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例えば、当初は公孫瓚に仕えていたが、徐州で独立する。後には、曹操、袁紹に仕え、折を見て去る。そして新天地では、常に再生を遂げた。
劉備の本質は、恐らく現実主義者。無駄に利己的になることもなければ、無駄に義理にこだわることもない。絶えず本質を見極め、常に最適解を取り、それが人徳に繋がっていたと思われる。頼りになる人物だったからこそ、行く先々で官民に支持された。
しかし、為政者となってのち、常に領地を抜かりなく治めた。
劉備はあるとき、諸葛亮にこう話している。「私はかつて、陳元方(陳紀)・鄭康成(鄭玄)をよく訪ね、治世の道を存分に教え込まれた。」(「華陽國志」)
陳紀・鄭玄は、いずれも高名な儒学者。
鄭玄が徐州に居住していた頃、劉備は徐州牧となっている。劉備が鄭玄らから教えを受けたのは、この頃だろう。(因みに、陳紀の子の陳羣(ちんぐん)は、当時劉備に仕えている。)
劉備は、学者たちから意欲的に学び、それを実際の政治に生かしていた。
劉備は、遊侠出身のイメージがあるが、基本的に官僚の家系。理知的な面を、根底に備えていたと思われる。
以下で、順にまとめてみる。
劉備がある程度の領地を得たのは、平原国(青州)の相になった際。(首都は平原県。)公孫瓚の傘下。
後に、豫(よ)州刺史に任じられる。(首都は、沛国の小沛県。)陶謙の傘下。
その後、陶謙の後継者となり、徐州牧に就任する。(首都は、下邳国の下邳県。)このとき、初めて独立勢力となった。
ほどなく、袁術・呂布の攻撃を受け、小沛県に移る。(かつての本拠地。馴染みのある地。)しばらくして、曹操に帰服し、豫州牧に任じられた。(その後も小沛に駐在。)
袁紹に付いてのち、荊州の劉表の元に行き、新野県(南陽郡)に置かれる。曹操との国境を担当。
赤壁戦後、荊州牧を名乗り、公安県(公安郡)を州都とする。
やがて益州を攻略し、牧の劉璋を降伏させ、公安郡の太守に任命。(自分のかつての本拠地。)自身は、新たな益州牧となり、成都県(蜀郡)に駐在した。
諸葛亮は、戦略家にして政治家。絶えず、国家戦略、国政に尽力した。儒家の名士でもある。
法正は、戦略家、戦術家、策略家。強い政治理念は持たず、徹底した現実主義者である。
劉備にとっての諸葛亮は、曹操における荀彧。
劉備にとっての法正は、曹操における郭嘉。
曹操は荀彧を信頼していたが、多少の距離はあった。郭嘉の方が、腹心という言葉が当てはまる。
蜀には、他に龐統(ほうとう)という人物あり。諸葛亮に次ぐ逸材。諸葛亮と同じく、儒学の士でもある。
また、諸葛亮に比べ、策略家という面も強く、その点は法正に似る。
一方、人物眼に関しては、疑問視されることがある。馬謖(名参謀)を司令官にし、失敗を招いたため、そういう評価が生じている。
しかしその後、諸葛亮は考えを改め、王平(叩き上げの軍人)の才を認識。以後、積極的に任用した。
諸葛亮は元来、人物眼を備える。蜀政権を盤石にできたのは、当然、人事にも長けていたからだろう。
諸葛亮は、例えば、蒋琬、費禕、董允を高く評価した。彼等は皆、名臣として活躍している。蒋琬は大雑把、費禕は控え目なところがあったが、諸葛亮はしっかり才を看破。
蒋琬は人をまとめることに長け、要所要所では、実務もそつなくこなした。
これはやはり、モチベーションが低かったのだと思われる。
かつて、周瑜が南郡太守だった頃、龐統はその功曹を務めていた。功曹は人事官だが、実質、太守の直近の補佐官。
周瑜の死後、龐統は、棺を呉郡(孫権の本拠地)に運ぶ。龐統はこの呉まで、評判が届いていたという。功曹として、色々貢献があったのだろう。
龐統は後に、劉備(当時荊州牧)の治中従事(文書担当)を務め、州の政治を補佐する。日々、劉備の信任を得たという。
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蜀1
劉備の本質
劉備は元々は、中小の勢力を率いていた。不安定な時代、各地方を渡り歩き、巧みに立場を保っていた。例えば、当初は公孫瓚に仕えていたが、徐州で独立する。後には、曹操、袁紹に仕え、折を見て去る。そして新天地では、常に再生を遂げた。
