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魏晋3


鍾繇と鍾会
 小説「三国志演義」では、鍾会は鍾繇より印象度が強い。
 演義の鍾会は、意気の高い野心家として描かれ、才腕も強調される。演義の鍾繇は、基本的に記述が少なく、貢献度が分かりにくい。
 演義だけ見ると、どうしても、鍾会の方が大物に見える。

 正史では、鍾繇はずば抜けた功臣で、鍾会に劣らない。(むしろ、格上とする見方が多い。)
 正史の鍾繇は、洛陽、長安を取りまとめ、関中の情勢にも巧みに対処。(関中とは、長安の西の一帯。)曹操の勢力を、内側からしっかり支えた人物。
 また、演義では、馬超らに長安を取られているが、史実ではない。




曹仁と徐晃
 曹仁は荊州樊城を守り、蜀の関羽と対峙。やがて徐晃が援軍となり、関羽は遂に撤退する。

 曹丕の時代、呉軍が襄陽城を制圧し、荊州は再び不穏になる。曹仁と徐晃は、襄陽城を攻撃し、これを奪還。あまり知られていない事実。

 なお、小説「三国志演義」では、徐晃は魏屈指の猛将。曹仁は、登場シーンは多いが、派手な活躍はそれほどない。
 正史では、両者は同等の名将。武勇は曹仁、用兵は徐晃が上回る。




曹丕の特徴
 曹丕は、曹操の子の中で、最も曹操に似る。学問、武芸に秀で、性格は冷静。
 また、感情の豊かさ、非情さが同居する点も、曹操と共通する。その二面性は、曹操以上に際立っている。狭量さが目立つ一方、人間的な逸話が結構見つかる。

 例えば、曹丕は、楊彪(後漢の名士)を存分に厚遇した。(曹操は楊彪を警戒。)
 これはまず、魏王朝が既に成り、楊彪の存在は脅威ではなくなったため。しかし、それだけではなく、個人的な感情もあったと思われる。
 曹丕はそもそも、自分が気に入った相手には、とことん目をかける傾向あり。辛毗、夏侯尚、夏侯楙もその例。




司馬氏三代
 司馬懿と、その子の司馬師・司馬昭は、権謀家として知られる。敵対者に対し、常に容赦なく対処した。しかし、民の統治に関しては、恩恵的だったといわれる。(以上は、曹丕にも当てはまる。)

 古代中国の為政者は、しばしば、儒学を学ぶ文化人という面あり。常々、人格者として振る舞おうとする。その一方で、冷徹、非情に決断することがある。
 儒家にとって、徳は宗教的信念。権力者においても、それは例外ではない。しかし、漢人における徳の意味は、日本と必ずしも同じではない。漢人の儒教は、基本的に現実主義で、しばしば結果を最重視する。手段を選ばない儒者、権謀・詐術を弄する儒者は結構いた。




曹叡と司馬炎
 曹叡は、魏の二代目皇帝。(曹操から数えると三代目。)
 この曹叡は、正統派の儒家で、礼教体制の整備に努めた。
 また、曹丕や司馬懿に比べ、非情さは少ない。

 司馬炎も曹叡同様、大らかなタイプの儒者。晋の初代皇帝となり、常に礼教に即して為政。
 また、「沈思黙考」「度量が広い」など、形容の言葉も曹叡と共通する。
 一方、竜頭蛇尾という点も、曹叡とイメージが重なる。




三人の能臣
 晋王朝には、羊祜、杜預、賈充という大臣あり。
 羊祜は、荊州で治績を挙げ、国境の軍備も強化。杜預は、行政と外征で大きな活躍。賈充は、(魏の時代から)策謀、行政、軍略で貢献した。まさに、三羽烏と呼ぶべき能臣。
 人格面においては、賈充のみだいぶ落ちる。悪徳の持ち主。(現実主義が徹底していた、とも言える。)

 また、杜預は奇才というタイプ。意欲的な性格の持ち主。鄧艾とちょっとイメージが重なる。
 一方、賈充は、権謀家という点が鍾会と同じ。抜け目なさは鍾会以上。




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