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後漢4


袁術と劉表
 両者それぞれ、荊州に割拠し、対立関係となる。

 袁術は劉表に比べ、気概や覇気あり。
 しかし、蒯越(荊州の名士)は、劉表を主君として選んだ。

 袁術、劉表、蒯越はかつて、都で何進に仕えていたことがある。
 蒯越は袁術、劉表の双方を直接知っており、その上で劉表を見込んだ。




袁術と劉表2
 蒯越は、劉表に仕える際、袁術をこう評している。「勇、而して断なし」。血気盛んだが、冷徹な決断が欠けていると見ていた。

 劉表は、正統派の儒家で、道理を重んじる。儒家は時に、冷徹に物事を決する。
 劉表は蒯越と共に画策し、横暴な有力者数十人を呼び寄せ、問答無用で殺害。
 袁術は強気な性格だが、劉表と異なり、こういう行動は取れなかったと思われる。




王允の軍才
 王允の若年期の日課。日中は経書をじっくり読み、朝夕は騎射の練習に励んだ。
 演義でのイメージと異なり、武の素養もあったらしい。

 豫州刺史となると、荀爽・孔融を補佐官とし、黄巾を討伐して打ち破った。あまり知られていない活躍。




孔融の実像
 孔融は複雑な性質を持つ。変人天才の禰衡と波長が合い、史書「九州春秋」にも「型破りな者を好んだ」とある。自身、傍若無人に振る舞った。
 一方では、張紘ら正統派の名士と親交あり。「後漢書」には、「寛容で人を拒まず」という記述もある。

 また、北海国の相を務めているが、統治能力はよく分からない。「後漢書」には、「儒学に則し、善政に努めた」とある。「九州春秋」には、「理想が先行し、独自の政治を行い、領内は混乱した」とある。
 北海国(青州中部)は、元々、混乱と荒廃の地。誰が統治しても、簡単にはいかなかったと思われる。




自衛集団
 古代中国では、動乱期、流民・避難民がしばしば自衛集団を形成。
 豪族が指導者層となり、山地などに砦(塢(う)と呼ばれる)を築き、集落をまとめた。

 後漢末では、田疇(でんちゅう)がその代表例で、徐無山(幽州右北平郡)に拠点を構築。道理に則し、明確な規律を定め、指導者層もそれを守る。理想的な共同体が作られたという。その規模、数千戸。

 群雄が互いに争っていた時代、一方ではこういう世界も存在した。三国志演義には描かれない、歴史の一つの側面。




管寧と許靖
 管寧は、後漢の名士。動乱を避け、遼東の山に隠遁。公孫度(遼東太守)から庇護を受ける。
 管寧は、あえて政治に口を出さず、日々儒学の探究に努める。その周りには、次第に人々が集まり、一つの村落となる。管寧の学識と人格の元、自然に規範が浸透し、ゆるやかな共同体が形成され、理想郷となった。

 許靖も、後漢の名士。管寧と直接の関わりはないが、人徳で知られた点は共通する。
 許靖は元は朝臣だったが、動乱の中、流浪を余儀なくされる。その際、九族・郎党の身を全て引き受け、仁に則して規律を立て、一つの共同体としてまとめ上げる。幾度も拠点を移ったが、離散は起きず。




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