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袁術と孫策の関係が微妙になると、周瑜は袁術と面会。このとき、袁術から留め置かれそうになり、望んで居巣県(廬江郡)の長となる。袁術の元を上手く去った。
廬江郡は、実は周家の本籍地でもある。居巣時代の周瑜は、周家の指導者として、活発に活動していたと思われる。孫策の元に戻る機会を窺いつつ、独自の立場を保持していた。実際、「周瑜は廬江の人々から信望あり」という記述がある。
孫策の腹心・片腕は、長らく呂範が該当。周瑜がはっきりその立場になるのは、恐らく、居巣から戻ってのちのこと。以後、周瑜・呂範が、孫策陣営の両輪となる。(劉備にとっての関羽・張飛。)
しかし、それだけでもないと思われる。
周瑜は、家格、経験で孫権を上回る。周瑜にとって、孫権政権は、己の手腕を振るいやすい場所。去るという選択肢は、基本的にない。
勿論、孫権の資質を認めていた、というのが根底にあるだろう。
周瑜はのちに、益州の攻略を考え、孫権に提言。更に、「成功後は、襄陽(荊州の県)で孫権と合流する」とした。
もし、周瑜が早世しなければ、益州攻略は成功したと思われる。その後益州に留まれば、独立勢力になり得た筈。
しかし、周瑜の本籍は、揚州廬江郡(孫権の勢力圏)。また、周瑜は恐らく、自ら主君になりたいタイプではない。(サブリーダーとして手腕を発揮。)襄陽に戻るという言は、本心だったように思える。
後に、孫策が曲阿県(呉郡)を攻略した際、呂範は本軍から分かれ、湖熟県(丹陽郡)の相となる。
孫策勝利後、呂範は、宛陵県(丹陽郡の首都)の令に就任。一帯の反乱を平定し、秩序を確立した。
孫策時代の呂範は、曹操陣営でいえば、恐らく夏侯惇のようなポジション。片腕的な存在。
小説「三国志演義」の呂範は、参謀の一人という感じだが、正史ではかなり個性がある。
孫権時代も、深く信頼され、揚州牧にまでなっている。
揚州の中では、呉郡と並び、文化の地。
虞翻は正史では、ずば抜けて個性が強い。
著名な易学者で、同時に、義心を売りにする名士。矛の使い手でもあり、医術の心得も持つ。
一方では、冷静な判断力を備え、王朗、孫策、呂蒙を的確に補佐した。
まず、侯官県を説得し、王朗を受け入れさせる。
また、華歆(豫章太守)を説得し、孫策に帰順させる。
後には、孫暠(孫策の従兄)を説得し、孫権に恭順させる。
荊州戦時は、傅士仁を書簡で説得し、孫権に帰順させた。
正史では、両者の接点は少なく、性格的にもだいぶ異なる。周瑜は対外戦略を好んだが、諸葛亮はそうでもない。
呉臣の中で、最も諸葛亮に似るのは、恐らく陸遜だろう。接点も結構あり、呉蜀の同盟成立後は、私的にも書簡をやり取りしている。
諸葛亮、陸遜は、いずれも正統派の儒家。理念と態度を明確にし、絶えず国事に尽力した。(諸葛亮は法も重んじたが、あくまで儒が上位。)対外よりも、まず、国内の安定に重点を置いていた。
なお、陸遜には、地方豪族としての活動も多い。詐術的な策略も得手。これらの点は異なる。
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呉2
周瑜の特質
周瑜は、孫策の参謀役。それだけでなく、常に、名門周家の指導者という面があった。袁術と孫策の関係が微妙になると、周瑜は袁術と面会。このとき、袁術から留め置かれそうになり、望んで居巣県(廬江郡)の長となる。袁術の元を上手く去った。
廬江郡は、実は周家の本籍地でもある。居巣時代の周瑜は、周家の指導者として、活発に活動していたと思われる。孫策の元に戻る機会を窺いつつ、独自の立場を保持していた。実際、「周瑜は廬江の人々から信望あり」という記述がある。
孫策の腹心・片腕は、長らく呂範が該当。周瑜がはっきりその立場になるのは、恐らく、居巣から戻ってのちのこと。以後、周瑜・呂範が、孫策陣営の両輪となる。(劉備にとっての関羽・張飛。)
周瑜の野心
孫権が当主になると、周瑜は積極的にサポートする。曹操からの誘いも断っている。周瑜にとって、孫権は、盟友孫策の弟。しかし、それだけでもないと思われる。
周瑜は、家格、経験で孫権を上回る。周瑜にとって、孫権政権は、己の手腕を振るいやすい場所。去るという選択肢は、基本的にない。
勿論、孫権の資質を認めていた、というのが根底にあるだろう。
周瑜はのちに、益州の攻略を考え、孫権に提言。更に、「成功後は、襄陽(荊州の県)で孫権と合流する」とした。
もし、周瑜が早世しなければ、益州攻略は成功したと思われる。その後益州に留まれば、独立勢力になり得た筈。
しかし、周瑜の本籍は、揚州廬江郡(孫権の勢力圏)。また、周瑜は恐らく、自ら主君になりたいタイプではない。(サブリーダーとして手腕を発揮。)襄陽に戻るという言は、本心だったように思える。
孫策と呂範
呂範は、孫策(寿春居住時)に側仕えし、常に苦難を共にした。後に、孫策が曲阿県(呉郡)を攻略した際、呂範は本軍から分かれ、湖熟県(丹陽郡)の相となる。
孫策勝利後、呂範は、宛陵県(丹陽郡の首都)の令に就任。一帯の反乱を平定し、秩序を確立した。
孫策時代の呂範は、曹操陣営でいえば、恐らく夏侯惇のようなポジション。片腕的な存在。
小説「三国志演義」の呂範は、参謀の一人という感じだが、正史ではかなり個性がある。
孫権時代も、深く信頼され、揚州牧にまでなっている。
虞翻1
虞翻は、会稽郡の北部の出身。揚州の中では、呉郡と並び、文化の地。
虞翻は正史では、ずば抜けて個性が強い。
著名な易学者で、同時に、義心を売りにする名士。矛の使い手でもあり、医術の心得も持つ。
一方では、冷静な判断力を備え、王朗、孫策、呂蒙を的確に補佐した。
虞翻2
虞翻は、説得の功が多い。まず、侯官県を説得し、王朗を受け入れさせる。
また、華歆(豫章太守)を説得し、孫策に帰順させる。
後には、孫暠(孫策の従兄)を説得し、孫権に恭順させる。
荊州戦時は、傅士仁を書簡で説得し、孫権に帰順させた。
諸葛亮と陸遜
小説「三国志演義」では、諸葛亮と周瑜の知力勝負が描かれるが、基本的にフィクション。正史では、両者の接点は少なく、性格的にもだいぶ異なる。周瑜は対外戦略を好んだが、諸葛亮はそうでもない。
呉臣の中で、最も諸葛亮に似るのは、恐らく陸遜だろう。接点も結構あり、呉蜀の同盟成立後は、私的にも書簡をやり取りしている。
諸葛亮、陸遜は、いずれも正統派の儒家。理念と態度を明確にし、絶えず国事に尽力した。(諸葛亮は法も重んじたが、あくまで儒が上位。)対外よりも、まず、国内の安定に重点を置いていた。
なお、陸遜には、地方豪族としての活動も多い。詐術的な策略も得手。これらの点は異なる。