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左から、蜀、魏、呉。
諸葛亮-荀彧-周瑜
龐統-荀攸-魯粛
関羽-曹仁-程普
姜維-鄧艾-呂蒙
馬謖-鍾会-諸葛恪
張嶷-張既-賀斉
劉封-曹彰-孫翊
周瑜は、諸葛亮・荀彧と色々違うが、政権を根幹で支えた点は同じ。
劉曄は、談論をあまり好まず、深慮は内に秘める。魯粛の方は、豪放な性格で、芝居がかった振舞いを好む。対照的だから衝突が生じず、ウマが合ったのだと思われる。
勿論、価値観の一致が前提となる。両者共、現実主義の策謀家で、士大夫的倫理に囚われず。
例えば、彼等は一時、遊侠者の鄭宝に付こうとした。
孫策が会稽に進軍したとき、王朗は漢臣として抗戦した。王朗は恐らく、「領地を明け渡せば、混乱の時代が加速する」と考えたと思われる。
しかし、小説「三国志演義」では、王朗は好戦的な性格。半ば、悪役のように扱われる。補佐官の虞翻が、「孫策は正義だ」とか言っている。(勿論、正史にはそんな発言はない。)
また、正史の王朗は、孫策に敗北後、曹氏の元で徳治に努めている。
しかし、演義では、その事績はあまり強調されない。
演義の王朗は、北伐迎撃に望んで参加し、軍師として孔明と論戦。そして、敗れて憤死する。(演義では、魏に付いた人物は、しばしば扱いが悪い。)
因みに、正史の孫策本伝には、王朗の名が一切記されない。「会稽を破った」とあるのみ。
名声高い王朗を討伐したことは、名誉なことではないため、あえて記さなかったのだと思われる。
当初劉備に仕えたが、成り行きで、呂布の配下に置かれる。(これは史実通り。)
その後、劉備のために画策し、呂布が袁術と結託するのを防ぐ。(この画策は史実だが、劉備のためとは記されない。)
呂布滅亡後、いつの間にか、曹操配下の車冑(徐州刺史)の元にいる。(正史では、車冑の元にいたことはない。)
ここでも、陳登は、秘かに劉備のために画策。劉備に城を取らせ、再びその配下に入る。
やがて曹操の軍が来ると、陳登は劉備の脱出を見届け、改めて曹操に帰服。
一方、正史では、呂布の配下になってのち、広陵太守に就任。このとき、内心は曹操の味方。
以後、ずっと曹操サイドの人物で、劉備との関わりは記されない。
但し、広陵太守時代、劉備を称賛する発言をしている。劉備もまた、劉表(荊州牧)との談話の中で、陳登を称賛。
三国志演義では、自称「東呉の徳王」。一度聞いたら忘れないネーミング。正史には記されないが、何らかの民間伝承があるのかも知れない。
徳のエピソードは特に記されず、孫策の敵の一人という扱い。敗走後は半ば野盗と化す。
史実では、土着豪族として、既存の秩序(及び既得権益)を守ろうとした。悪行の記述は、特にない。
良くも悪くも、正史にない味がある。
三国志というコンテンツが、ここまで世に広まったのは、演義の物語がそれだけ秀逸だからだろう。
しかし、演義の脚色の中には、余計としか思えないものもある。
例えば、黄巾討伐の陣中、董卓が無官の劉備を蔑視。また、袁術が孫堅への兵糧を差し止め、孫堅は董卓軍に敗北。あと、曹操が劉琮を闇討ちさせて殺害。この三つは、ただの悪意ある脚色だろう。
正史の袁術は、孫堅が勝利してのち、兵糧を差し止めている。(孫堅の台頭を警戒した点は同じ。)
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三国の人物
役割、タイプが類似する三者。(正史準拠。)左から、蜀、魏、呉。
諸葛亮-荀彧-周瑜
