混乱状態。そのため、官吏はまともに俸禄が得られず、悪徳商人と結託した。
王莽はやがて、経済状況を立て直すため、むやみに貨幣を再編。これは逆効果となる。
他には、賒貸(しゃたい)という制度を作る。これは、官が農民に低利で貸付し、貧富の差を埋めるというもの。しかし、貨幣経済が崩れていたら、効果は得られない。
対異民族
漢王朝は元々、周辺の匈奴を「王」としていた。王莽はそれを、「侯」に格下げした。これは、儒教の世界観に基づく。即ち、「中国の王朝は天命を受けており、他の諸国は格下でなければならない」というもの。(「王」自体、「皇帝」の下なのだが、王莽は更に下げた。)
その世界観の背後には、勿論、「徳の尊重と、その具現としての王朝」という思想がある。そこには、膨張的野心はなく、ただ理念がある。しかし、外交においては、常に相手の心情を慮る必要がある筈。
匈奴は格下げにより、民族の誇りに傷がつく。やがて、匈奴は反乱し、侵略を繰り返す。王莽はこれに対し、討伐軍を差し向けたが、成果は出ない。そして、国力は更に衰えた。
王朝滅亡、漢の復活
政策の失敗が重なり、国力は衰退。挽回は困難となる。豪族、農民共に苦境に陥り、各地で反乱が発生した。紀元後23年、反乱軍は、首都長安に到達。王莽の軍は善戦したが、結局敗れる。王莽は宮中で、商人の男に殺害される。こうして、新王朝は滅亡。建国から15年で終わった。
紀元後25年、劉秀(反乱軍の将)が、漢王朝を復興させる。(劉秀とは、即ち光武帝。)これが、後漢時代の始まり。
劉邦の活躍 ~漢王朝開始~