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魏晋1


曹操の名言
 曹操はかつて、袁紹にこう語った。
 「私は、天下の智と力を集め、道義をもってこれを御するつもりだ。そうすれば、できないことは何もない。」
 (「三国志」武帝紀)

 曹操の気質、流儀がよく分かる発言。




曹操の政治姿勢
 曹操は、(冀州牧になったとき、)こう布告した。
 「世を治め、人々を御し、国を補佐する際、警戒すべきは部下の迎合である。そこで、属官たちに告ぐ。毎月の初め、政治の不備をまとめ、提出するように。我は必ず目を通す。」
 (「魏書」の記事。「三国志」武帝紀の註に引用)

 正史の曹操は、真面目な政治家。




本拠地の変遷
 曹操の本拠地について、一通りまとめてみる。


 まず、董卓の時代、東郡(兗(えん)州)の太守となる。(袁紹の推薦による。)東武陽県に駐在。
 群雄割拠の時代になると、曹操は兗州牧に昇格し、鄄(けん)城県に移る。この頃、青州黄巾を併呑し、勢力を強化。

 やがて、洛陽県(司隷)に移り、漢の帝を奉じる。
 洛陽時代は短い。ほどなく、許県(豫(よ)州)への遷都を実行。(以後、許県は許都と呼ばれた。)屯田を実行し、備蓄が万全になる。

 しばらくのち、曹操は袁紹を撃破する。その一族を駆逐し、冀州牧に就任。州の首都は、魏郡の鄴(ぎょう)県。
 曹操といえば、許都のイメージが強いが、本格的に身を落ち着けたのは鄴。(かつての、袁紹の本拠地。)この地が、劉備においての成都に相当する。





参謀たち
 曹操の参謀として有名なのは、まず、荀彧、荀攸、賈詡、郭嘉。(他に程昱もいるが、参謀枠に収まらない。)

 荀彧は戦略家、政治家。本国にあって、巨視的戦略を定める。同時に、朝廷の政務・人事を統括した。
 郭嘉は戦略家。曹操の出征に従い、随時情勢の変化を読み、軍略を立てる。
 賈詡は策略家、戦術家。主君の側に控え、敵の心を読み、応変に助言する。西涼出身の現実主義者。
 荀攸は、参謀としてオールマイティ。軍師という官職にあって、諸事に広く関わった。

 荀彧は、参謀であると同時に、政界の重鎮。立場的に、主君とやや距離がある。




程昱の官職
 程昱は荀彧共々、曹操から強い信頼があった。
 また、荀彧に比べ、活躍は多方面に渡る。

 程昱が務めた官職は、寿張県(東平郡)の令→尚書→東中郎将・済陰太守・都督兗州諸軍事。(なお、東平郡と済陰郡は、いずれも兗州に属する。)
 また、東中郎将から、振威将軍、奮武将軍と昇格していく。(戦歴は不詳。)
 一度引退後、魏国の衛尉に就任。(これは、恐らく名誉職。)

 また、程昱は、兗州東郡の出身。地元の豪族と繋がりがあり、州で独自の政治力を有していた。




一族の功臣
 曹操の同族に、曹仁、曹洪、夏侯惇、夏侯淵あり。いずれも、曹操陣営を初期から支えた。
 まず、夏侯惇は、曹操の片腕。人格者としても知られる。曹仁・夏侯淵は名将。多くの戦功を挙げる。また、曹洪は能臣。種々の任務をこなしたが、蓄財を好んだとされる。


 また、曹仁は曹洪より年上のイメージがあるが、実際は不明らしい。分かっているのは、どちらも曹操の族弟ということ。(族弟とは、「一族の中で年下の者」。)また、どちらも、曹操と血縁関係はない。
 夏侯惇は、曹操の従兄弟。血縁関係あり。(曹操から見て、伯父の子に当たる。)夏侯淵は、夏侯惇の族弟。血縁関係は不明。




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