龐統-荀攸-魯粛
関羽-曹仁-程普
姜維-鄧艾-呂蒙
馬謖-鍾会-諸葛恪
張嶷-張既-賀斉
劉封-曹彰-孫翊
周瑜は、諸葛亮・荀彧と色々違うが、政権を根幹で支えた点は同じ。
魯粛と劉曄
魯粛は、孫家に仕える前、劉曄と親交あり。劉曄は、談論をあまり好まず、深慮は内に秘める。魯粛の方は、豪放な性格で、芝居がかった振舞いを好む。対照的だから衝突が生じず、ウマが合ったのだと思われる。
勿論、価値観の一致が前提となる。両者共、現実主義の策謀家で、士大夫的倫理に囚われず。
例えば、彼等は一時、遊侠者の鄭宝に付こうとした。
演義の王朗
正史の王朗は、基本的に漢の忠臣。会稽郡の太守として、領内をしっかり統治。孫策が会稽に進軍したとき、王朗は漢臣として抗戦した。王朗は恐らく、「領地を明け渡せば、混乱の時代が加速する」と考えたと思われる。
しかし、小説「三国志演義」では、王朗は好戦的な性格。半ば、悪役のように扱われる。補佐官の虞翻が、「孫策は正義だ」とか言っている。(勿論、正史にはそんな発言はない。)
また、正史の王朗は、孫策に敗北後、曹氏の元で徳治に努めている。
しかし、演義では、その事績はあまり強調されない。
演義の王朗は、北伐迎撃に望んで参加し、軍師として孔明と論戦。そして、敗れて憤死する。(演義では、魏に付いた人物は、しばしば扱いが悪い。)
因みに、正史の孫策本伝には、王朗の名が一切記されない。「会稽を破った」とあるのみ。
名声高い王朗を討伐したことは、名誉なことではないため、あえて記さなかったのだと思われる。
演義の陳登
三国志演義では、陳登は誰の配下なのか分かりにくい。当初劉備に仕えたが、成り行きで、呂布の配下に置かれる。(これは史実通り。)
その後、劉備のために画策し、呂布が袁術と結託するのを防ぐ。(この画策は史実だが、劉備のためとは記されない。)
呂布滅亡後、いつの間にか、曹操配下の車冑(徐州刺史)の元にいる。(正史では、車冑の元にいたことはない。)
ここでも、陳登は、秘かに劉備のために画策。劉備に城を取らせ、再びその配下に入る。
やがて曹操の軍が来ると、陳登は劉備の脱出を見届け、改めて曹操に帰服。
一方、正史では、呂布の配下になってのち、広陵太守に就任。このとき、内心は曹操の味方。
以後、ずっと曹操サイドの人物で、劉備との関わりは記されない。
但し、広陵太守時代、劉備を称賛する発言をしている。劉備もまた、劉表(荊州牧)との談話の中で、陳登を称賛。
東呉の徳王
厳白虎は、呉郡の豪族。私兵集団を率いたが、孫策に抗戦して敗れる。三国志演義では、自称「東呉の徳王」。一度聞いたら忘れないネーミング。正史には記されないが、何らかの民間伝承があるのかも知れない。
徳のエピソードは特に記されず、孫策の敵の一人という扱い。敗走後は半ば野盗と化す。
史実では、土着豪族として、既存の秩序(及び既得権益)を守ろうとした。悪行の記述は、特にない。
演義と脚色
三国志演義は、独自の脚色を加えることで、物語を豊かにしている。良くも悪くも、正史にない味がある。
三国志というコンテンツが、ここまで世に広まったのは、演義の物語がそれだけ秀逸だからだろう。
しかし、演義の脚色の中には、余計としか思えないものもある。
例えば、黄巾討伐の陣中、董卓が無官の劉備を蔑視。また、袁術が孫堅への兵糧を差し止め、孫堅は董卓軍に敗北。あと、曹操が劉琮を闇討ちさせて殺害。この三つは、ただの悪意ある脚色だろう。
正史の袁術は、孫堅が勝利してのち、兵糧を差し止めている。(孫堅の台頭を警戒した点は同じ。)