劉備の本質は、恐らく現実主義者。無駄に利己的になることもなければ、無駄に義理にこだわることもない。絶えず本質を見極め、常に最適解を取り、それが人徳に繋がっていたと思われる。頼りになる人物だったからこそ、行く先々で官民に支持された。
劉備と学問
劉備は故郷時代、読書をあまり好まず、奔放に遊んでいた。しかし、為政者となってのち、常に領地を抜かりなく治めた。
劉備はあるとき、諸葛亮にこう話している。「私はかつて、陳元方(陳紀)・鄭康成(鄭玄)をよく訪ね、治世の道を存分に教え込まれた。」(「華陽國志」)
陳紀・鄭玄は、いずれも高名な儒学者。
鄭玄が徐州に居住していた頃、劉備は徐州牧となっている。劉備が鄭玄らから教えを受けたのは、この頃だろう。(因みに、陳紀の子の陳羣(ちんぐん)は、当時劉備に仕えている。)
劉備は、学者たちから意欲的に学び、それを実際の政治に生かしていた。
劉備は、遊侠出身のイメージがあるが、基本的に官僚の家系。理知的な面を、根底に備えていたと思われる。
本拠地の変遷
劉備は、益州を取るまで、各地を転々としている。以下で、順にまとめてみる。
劉備がある程度の領地を得たのは、平原国(青州)の相になった際。(首都は平原県。)公孫瓚の傘下。
後に、豫(よ)州刺史に任じられる。(首都は、沛国の小沛県。)陶謙の傘下。
その後、陶謙の後継者となり、徐州牧に就任する。(首都は、下邳国の下邳県。)このとき、初めて独立勢力となった。
ほどなく、袁術・呂布の攻撃を受け、小沛県に移る。(かつての本拠地。馴染みのある地。)しばらくして、曹操に帰服し、豫州牧に任じられた。(その後も小沛に駐在。)
袁紹に付いてのち、荊州の劉表の元に行き、新野県(南陽郡)に置かれる。曹操との国境を担当。
赤壁戦後、荊州牧を名乗り、公安県(公安郡)を州都とする。
やがて益州を攻略し、牧の劉璋を降伏させ、公安郡の太守に任命。(自分のかつての本拠地。)自身は、新たな益州牧となり、成都県(蜀郡)に駐在した。
参謀たち
劉備の参謀といえば、諸葛亮と法正、いずれかが筆頭。諸葛亮は、戦略家にして政治家。絶えず、国家戦略、国政に尽力した。儒家の名士でもある。
法正は、戦略家、戦術家、策略家。強い政治理念は持たず、徹底した現実主義者である。
劉備にとっての諸葛亮は、曹操における荀彧。
劉備にとっての法正は、曹操における郭嘉。
曹操は荀彧を信頼していたが、多少の距離はあった。郭嘉の方が、腹心という言葉が当てはまる。
蜀には、他に龐統(ほうとう)という人物あり。諸葛亮に次ぐ逸材。諸葛亮と同じく、儒学の士でもある。
また、諸葛亮に比べ、策略家という面も強く、その点は法正に似る。
諸葛亮の人物眼
諸葛亮は、稀代の政治家。法務、財務、人心掌握いずれにも長ける。一方、人物眼に関しては、疑問視されることがある。馬謖(名参謀)を司令官にし、失敗を招いたため、そういう評価が生じている。
しかしその後、諸葛亮は考えを改め、王平(叩き上げの軍人)の才を認識。以後、積極的に任用した。
諸葛亮は元来、人物眼を備える。蜀政権を盤石にできたのは、当然、人事にも長けていたからだろう。
諸葛亮は、例えば、蒋琬、費禕、董允を高く評価した。彼等は皆、名臣として活躍している。蒋琬は大雑把、費禕は控え目なところがあったが、諸葛亮はしっかり才を看破。
蒋琬は人をまとめることに長け、要所要所では、実務もそつなくこなした。
龐統の政務能力
龐統は劉備に仕えた直後、地方の県令に任じられる。しかし、あまり治績を挙げなかったという。これはやはり、モチベーションが低かったのだと思われる。
かつて、周瑜が南郡太守だった頃、龐統はその功曹を務めていた。功曹は人事官だが、実質、太守の直近の補佐官。
周瑜の死後、龐統は、棺を呉郡(孫権の本拠地)に運ぶ。龐統はこの呉まで、評判が届いていたという。功曹として、色々貢献があったのだろう。
龐統は後に、劉備(当時荊州牧)の治中従事(文書担当)を務め、州の政治を補佐する。日々、劉備の信任を得たという。