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呉3


孫家と民心
 諸葛亮は天下三分の計の中で、こう主張。「孫権は江東を有し、既に三代(孫堅・孫策・孫権)に渡っている。国の体制は盤石で、民は心から恭順し、賢者が活躍している。」

 当時の民は、豪族と一般民に分けられる。
 支配者層、士大夫層が「民」という言葉を使う場合、前者を念頭に置いていることもある。(あるいは、「豪族を中心とする領民たち」という意味合い。)必ずしも、一般民、庶民を指すとは限らない。

 何にしても、この当時、孫家の統治は軌道に乗っていたのだろう。




江東の豪族
 中原では、名家(儒家の豪族)が権勢を持ち、互いにネットワークを形成した。
 江東では、そのような名家は、呉郡、会稽郡に集中。(会稽郡に関しては、北部限定。)孫家はまず、彼等を政権に取り込み、体制の基盤を築いた。

 その他の地域では、雑多な豪族が並立する。彼等は、政治性はそれほど高くない。
 孫呉政権の元、諸将が郡県の長官となり、それら後進地域を支配。諸豪族をまとめ、随時に開拓も行い、備蓄を豊かにした。
 江東は未開地が多く、呉や会稽の名家も、同じく開拓を実行。(名家は大豪族でもあり、自ら開拓を主導した。)

 また、開拓・耕作の労働力を得るため、彼等は山越(原住民)を征服。孫家は絶えず、それを支援。孫家の統治は、強引さの上で成り立っていた面もある。




王朝騒乱
 孫権は基本的に、英明な君主。
 確かな戦略、明確な決断をもって、江東の人士・豪族から信頼を得た。

 しかし、時が経ってのち、まず政権の性質が変容。古参の臣は死去していき、儒家の名士が台頭し出す。(彼等名士は、内輪的なネットワークを持ち、独自の政治性あり。)
 孫権は、改めて主導権を発揮すべく、次第に横暴に振舞う。例えば、張温を一方的に罷免し、陸遜(屈指の功臣)をも迫害する。(彼等は、いずれも儒家名士。)一方、酷吏(法に厳しい官吏)の呂壱を重用し、跡目問題では私情を前面に出す。
 孫権は次第に信望を失い、名士層や名族だけでなく、諸将や諸豪族とも溝が生じた。

 孫権の死後、呉の皇帝・皇族は、絶えず国内に困難を抱える。(孫家の求心力は、既に損なわれている。)同時に、魏(大国)にも備えなくてはならない。
 逆境の中、彼等は政治を半ば放棄し、羽目を外して暴走した。




曹操と孫権
 かつて、孫権は曹操に抵抗し、江東の独立を守った。(赤壁の戦い。)
 しかし、もし帰順していたら、世はそのまま治まっていたかも知れない。
 史実の曹操は、優秀な政治家で、法治、人事に長ける。もし江東を制していたら、巧みに秩序を作り出していたと思われる。
 孫権は曹操を撃退後、江東を長年に渡り興隆させたが、やがて泥沼の時代が訪れた。江東にとって、曹操の支配を跳ねのけたことは、いい選択だったとは言い切れない。

 勿論、当時の世に、反曹操の気運があったのも間違いない。(荊州でも、多くの官民が曹操を避け、劉備を頼っている。)曹操は史実でも、一定の悪評はあったと思われる。曹操迎撃は、ある程度、当時の時流に沿っていたのかも知れない。


 なお、赤壁戦から三年後、曹操は孫権に書簡を送り、こう述べている。「我は貴公を厚遇するつもりだったのに、貴公は劉備にたぶらかされてしまった。」(「文選」巻四十二)




諸葛恪登場
 後期の呉では、諸葛恪という人物が登場。名臣諸葛瑾の子。(諸葛亮の甥でもある。)
 諸葛恪は、孫権から政治を任されると、煩雑な法令を見直す。孫権死後は、関税の撤廃を行う。

 当時の呉の朝廷は、儒家名士の台頭により、礼教が偏重。商業も抑圧された。
 諸葛恪は、儒家の家系の出だが、本人は自由な気質を持つ。官民から、大いに人気を得たという。
 諸葛恪は軍才も優れ、魏軍を迎撃して大勝する。このように、政治・軍事両方で活躍し、呉を再興させた。


 しかし、諸葛恪は、後に功名心を募らせる。魏征伐を強行したが、疫病の流行もあって失敗。人望を失い、帰還後、味方に暗殺される。以後、呉の朝廷は、再び騒乱の時代に入った。




陸抗登場
 陸遜の子の陸抗は、呉後期の名臣。活躍時期は、諸葛恪と同時期~あとの時代。
 陸抗は、晋との国境にあって、絶えず国防に尽力。反乱鎮圧でも活躍する。
 一方では、しばしば上奏文を送り、政治の矯正に努めた。

 陸抗は総じて、陸遜に似た人物。才略だけでなく、人格性も受け継いでいる。こういうパターンは、必ずしも多くない。
 例えば、諸葛瑾は実直な性格、子の諸葛恪は野心家。前者は熟考、後者は才気煥発。能臣という点は同じだが、対照的な部分が目立つ。


 なお、陸抗と諸葛恪は、知力は互いに劣らない。しかし、後者は暴走。陸抗は堅実な性格で、バランス感覚を備え、欠点らしいものはない。  




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