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魏晋2


曹操と漢王朝
 あるとき、夏侯惇が曹操に会見。漢王朝の衰退を述べ、新しい王朝を開くことを勧める。しかし、曹操はこう答えた。「例え天命があろうとも、私は周の文王となる。」(「魏氏春秋」。正史「三国志」の註に引用)

 周の文王は、殷王朝の藩国の王。自ら王朝を開くことはせず。
 一方、曹操は当時、魏国(漢王朝の藩国)の王。文王の例に則し、漢王朝を尊重する意を示した。

 勿論、漢の滅亡、王朝設立は、常に曹操の視野にあったと思われる。しかし、あえて自分の代では行わず、子の曹丕に託している。(文王もまた、子の武王が王朝を設立。)
 曹操の本質は、恐らく、時代や社会の変革者。皇帝の名は、特には欲さず。




曹操の強引さ
 曹操はずば抜けた頭脳を持ち、あらゆる分野に長ける。
 取り分け、用兵と法治を得意とした。
 しかし、人心掌握に関しては、完璧ではなかったと思われる。

 例えば、淮南の民を強制移住させ、逃亡されたと記される。(蒋済伝。)また、関中の民の強制移住を主張し、混乱が発生したという。(張既伝。)
 この類の強引さは、非常の時代、ある程度必要だったと思われる。しかし、失政に類するのも間違いない。




魏の政治
 曹操は漢王朝の許可の元、魏国という藩国を作った。子の曹丕は、魏国の体制を基盤とし、魏王朝を設立。曹丕の子の曹叡も、意欲的な皇帝だった。
 曹叡の死後は、司馬氏が台頭し、魏王朝の政治を司る。

 あるとき、呉の張悌はこう発言。「曹操は威を行き渡らせ、民を服従させたが、心を掴んでいた訳ではない。曹丕、曹叡もこのやり方を継ぎ、民に十分な安寧はなかった。その後、司馬懿親子(司馬懿、司馬師、司馬昭)は、政治の煩雑さ、過酷さを排し、率先して救民に努めた。」(「襄陽記」。正史「三国志」の註に引用)

 これは、時代の違いもあると思われる。曹操の時代、豪族が私権を振るい、世の中は根底から混乱。曹操は強権を振るう一方、公平な法を敷き、秩序をだいぶ回復させた。

 なお、司馬氏といえば、権力闘争のイメージが強い。しかし、張悌のこの発言を見る限り、仁政に努めていたらしい。司馬氏は儒家の名族であり、礼教政治に長けていたと思われる。




三人の参謀
 曹操には名参謀が多い。荀彧らだけでなく、劉曄・董昭・蒋済も異才に類する。
 この三者は、活躍時期が、荀彧らよりやや遅い。そのためか、小説「三国志演義」では登場が多くない。しかし、正史を見ると、個性はそれぞれ際立っている。


 まず、劉曄は戦略家。主君の腹心・相談役を務め、常に正確に先を見通す。一方、人事には深く関わっておらず、政治家色はあまりない。総じて、郭嘉に似たタイプと思われる。

 董昭は策略家。状況判断に優れ、臨機応変に奇策を出す。賈詡に似たタイプ。この董昭は、初め袁紹に仕え、次に張楊の配下に入り、その後曹操の元に参じた。複数の主君を渡り歩き、的確に補佐した点も、賈詡と共通する。

 蒋済は戦略家、政治家。緻密で堅実。優れた見識を持ち、絶えず誤りを正す。その一方で、人間性豊かな人物でもあった。




満寵と陳登
 満寵、陳登は曹操に仕えた能臣。活躍時期は違うが、似た部分あり。いずれも、東の要地を担当した。

 満寵は、汝南郡(豫州)の太守に就任。(時期は官渡戦時。)後に、豫州刺史を兼任する。
 一方、陳登は、広陵郡(徐州)の太守に就任。(時期は官渡戦より前。)
 両者とも、決断力、行政手腕を兼備し、領民から大きな信望を得た。

 満寵は後に、揚州都督に任じられる。国境を守備し、呉軍の侵攻を何度も食い止める。
 陳登も、孫策の軍を二度防いでいる。




鄧艾と鍾会
 魏の後期、鄧艾、鍾会という逸材がいた。
 両者、総じて同等の頭脳を持つが、色々対照的な面あり。

 まず、鍾会は、魏の功臣鍾繇の子。鄧艾は屯田民出身で、郡吏から出発。
 政治面では、鍾会は首都圏を治め、朝政にも絶えず関与。鄧艾は農事に長け、国土政策に尽力し、地方官としても活躍した。
 また、鍾会は戦略家、策略家。鄧艾は、稀代の戦術家。

 奇才という点では、鄧艾が上回る。見識、教養は鍾会が優る。




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